人は誰しも、心の中に怪物を飼っている。心の奥の奥に隠された、暗い部分。それは誰にも見られることはなく、誰にも見せられるわけではなく、誰にも見せなくない場所でもある。時に、それは自身に向けて顔を覗かせる。そうしたら、気がつかないふりをするか、その闇に飲み込まれることに抗うか、または身を委ねるか。



「君は死んだ、と思われた」



五条さんの口角が不敵に上がる。確かにその時、わたしに息は無かったという。ここに常駐しているという敏腕のお医者様からのお墨付きで、わたしには死亡の判が押された。

しかし。死体安置所に三日間保管されていたわたしの死体は、全く腐る兆候を見せず、それどころか、ゆっくりと息を吹き返したという。三日目に急遽行われた再検査によって、呼吸無しという判断は覆された。そこで初めて、わたしの身体が一息に数時間をかけていたことが判明したのだ。初日は腹部の上下すら目視では完全に確認できないものだったため誤診されたというわけだった。
そうして、ゆっくり、ゆっくりと、時間をかけて、わたしは呼吸を取り戻していった。

その事実を聞かされても、わたしは素直に喜べないでいた。偶然か、必然か。奇跡、といえば聞こえはいいかもしれないが、あの時のわたしは死ぬつもりで、そんな人間に与えられる奇跡は、果たしてどんな価値を持つというのだろう。これはわがままだ。そういう運命だったのだと、必然だったのだと、受け入れることは到底できそうになかった。もし世界に与えられる奇跡が限られたものだったとしたら、これは無駄遣いだったとしか言いようがない。それは生きるべきだった誰かから報復を受けても仕方がないような後ろ暗い罪深さだった。



「呪霊を取り込んだことによる反動かもしれない」
「……呪霊」



詳しいことは経過観察によって徐々にわかっていくだろうと、五条さんは気楽に考えるよう言った。
気楽に。どうやったら楽になれるのだろう。笑えばよいのだろうか、それともはしゃげばよいのだろうか。楽になるために気を揉むなんて矛盾している。

「はい」と答えて精一杯微笑めば、逆に狗巻くんがひどく傷ついたような顔をするので、わたしは自分で思っていたよりも不器用な人間らしいとちょっとだけ悲しくなった。いや、彼が優しすぎるのだ。



「君の中にいる呪霊の正体は不明だ。何をされるか検討もつかないから、十分気をつけて。異変を感じたらすぐに棘に言うこと。勝手に解決しようとしないこと。許可なしにどこにも行かないこと!」



最後にビシ、と指を刺されて、そんなに勝手な人間のように思われているのは少し心外だとむすりと唇を尖らせていれば、五条さんは「じゃあ今度こそ僕は退散するよ」と腰を上げると、足早に部屋を出ていった。去り際、スラックスの後ろポケットから取り出しつつ、耳に当てられた携帯から、怒ったような女の人の声が漏れ聞こえてしまって。用があったにも関わらず引き留めていたのかと、なんだか申し訳ない気持ちになってしまった。


五条さんが部屋を出たのを確認すると、ガタリと音がして狗巻くんも椅子から腰を上げた。帰るのかと思いきや、彼はわたしの一番近くのベッド側まで歩き寄ると、「ツナ」と言って男の子らしい片手を差し出した。



「ツナってわたしのこと?」



と、小さく笑いながら差し出されたその手をどうしたら良いのか迷って、取り敢えずその手に自分の手を乗せてみた。厚みも太さも全く違う二つが重なって、狗巻くんはわたしの手をつぶれないように優しく握ると、黙ったまま自分の方へ緩く引っ張った。

ぱちぱちと瞬きをしながら、彼に引かれるままに体を移動させて、わたしの足は床に着く。そうすれば素足の裏から冷たくて固い感触が伝わってきて、わたしはちゃんと地に足をつけられているんだなということを実感する。いつの間にか攫われていたもう片方の手と共に、狗巻くんが一歩後ろに下がれば、持ち上げられたわたしの身体はベッドからふわりと舞い上がった。



「わっ」
「!」



永遠かと思われた一瞬、体が宙に浮いて、でもやはりわたしの体は重力に逆らえなくて膝から崩れ落ちた。流れるように背中にまわされた狗巻くんの腕に支えられ、咄嗟にわたしも彼にしがみつく。

そのまま求めるように彼の肩口に顔を埋めれば、ぎゅっと応えるみたいに彼の腕の力が強められた。びくりとするわたしの体に、刻みつけるように回されたそれはまるで太い蛇のようだった。じわじわとゆっくり締め上げられるたびドキドキと大きくなってゆくわたしの呼吸に伴う心体の動きを、狗巻くんはじっと静かに確かめているようだった。

蛇は蛙を丸呑みにした後、蛙を生きながら胃の中でゆっくりと溶かしてゆくらしい。わたしは彼の腕の中でふとそんなことを思い出す。



「……ツナってわたしのこと?」
「しゃけ」
「人の名前も呼んだら駄目なの?」
「しゃけ。明太子」



しゃけは肯定だと分かっている。チクリと小骨が刺さったみたいな痛みが残って、わたしの心に薄暗い影を落とす。最初に思い出した、最後の記憶では、彼の声で紡がれるわたしの名前があったから。

わたしは知らなかった。軽はずみで口にした言葉が、彼の中に燻っていた火種を再発させることになるなんて。これは、彼の優しさに甘んじて、とことん自分のことしか考えられないどこまでも身勝手なわたしへの罰だったのだ。




「……嘘つき」
「!!」




途端に身体がぐいと押し離されて、固い壁に肩を打つ。骨から染み渡る痛みに耐えかねて漏れる呻き声ごと顎を掴まれればぐっと正面に固定されて。反射的に振り払おうと絞り出した力はそれを凌ぐほどの力で封じ込められる。愕然とした。鉄の壁を射るような眼光に睨まれたわたしは蛙そのものだった。

怖い。こわい。コワイ。向けられる憎悪が怖いのか。流れる涙が彼の手を濡らすことが怖いのか。生きたまま消化されるのが怖いのか。恐怖に支配されれば、途端に息の仕方が分からなくなる。


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