あんなにうるさく鳴いていた蝉の音は、パタリと止んだ。
日が雲に隠れて、わたしの思考はすうと冷めてゆく。



「棘に会いたい?」



彼の制止を振り切って危険な場へ赴いた身勝手なわたしに、それを肯定する権利はない。



「条件を飲めば、すぐにでも会わせてあげるよ」



いつの間にか、目の前にあった鉄格子。その奥には、薄らと笑みを浮かべる五条さんがいる。そうしてやっと、わたしは自らの置かれている立場を知る。

望みなんて何でもよかったのだ。ただ、わたしが彼に執着していたから、この人はそれを利用しただけ。

最初は、羞恥心から。でもそれはすぐに引いて、後に残ったのは、彼を騙したという苦い罪悪感。そうして最後に、その優しさを踏み躙り、あまつさえ自分の欲しいものを手に入れようなんて図太い自分に対する気持ちの悪い嫌悪感だった。

胸にぽっかりと空いた穴を無理やり詰め物で埋めたような重さを感じた。それは鼻の奥をツンとさせる悲しみのようなものを宿しているみたいだった。わたしは今までずっとその種を持ち続けていて、それは最近穴の中で芽吹いたようだった。

いくら経っても、わたしは五条さんの質問に、答えることができないでいた。喉に蓋をされたみたいに声を出すことができなくて、もはや自分の感情うんぬんよりも早く答えなければという焦りに駆られ始めてきた頃。



「棘に会いたい?」



さっきとは違って、少し弱々しげな声だった。まるで涙を我慢する小さな子供の頭をそっと撫でるように、少しの寂しさと見えない気遣いを押し込めた響きに、ふと押し込められていた喉のつかえがなくなって、わたしはぽろりと零していた。



「会いたいです」



言葉にすれば、それが自分の中でどれほどの比率を占め、どれほど切実な願いなのか、確かめるようだった。

本来わたしはこの方々に助けられた身だ。わたしはそれに見合うだけの対価を払わなくてはならない。一度は捨てた命。もう失うものは何もない。気分はとても晴れやかだった。透き通るそれは、無色透明ともいえる。



「わたしに出来ることなら、何でも」



五条さんは膝に肘をついて、しばらく黙っていた。

その目隠しの先はどこを見ているのだろうと、ぼんやり考えながら、その視線の流れる方向を追っていけば、そこには窓の形に切り取られた青空があるだけで。雲に隠れていた太陽がぱっとあたりを照らす。こんなに穏やかに流れる時間が、なんだかとてもしみじみと感じられて、ゆっくりと変わってゆく雲の形を見ていた。
ふと、隣から「別に、簡単なことだよ」と、実に明るい声が聞こえてきて、そちらを振り向く。五条さんは最初と同様に貼り付けたような笑みを浮かべていたけれど、最初とは違ってもうその笑顔には特に意味はないということを隠してはいないようだった。




「夏の間、ここで過ごしてほしいってだけさ」




五条さんは「ね? 簡単でしょ?」と首を傾げて笑った。

本当に、そんなことで良いのだろうか。夏の間、という期間も、まあ夏休みということならば、妥当である。あまりにも普通というか、無理難題を突きつけられるつもりでいたから、少し拍子抜けした。本当にそれだけか…? と疑いの気持ちを込めてその後もじいと見つめていたけれど、五条さんはそれ以上を提示するつもりは全くないみたいだった。

あんなに深刻に考えていた自分が途端にアホらしく思えてきて。なんだか煮え切らないような感じ。もう少し無理なお願いでも何でも聞くつもりだったのに、なんて頓珍漢なことを考え、むすと唇を尖らせる。
すると、一区切りつけるようにパンと両手を合わせた五条さんは宙に向かって言った。



「棘、もう入ってきていいよ」



え、と理解する間も無く、部屋の中心を仕切るように垂れていたカーテンにぼんやりと人影が映りこみ、近くに入った割れ目に手がかかる。その隙間から姿を現したのは、少し伏せ目がちに垂れたあの男の子で。

月の色を宿した髪が揺れて、とくんと胸が高鳴って。
だけど、彼は俯きがちに伏せられた視線を、こちらを向けてはくれない。その瞬間握られたようにきゅっと心臓が縮んで、目尻がじんと熱くなって。それを感じながらしばらく呆然としていれば、ふと、彼の耳の先が、ほんのりと赤く染まっているような、そんな気がして。

そうすれば、そんな彼の態度も少しだけ違ったように見えてきて、期待してしまう。ただの勘違いかもしれない。だけど、彼はわたしのことを嫌っているわけではないのではないんじゃないか。お互い少し久しぶりに会って、少し照れくさいだけなのではないか。

……いや待てよ。彼はどこから来たのだろう。五条さんと話している間、ドアを開ける音も、靴音すらも聞こえなかった。わたしは完全に五条さんしなここにはいないものだと、それこそ勘違いだったのでは。全てを理解した瞬間にわたしは沸騰した。



「ごっじょうさん…?! あの、まさか、ずっと裏に…?!」
「そう、なんかごめんね」



五条さんの謝罪には全くといっていいほど誠意を感じない。しかし多少は、雀の涙ほどは、自分に負い目があることを自覚しているらしく、すぐに自らの弁明をし始めた。
曰く、本当は軽く事情聴取をした後にすぐ顔合わせする予定だったのだけれど、思ったよりわたしの彼への入れ込み具合が大きそうだと悟った五条さんが、少しの悪戯を仕掛けたというだけだった。大人げがなさすぎる。つまり本当になんの深い意味もなく、わたしにそれを言わせるだけにあの質問をしたのだった。羞恥心に耐え兼ねて、わたしは顔を覆い隠した。本当に大人げがなさすぎる(2回目)。

発散しきれない熱を放出しながら、不覚にも顔を上げた先に彼がいるものだから、タイミングが良いのか悪いのか、ぱちりと目が合ってしまって、今度はわたしのほうが慌てて視線を逸らした。



「じゃ、あとは若人だけでごゆっくり……といきたいところだけどあと少しだけお邪魔させてもらうよ!」



なんだか楽しそうに見えるのはもう気のせいではない。

もう好きにしろと、心の中で呟くわたしがいる一方で、彼は五条さんの隣に丸椅子を持ってきて、そこへ静かに腰を下ろしていた。

そういえば、あの場所はこんなふうに明るいところではなかったな、と思って、ベッド越しに分かる彼の姿をほんの少し視界に収める。少し俯いた彼の表情はあまりよくわからない。黒い制服の上着はわたしが置いていったものと同じものなのだろうか、と考えたところで心が重くなる。自分で掘った墓穴に自らはまるとは自業自得だなと嘲笑がこぼれそうだ。大きな怪我や後遺症などはとくに無さそうで、気付かれないようにほっと胸を撫で下ろした。

あの闇夜の下では、お月様のように思われた髪色も、五条さんの近くだということも相まって、少しだけくすんだ灰色のように見えた。でもわたしは、自らを透かして映すほど透き通る澄んだ色よりも、少し霞がかったようなくすみのある色のほうが、落ち着いていて好き。好きだなあと、ほんわかと温まるような気持ち良さを感じながら、手持ち無沙汰にシーツを弄る。
「なんかほんとにお邪魔虫になった気分だよ」と五条さんの困ったような声がしたけれど、聞こえないふりをした。


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