なんであんなことを言ってまったのだろう。
嘘つきはわたしのほうで、わたしは、嘘つきの自分の影を狗巻くんに重ねてしまったというのか。彼は嘘なんかついていないのに。彼は彼なりの事情があって、そうせざる負えなかっただけで。あの時聞こえた声もきっと幻聴か何かだったに違いない。決して卑怯者のわたしと同じではない。同じにされてたまるか。
自分が一体どんな気持ちでそれを口走ったのか、ついさっきの出来事が、プツリと途切れた糸のように思い出せなかった。悔やみ切れない後悔の念に苛まれ、その挙句、ミョウジナマエの魂はぽっかりと抜け落ちた。
どうしてわたしは生きているんだろう。この命は何のためにあるんだろう。本当に自分が嫌になる。誰かわたしを代わってほしい。もうこれ以上誰も傷つけないように、こんな思いをするくらいなら、お願いだから誰か、わたしの代わりに生きてほしい。こうやってわたしは抜け殻のような自分の中に閉じこもって、また、逃げ道を探している。
「あんなに言ったのにさ」
ゆっくりと、鉛のように重い瞼を上げると、薄暗い天井が映った。声のした方へのそりと顔を向けば、先程と同じ場所で、至極不満そうに頬杖をつく五条さんの姿があった。
どれくらいの時間が経ったのだろう。最初に目が覚めたときよりは短いようだったけれど、日はもう地平線の下に沈んでいて、仄暗い外からひぐらしの鳴く音がしていた。
「何があったのか話してくれる?」
「……」
糊で貼り付けられた唇は動かせない。聞こえなかったような素振りで、わたしは沈黙を貫いた。散り散りになった綿雲が紫色に染まっている。もう夜になる。ここで迎える、初めての夜だった。
五条さんは重苦しいため息を一つ吐くと「棘もだんまりだし」とぽつりと零した。狗巻くん、話してないんだ。彼が話さないのならば、わたしに話す権利はない。それに、言葉にしてしまったら、色々な想いが複雑に絡み合った結果爆発してしまったこの辛い事実が、ただの喧嘩だったのだと、そう済まされてしまいそうで。そうなってしまったらわたしは、彼に対して募らせていた感情すらどこにあるのか分からなくなって、またあの時の虚無感から今度こそ立ち直れなくなるような、そんな気がした。
「……まあ何事もなかったからいいけど」
「すみま、せんでした」
「君はもう少し自分の中に爆弾を抱えていることを自覚したほうがいい」
「っ……」
体の中にどっしりとした重りを括り付けられたようだった。わたしの自分勝手な行いがこれほどまでに他の人に迷惑をかけるとは思ってもいなかった。死ぬことも許されないわたしは、このまま与えられる部屋に閉じこもって、大人しくしておいたほうが賢明で最善の判断なのかもしれない。そして皆がそれを望んでいるのならば、わたしはそれに従う他ないのだ。
夜の空気が一層しんみりとわたしの心を重く暗く陰らせる。その中で、ぼんやりと浮かび上がる蝋燭の火が、今にも消えそうにゆらゆらと揺れていた。
「もう、わたしは何もしません」
自分が信じられなかった。一つ一つの行動に、誰かを傷つけない自信が持てなかった。それならば、わたしはもう何もしない。何もせず、誰とも関わらなければ、誰にも迷惑をかけることはない。なんて、独りよがりなだけの究極の結論を出して、解決した気でいる。しかし、この場合であれば、的を射ているのではないか。自分でも意識できない、いつ暴れ出すか分からない化け物がわたしの中にいるのだとして、刺激を受けずに静かに暮らすことが求められているのだから。
「あと、出来れば、監察官を変えていただけませんか」
「え?」
「これ以上、迷惑をかけられません。狗巻くんも、わたしには会いたくないだろうし」
「……迷惑ね」
低く呟かれた声に、一瞬ドキリとした。顔を合わせずらいのは本音であるが、それが迷惑かどうかはわたしの決めることではない。ただ、狗巻くんと合わせる顔がないのに、ありがちな言い訳を見繕っただけだった。
「そうやって逃げるのは感心しないなあ、僕は」
そこには突っ込んでこないだろうという希望は木っ端微塵に打ち砕かれて。どうして大人は、大人への返しを十二分に推し量るのに、子供に対しては素直になれと言うのだろう。子供にも言いたくないことや隠したいことの一つや二つはある。一度逃げれば癖になるから、なんて、いつかの学校の先生が言っていたような、そんな言葉は無責任極まりない。結局未来なんて分かりはしないのだ。何がどう転ぶかなんて、それはやってみないとわからない。嫌なものはいつまでも嫌だし、苦しいものはいつまでも苦しいのだから。
「自分が悪いからって見切りをつけるのは簡単だよ。でもね、今回のことに関しては、棘にも責任の一端がある」
何が言いたいのだろうか。責任の所在なんて当事者でもない五条さんに分かるのだろうか。しかし、確かに、全てわたしが悪いのだと思考をシャットダウンしてしまえば、もうそれ以上相手について考えることはなくなる。それはつまり、相手の事情を考えることを放棄して、有耶無耶にしているだけなのではないだろうか。解決を先延ばしにすることは逃げているのと同じではないのか。
そうすれば、年の功なのか、第三者的目線なのか、そちらの方がより客観的に判断ができるのかもしれないと、ふと思った。
「こういう時は、チャンスを与えられるべきだと僕は思う。何度だってやり直しは利くんだよ。死なない限りはね」
それは今までのどんな言葉よりもストンとわたしの中に落ちてきて、ずっと空席だったところを埋めていた。わたしはずっと、生きる理由を見つけることを忘れて、死ぬ理由を探していたのだろうか。やり直し、なんて、簡単なことではない。一度は間違った道を再び後戻りすることは、怖くてたまらない。だけど、その先に少しでも明るい未来が待っているのならば、そのためならば頑張れる気がした。
「もし、許されるのであれば、わたしにもチャンスは与えられますか」
もちろん、と五条さんは微笑んだ。
その直後、静かに病室の引き戸が開いて、そこに現れたのは紛れもなく狗巻くんだった。
「じゃ、あとは若人だけでごゆっくり」
薄暗い部屋の中、五条さんは去り際に狗巻くんの肩に手を置いて何かを耳打ちしたように見えたけれど、特に狗巻くんに反応はなかったから、大したことでは無かったのだろう。五条さんが扉を閉めると、わたし達しかいない病室は完全に夜の闇に包まれた。だんだんと夜の深ける中、暗闇に慣らされていた視界が、狗巻くんの動きを待つが、彼はわたしと距離を保ったまま動こうとしない。このままで話をすることもできなくはないが、わたしはベッドサイドにあるテーブルランプの明かりをつけた。
「……」
「……」
こっちに来てくれない? こっちに来てくれないんだね。全部わたしが悪かったの。いや、これは駄目だ。さっき狗巻くんのこともちゃんと考えると決めたばかりなのだ。
嘘つき。という言葉を、もう一度口の中で唱えてみる。彼はわたしの顔を自分のほうへ正面から向き合わせると、わたしの顔の半分、口元を覆い隠すように、押さえつけていた。それはまるで、自分が言葉を自由に操れないことをわたしにも課して、思い知らせるように。
「……わたし、自分のことばかりで、狗巻くんのこと全然考えられてなかった。考えてるつもりになってた」
鑑みている気になっていた。奢っていた。わたしは彼のことを考えていると思い込んで、彼の姿を見ている自分を見ていた。頭の中で完結して、全てを悟った気になって、思い上がっていただけだった。それは狗巻くんを知ろうとしていることにはならない。ちゃんと向き合うためには、わたしは彼とわかり合う勇気を持たなければならない。
「こっちに来てくれる?」
決定権を委ねてしまうのは甘えだろうか。しかし、一度突き放してしまった身として、彼に対して"お願い"をすることがわたしにできる精一杯だった。そうして今、わたしは今まで自分がいかに受け身でいたのか、彼に甘えていたのかを初めて本当の意味で知ることになる。
心優しい彼ならば、わたしのお願いを受け入れてくれるのだと思う。拒否するとしても、やんわりと諭すのだろう。わたしのように、手酷く拒絶するのではなく。
「……」
暗がりにいる彼の表情は見えない。わたしは、表情を消して静かに俯いている狗巻くんを想像していた。彼も傷ついているだろうし、そう簡単にわたしを許せるはずがないから。だけど、それを顔に出すことはないのだろう。
ふと、彼の気配が移動して、静かな足音がこちらにゆっくりと近づいてくる。テーブルランプの照らす明かりの中に、烏のような黒い制服が入り込んで、わたしはそれを追うように視線を上げていった。
「……!」
わたしは、彼を見たことがあった。
初めて会ったとき。あの時と同様に、悲痛に顔を歪める彼の、それは。焦りと真剣さのあった以前とは違って、今にも零れ落ちそうな涙を必死に堪えるように、ぎゅっと眉を顰めるその姿を、こんな表情を、彼にさせてしまったのはわたしで。
「!」
わたしは咄嗟にベッドから飛び降りて狗巻くんの首に手を回す。きっと、彼が部屋の明かりをつけなかったのは、このためだったのだと思って。いろんな想いで胸がいっぱいになって、ぎゅうと抱く力を強めれば、背中に弱々しく回された彼の手が、わたしの病衣を少しだけ引っ張った。嫌だったのかなと不安になって、体を離そうと少しだけ腕の力を緩めると、彼はわたしの肩に頭を寄りかけて微かに漏れる泣き声を押し殺すので、わたしは静止して、月光を浴びて輝く彼の髪を、そっと撫でていた。
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