城壁のようにそびえたつ校舎群を抜けて、これまた年季の入った宿舎に五条さんは入ってゆく。当然のごとく何の説明もないのでスルーしていたのだけれど、いつの間にわたしはタイムスリップしてしまっていたのだろうか。確かわたしは学校にいると聞いていたのだが、完全にここは城下町だった。
「あの、五条さん。ここは文化遺産だったりしますか」
「どうしたのいきなり」
見た目は古かったけれど寮内は意外と普通でほっとした。五条さんはある部屋の一室で立ち止まると、こちらを振り返って扉を開け、「どうぞ」とわたしを中へ促す。鴨居を跨ぐとき、病衣のズボンが目に入って、あ、と思い出した。最初は病衣で校舎を歩けば目立つかなと心配していたのだけれど、景色に気をとられて飛んでいった。しかしここに来るまで誰にも会うことはなかったため、それも杞憂だったというわけか。
「かなり設備整ってますね」
「一応全寮制だからね」
「全寮制……」
やたらと部屋数が多かったのはその所為か。一部屋でひとり暮らしが出来るくらい整った設備に少し感動する。これなら材料さえそろえれば簡単に自炊も出来そうだ。思ったより充実した生活が送れそうで、わたしは密かに期待に胸を膨らませた。「シャワーもあるよ!」とのりのりで部屋紹介をしてくれる五条さんに若干戸惑いを覚えつつ適当に相槌を打ちながら、わたしは寮内の静けさを感じていた。しかし人の気配がしない。夏休みだし、今の時期、寮にいる人はみんな帰省しているのだろうか。
「あ、そうだ」
洗面所を適当に物色してから出れば、五条さんがクローゼットのほうに近づいて、そこからビニールに包まれた黒い服を取り出した。まさか、と驚きに固まるわたしに、五条さんはハンガーを外したそれを差し出し、わたしはおずおずと受け取る。濃紺の生地に白い糸の刺繍が施された制服。色は正反対だけど、わたしの学校と同じセーラー服。肌触りはパリッとしていて、クリーニングに出したての新品そのものだ。借りてもいいのだろうか。わたしは一応部外者で、一応、厄介者なのだけれど。
「これ……」
「君の制服だよ」
わたしの? と思わず見上げると、五条さんは静かに頷いた。
わたしの、本当にいいのだろうか。そういえばわたしが着ていた制服はどうなったのだろう。いや、もうそんなことどうでもいい。濃紺の制服は、狗巻くんと同じ色。ここにいる間は、わたしもこの学校の一員になることを許されるのだろうか。嬉しさは本物なのに、素直に喜べない自分がもどかしかった。
「ほら着てみなよ」と促されて、しどろもどろになりながら、わたしは先ほど見終えた洗面所に再び格納された。わたしと、制服と、困惑した表情のわたしが映った鏡。せっかく用意してもらったのに、このままやっぱりと遠慮し続けるのも躊躇われて(それにそんなことをすれば無理やり着替えさせられそうだ)、わたしは着ていた病衣を脱いで、慎重に制服に腕を通した。そうすれば、それは見事にわたしの身体にフィットして、それはまるで、この制服はわたしの為に作られ、わたしはずっとこの制服を着ていたのではないかと思われるほど、身体的にも精神的にもしっくりとハマった。端的に言えば、似合っていた。
「五条さ……!?」
洗面所から出ると、部屋に人が増えていた。
「……!」
「おっ」
くるりと灰白色の頭が振り返って、眠たげな視線がこちらに向けられた。狗巻くんだ。いつ帰ってきたのだろう。いつの間に部屋に入って来たのだろう。疑問が一巡して、わたしはハッとこの場合の適切な言葉を探す。ええと。おかえり? お疲れ様? 制服着てみたよ? どれもしっくりこなくて、脳内で瞬時に論争が巻き起こる。そんな、突然。いるなんて、来るなんて聞いてない。心積もりなんて何もできていないし。それに昨日のこともある。そうだ、昨日。わたし何かやらかしたような……と、こっそりしたキスのことを思い出して、突然ボンと頭が沸いた。
「お、おかえりなさい……!」
「ツ、ツナマヨ」
「いいじゃん。似合ってるよ」
ほぼ反射的に両手で顔を覆い隠せば、狗巻くんの気遣うような声と、五条さんの楽し気な声が聞こえてきて。我ながら単純だった。その”似合っている”という言葉が耳に飛び込んでくるや否や、やましい気持ちは一瞬で消え去っていた。わたしはちらりと指の隙間から二人の様子を窺う。そして一歩前へ進み出ると、ふわふわと舞い上がったような気分と少しの気恥ずかしさを胸に、くるりと新しい制服を披露した。
「申し分ないよ」
「本当に嬉しいです」
世界がきらきらと輝いていた。今なら何でも許せてしまえそうで、心の底からこみ上げてきた感謝をそのまま五条さんに伝えた。制服一つで、こんなに幸せな気持ちになれるなんて、自分がこんなに簡単な人間だったなんて知らなかった。でも嬉しくて仕方がないのだ。そういえば、祖父から誕生日プレゼントに初めて一着のワンピースを買ってもらったときも、確かこんな、浮足立った気持ちになった。
ちょっと胸がつっかえてしまう。わたしは感動しているのだろうか。どうしてこんなに心が揺さぶられるのだろう。たかが、制服一つ。でも、わたしには大切だった。今、この瞬間、これはわたしの大切な一部になった。
「狗巻くん、これからよろしくね」
この色に包まれたわたしは初めて、五条さんや彼の隣に立つ資格を得た気がしたのだった。
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