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あの日のふたりはもういない

笙悟さんたちにすっかり瓦礫の山と化してしまった阪神城の後始末を任せ、その場をあとにする。真面目な小狼君は手伝わなくていいのかと訊いていたし私も少々心苦しかったが、彼は「自警団としての仕事も兼ねてるし、何より先に喧嘩を売ってきたのは俺らだしな」と苦笑しつつも気にするなと言ってくれた。彼も少々喧嘩っ早いというか、プリメーラさんが言うところのバトルマニアな気があるが、チームのリーダーを務めているだけあって根は面倒見のいい善人なのだろう。

切り傷や擦り傷、火傷で全身ボロボロなのにも関わらず、小狼君は大事そうに羽根を握りしめて空汰さんたちの待つ下宿先へと駆けていく。期待に胸躍る、とはこのことだろうか。心なしか張り詰めた雰囲気だった小狼君の表情はいつもより緩んでいるように見えた。

――それでも。

「……あの小僧、分かっとるんか?」

「……こら」

いつもの小さなサイズに戻ってポケットの中で揺られていたケロちゃんが小さく呟くが、それを聞き咎めた私はぐいっと彼を奥に押し込んだ。黒鋼さんとファイさんも軽々しく羽根を取り戻せたと喜んでいるような顔とは言えず、やや苦々しげな表情で、少し距離を置いて小狼君に続くように下宿先のアパートの階段を上っていく。

「てめぇは大喜びすると思ってたんだがな」

「……そこまで単純じゃないつもりですよ、私」

少し先を歩く黒鋼さんにやや感心したような視線を向けられるが、発言内容はあまり嬉しくないものだ。思わず憮然とする。

侑子さんは、次元の魔女は、小狼君に対価を差し出せと告げ、小狼君はそれを承諾した。その対価は関係性=B仮に長い長い旅路の果てに羽根をすべて取り戻し、サクラ姫の記憶が戻ったとしても――

「――あなた、だあれ?」

――小狼君を思い出すことだけは、永遠にありえない。

サクラ姫の手を握っていた小狼君の瞳が大きく見開かれる。彼も分かっていた。分かっていた――つもりだったのかもしれない。目を覚ませばいつものように名前を呼んでくれるのだと、心のどこかでそんなことを思っていたのかもしれない。けれど現実はそこまで優しくない。失われたものは返らない。過去には戻れない。ある意味では、彼の知っているサクラ姫はもういない――端的に言えば、彼の知っているサクラ姫≠ヘ既に死んでしまったとも言える。

――なら、当然の摂理として死者は蘇らない。

小狼君の瞳が一瞬大きく揺れる。それが動揺によるものだったのか、あるいは涙だったのか、遠目には分からなかった。俯きながら何かに耐えるように、あるいは刻み込むようにきつく唇を噛みしめていた彼が次に顔をあげたときには、柔らかな笑顔が浮かんでいた。きっと、あの笑顔が彼の素の表情。ただの少年としての、記憶を喪う前のサクラ姫の前で見せていたものだったんだろう。ただ、今はその隅に見るものが見れば分かる悲しみや苦しみといった痛々しい感情が浮かんでいる。

「おれは小狼。あなたは桜姫です」

声は、震えていなかった。

「どうか落ち着いて聞いてください。あなたはほかの世界のお姫様なんです」

「ほかの、世界……?」

鸚鵡返しに問いかけるサクラ姫の瞳はひどく虚ろで、まったく光が宿っていない。羽根が戻った反動に身体が追いついていないのか、あるいは逆にまだ戻った羽根の数が足りないゆえに自我が戻りきっていないのか。

「今あなたは記憶を失っていて、その記憶を集めるために異世界を旅しているんです」

「……ひとりで?」

「いいえ、一緒に旅しているひとがいます」

「……あなたも……一緒なの?」

「はい」

ひとつひとつ確認して拾いあげていくような辿々しい問いかけにも、小狼君はゆっくりと彼女のペースに合わせて答えていく。できるだけ分かりやすく、まだ何も知らない彼女が状況を飲み込めるように。

「……知らないひとなのに……?」

「……はい」

悲鳴が聞こえた気がした。言葉にはならないし、声にも出していない。それでも知らないひと≠ニ言われたとき、小狼君の心は間違いなく悲鳴をあげていた。今までの、彼とサクラ姫がふたりで培ってきた思い出はこの瞬間に音を立てて砕け散った。ふたりにしか共有できない記憶があっただろう、忘れられない記憶もあっただろう。それらは永遠に還らない。――今この瞬間に、誰よりもきっと彼がそれを思い知った。

「サクラ姫、はじめましてー。ファイ・D・フローライトと申します」

私の横で扉に凭れながら控えていたファイさんが私室にすっと入り、一礼する。その仕草は店≠ナ見たときと同じく隙のない優雅なもので、王族である彼女に対して敬意を払ったゆえのものだと察することができた。ぽん、と促すようにファイさんがさりげなく小狼君の肩を叩くと小狼君は悄然とした表情で立ち上がり、ふらふらと頼りない足取りで外に出ていってしまったが、ことここに至ってそれを止める人間はいなかった。

「……未侑さん」

「……いいよ、いっといで」

すれ違いざまにかけられた声はひどく震えていて、去っていく後ろ姿は今にもその場に崩れ落ちてしまいそうなほど頼りなかった。――でも、それが当然だ。私なら、きっと取り繕う暇もなく泣きだしてしまう。

「で、こっちが――」

「黒鋼だ」

また変なあだ名を命名される前にとでも思ったのか、ファイさんの発言に被せるように黒鋼さんが名乗る。その視線は廊下を死人のような足取りで辿る小狼君に向けられていた。

「で、この子が……」

「未侑です。よろしくお願いしますね、サクラ姫」

姫という立場を鑑みて、丁寧な物言いで名乗る。いくら明らかに歳下とはいえ、最初からあからさまなタメ口は失礼だ。

「女の子同士だし、できたら仲良くしてあげてねー。で、最後にこのふわふわ可愛いのが――」

「モコナ=モドキ。モコナって呼んでっ」

ファイさんの掌の上からサクラ姫のもとにしゅたっと跳び移ったモコナは、さっそく親交を深めているらしい。可愛らしい容姿が功を奏したのか若干困惑の色を見せていたサクラ姫の相貌が緩み、いつのまにやら握手にまで漕ぎ着けていた。

「――泣くかと思った、あのとき」

親睦を深めているひとりと1匹をよそに、窓の外で激しい雨に打たれる小狼君を見つめながらファイさんは小さく呟くように言った。

「……小狼君ですか」

「うん。サクラちゃんは、小狼くんの本当に大切なひとみたいだから。だからこそだれ?≠チて訊かれたときに泣くかと思った。……今は、泣いてるのかな」

「さぁな」

降りしきる雨と俯いた顔に隠れて、小狼君が泣いているのかは分からない。ただ、慰めるように彼の巧断が寄り添っている。

「けど、泣きたくなきゃ強くなるしかねぇ。何があっても泣かずに済むようにな。――おまえもそうなんだろうが、小娘」

「……はい」

……やっぱりファイさんに魔法を教えてもらおうと改めて決意する。私は何もできないから、せめて皆の足を引っ張らないようにしないと。――そのための魔力ちからがあるなら、尚更に。

黒鋼さんの言葉に「うん」と同意するように頷いたファイさんは、しかしどこかやるせない表情で「でも」と更に言葉を続けた。

「――泣きたいときに泣ける強さも、あると思うよ」

それは、自分にはそんな強さを持つことはついぞ叶わなかったと、その強さ≠ノ焦がれるようなそんな口振りで。なんとなくその先を問うのはいけないことのような気がして、私も――たぶん黒鋼さんも――口を開くことはできなかった。

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