怪物ロゼッタ
「世間の風は冷たい……」
びょうと音を立てて天井が破壊された大部屋に風が吹き込んでいる。冷たい風のせいか、夜更けだというのに目を覚ましてしまった。
ありがたいことに春香ちゃんが毛布を貸してくれたので言うほど寒くはないしこうして天然のプラネタリウムが見られるのはありがたいが、さすがにこう、なんというか、屋根のない部屋で寝るというのははじめてなので色々とアレだ。
あれから春香ちゃんの厚意により彼女の屋敷に泊めてもらうことになった私たちは、それぞれ別室に分かれて休養を摂っていた。ここに滞在している間は、男性陣である小狼君と黒鋼さん、ファイさんはすぐ隣の大部屋、女性陣であるサクラ姫とモコナ、私はこの大部屋で同室で過ごすことになっている。明日は春香ちゃんの案内で小狼君とサクラ姫、モコナが羽根について何か情報がないか探索する予定になっていた。本来なら私も同行する筈だったのだが、
「未侑ちゃんはお留守番でしょー?」
――この通り怪我をしているので、結局は黒鋼さんやファイさんと一緒に屋敷の留守を任されることになった。
隣で寝息を立てているサクラ姫は傍目には健康そうで、目立った異常は見られない。モコナも詳細は聞き取れないが何やらむにゃむにゃと寝言を呟きながらゴロゴロ転がっているが、専用に宛がわれた小さいサイズの毛布を見事に引き剥がして壁にぶつかりそうな勢いだったので起こさないようにそっと彼女を元の位置に戻して、毛布をもう一度かけ直してあげようとする。
結局、私たちは高麗国に留まっている間は春香ちゃんの屋敷を拠点にすることにした。その代わりと言ってはなんだが、明日留守番組は今日の暴風で壊れてしまった屋敷を修繕することになっている。……主に黒鋼さんとファイさんが。私も手伝うと申し出たのだが、黒鋼さんに「片腕動かねぇ奴に出て来られても迷惑なだけだ」と突っぱねられてしまったのである。
「うーん……」
しかしモコナは、片腕で抱えるには少々重い。右腕だと黒鋼さんよろしく思いっきりむんずと掴むしか手段がないのだが、それだと絶対にモコナを起こしてしまう。たぶん顔がめきょってなる。
――すぐに巻き直せばいいかぁ。
痛みもほとんどないし、すぐに包帯を巻き直せば大丈夫だろう。多少の痛みが走っても、この分なら問題あるまい。無視すれば良い。
内心ファイさんに「すみません」と謝りながら、几帳面に巻かれた包帯を取っていく。
「――っ」
息を呑んだ。正直、目を疑った。
そこに怪我なんてなかった。
そうやって包帯をほどき、左腕が露わになった先には腫れも傷もない肌があった。領主の息子に絞めあげられる前のそれとそっくりそのまま、私にも気付かれないように左腕だけ取り替えたようだと錯覚するぐらいに。
――ありえない、と否定する。
まず、小狼君もサクラ姫も、黒鋼さんもファイさんも私が負傷したのをちゃんと見ているから、そもそも怪我をしたこと自体が夢だったというのはありえない。それはない。
では、ひとりでに治ってしまったのか。いや、絞めあげられたときに負った傷は少なく見積もっても明らかに全治数週間はかかるレベルのものだった。ファイさんが「下手をすると骨にヒビが入ってるかもしれない」と言うぐらいだから、それなりに重傷だったんだろう。布団に入って寝るまではたしかに痛みや痺れもあった――筈だ。
――本当に?
そこに傷があったと証明するのは、今となっては僅かに残る鈍い痛みだけだ。それ以外はいたって正常。かすり傷のひとつも残っていない。……そうだ、小狼君が助けてくれたときに領主の息子の手から乱暴に解放されて商品の置かれた棚にぶつかった。あのときに背中も結構強く打った記憶がある。考えてみれば、今はその痛みもすっかり消えていた。
……背中がどうなっているのか、確かめる勇気はなかった。
嫌な汗が流れて、心臓が馬鹿になったみたいに早鐘を打っている。
変だ。おかしい。肉体としては正常だが、ヒトの免疫力、治癒能力としては明らかに異常だ。あれだけの傷が1日どころか半日も経たずに治るなんてありえない。ただの人間が、薬も塗らずにそんなに早く傷を治せるなんて聞いたことがない。
「……」
自分の感覚が分からなくなる。混乱する。怪我をしたのは本当か? そこに本当に傷はあったのか? いや、そもそも、
――昼に領主の息子に絞めあげられて怪我をした≠ニいうこの記憶は、本物か?
「……馬鹿なことを、」
考えるな。ぺしっと軽く頭を叩き、頭から嫌な思考を追い出す。私は普通の高校生だし、今までの記憶はちゃんと本物だ。明らかに異常な光景を見てしまったものだから、思わず変なことを考えてしまった。だいたい、治ってるんだから皆に迷惑をかけずに済むのはいいじゃないか。うん、そうだ。そのとおり。
無理矢理思考を違う方向に持っていく。治った。治ったのはいいことだ。不自由をせずに済む。迷惑をかけずに済む。済むけれど――。
どっと嫌な汗をかいている掌を寝間着の裾で拭い、ぎこちない仕草でそれでもモコナを起こさないように元の場所に戻す。……両腕は、何の支障もなく動いている。
――不自由をせずに、済むのはいいけれど。
痛みさえ収まりつつある左腕を眺める。傷も腫れも治っていつもどおりに動く自分の腕が、得体の知れない別の生き物に見えるような気味の悪い感覚。それだけは、どうしても拭い去ることができなかった。