ナマエちゃん、リョウくんとったでしょ。
とってない。
嘘つき。だってリョウくん、ナマエ、ちゃんのこと、すきって……言ってたもん。嘘つき!
…………とってないもん……



小さな両手をぐっとお腹の前で握りしめて、涙が溢れるのを我慢していた。わたしが悪いのだと嗚咽を上げる女の子の顔も名前も思い出せないのに、その子の取り巻きが駆けつけて、わたし達の周りにわらわらと人が集まってくる。泣いている女の子に寄り添う彼女の友達は、可哀想なものを見る目で女の子を見ては、ヒーロー気取りでわたしを非難した。

わたしも何か言えばよかったのだ。リョウくんてどの子。わたし知らない。左前の席の子なのか、隣の席の子なのか、教室の一番端の子なのか。わたしはまだ、クラス全員の名前を覚えるにはここで過ごした日が浅すぎた。



ひどい!
サイテー!
もうナマエちゃんとは一緒に遊んであげない!



わたしは悪くない。それを呟いても多勢に無勢で、あちらには届いていないのか、あえて聞かないふりをしているのか、どちらなのか分からなかった。そんなことは多くあった。彼らは、自分に都合の良いことしか入れないフィルターか何かを耳に付けている。

不幸かな、担任の先生がワタワタと走り寄ってきて、その人はわたしを素通りすると、女の子のほうへ事情を説明するように尋ねた。正確には、どうしたの? と猫撫で声で言う素振りをして、わたしはあなたの味方よ、ということを伝えていた。この人とは馬が合わないというか、わたしは一方的に嫌われていたと思う。幼いわたしはそんな言葉は知らないし、キライという強い言葉もあまり使えなかったので、なんだか優しくないということを幼ながらに感じ取っていた。

先生は、彼女の嗚咽混じりの説明を首振り人形と化して真剣に聞く一方で、なんだそんなことかと興醒めしたように無表情だった。



ミョウジさん



そういえば、わたしはこの呼ばれ方も嫌いだった。



謝りなさい。



わたしの弁明を一切聞く気もないこの先生。彼女は一体何を考えていたのだろう。子供のケンカなんて面倒だ、とかさっさと解決してしまおうとか、そんなところだろうか。ただ、その人のわたしをみる目も嫌悪感に満ち満ちていて、わたしに悪いところはないかもしれないけど、という仮定なんか一ミリも持ち合わせていなくて、きっとこの子が悪いのだろうからという強固な先入観の上に会話が成立していた。

わたしは、悪いの定義も曖昧になって、ただぐさぐさと容赦なく突き刺さる言葉と視線の槍に、もしかしたらわたしが悪いのかもしれないと思い始めていた。たぶんこの頃だと思う。わたしの中の心のようなものが、雑巾を絞るみたいにぐちゃりと歪んだのは。



古い記憶の引き出しの中にあったぼろぼろの思い出。その引き出しは、ある時鍵がかけられて、それからずっと開けられないでいた。辛くて悲しい記憶だった。だけど、あの時のわたしに悪い点など一つもなかったのだと、もう時効になってしっまった今、ようやくちゃんとわたしは一つ前に進める。

薄らと瞼を上げた先は柔らかな日差しで満たされていた。
この病室で目覚める二回目の朝。青々とした空と、忙しない蝉時雨の降る、夏の朝だった。



「や」
「おはようございます」



日も高く昇り、世の大人たちが働き始める頃、五条さんも再びこの部屋へやってきた。出入口の枠にもたれて軽く片手を上げた五条さんは、昨日と変わらず、疲れもみせない完璧な笑顔を張り付けていた。




「仲直りできたみたいで良かったよ」
「迎えに来てくださって助かりました」
「いーえ」



まあ僕も棘がああなるとは思ってなかったけどさ。と、呆れたように発せられたその声がちょっとだけ嬉しそうだった気がして、ん? と多少の違和感とともに振り返ってみれば、困ったように眉を下げる五条さんの笑みが、少しだけ、でもわたしにも分かるくらいには破顔していて、驚いたわたしはしばらくの間ぽかんと口を開けていた。

五条さんは昨日の夜更けにふらりと現れた。ベッドの上で肩を並べるわたし達を見て、やれやれと苦笑していた。もしかしたら、その視界には、わたしの肩にもたれかかって泣き疲れて眠る狗巻くんの姿が収められていたのかもしれない。五条さんが狗巻くんを抱えて去ってゆくと、病室にはしんみりとした静寂が戻ってきたけれど、もうそこに空っぽの寂しさはなかった。

決して言葉の多いやりとりではなかった。でもそれだけで十分だった。言葉なんて必要ないとさえ思えた。狗巻くんのほうから聞こえていたすすり泣く声はだんだんと小さくなっていって、その最後、小さく微かに、でも確かに ”ごめん” の声が聞こえてきて、今度はわたしが泣きたくなった。狗巻くんはひどく眠そうで、ぐったりと力なく体をもたれかけてくるので、わたしは必死で(力の入っていない体がこんなに重いとは知らなかった)支えてベッドに座らせると、船を漕ぐ狗巻くんの頭を肩に抱き寄せた。すうすうとわたしの耳元で寝息を立てる彼が無性に愛おしく感じられて、泣き腫らして赤くなった目尻とこめかみの間に静かに唇を寄せ、それが彼の肌に触れた時、ふと正気が戻ってきて猛烈に恥ずかしくなった。



「(これじゃわたしが襲ってるみたい……)」



その後落ち着きを取り戻してきたとき五条さんは来た。もしあの光景を見られていたら一生からかわれ続けそうだ。思い出しただけで顔に熱がこもり始めるので、わたしは頭の中で円周率を数えて、別のことを考えるのに集中した。

じゃあ行こうか。と五条さんがわたしを外へ誘って初めて気が付く。



「あれ、そういえば狗巻くんは……?」
「ん? 棘はもちろん昨日のお仕置きを受けてるよ」
「えっ……?!」
「特別任務だよ」



別に鞭打ちとかされてないからご心配なく、ということだったので、わたしはほっと胸を撫でおろした。任務というのは昨日少しだけ聞いたのだけれど、そのうちわたしも同行して何か手伝うことになるのだろうか。うーん。ちょっと心配である。それにわたしにも非があるのに(というよりやっぱりどう考えても全面的にわたしが悪いのだ。昨日のことがあったとしてもこれは譲れない)、彼にだけ罰則が与えられていることが心苦しくて仕方ない。それが顔に出ていたのか、五条さんがニヤニヤしながらわたしに聞く。



「なに。ナマエもお仕置き受けたいの?」
「なっそういうわけではなく……! それにその言い方はちょっとずるいと言いますか……」
「真面目だねえ」
「……」



ぐうの音も出ない。早速からかわれていて、先のことが頭を過ぎる。
この人には絶対に弱みを握られてはいけない。わたしはそう心に強く刻み付けた。

病室を後にすればちょっとだけ寂しさが尾を引く。わたしが初めて目覚め、ここで初めてわたしを受け入れてくれた場所。結局最後まであの場所にお医者様が来ることはなかった。「あ……」いや、狗巻くんとひと悶着あったあの後、ばたばたと駆け付けた人の中に黒髪の女性がいたような気がする。あのはあまりのショックに放心していたから、周囲のことまで気を回せていなかった。白衣を着ていたし、きっとあの人が呪術高専に常駐しているという敏腕のお医者様なのだろう。


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