悲しみは日常に潜む
「なんでっ、俺が、人ん家、直さなきゃ、ならねぇんだ、よっ!」
青天の下、黒鋼さんの不平不満が耳に届く。次の日、約束どおり黒鋼さんとファイさんは一宿一飯の恩義として、領主によって破壊された春香ちゃんの屋敷の修繕に勤しんでいた。といってもファイさんは「オレは力仕事とかそういうのは向いてないからー。そっちは黒様の仕事ね!」と巧みに黒鋼さんに重い仕事を押しつけ、自分は屋根の上でトンカチを振るっている黒鋼さんに木材を渡したり、逆に余った木材を片付けたりするだけのお仕事。小狼君とサクラ姫、モコナのふたりと1匹は、春香ちゃんの案内で街の観光という名目で羽根の手がかりを探すための探索に出かけていた。
「1泊させてもらったんだから当然でしょー。……あ、未侑ちゃん、何か分からない所があったら気軽に言ってねー。オレもちょっと疲れてきたところだから、気分転換ー」
「は、はいっ」
「てめぇはさっきから俺に厄介事押しつけるばっかでほとんど動いてねぇだろうが!!」
ちなみに私は机の上でファイさんが用意してくれた課題に励んでいる。この前押しつけるように頼んでしまった魔法の勉強の一環だ。といってもファイさんがいた国――セレスというらしい――の言語体系は私にはよく分からないので、紙に描かれたイラストなどをヒントにまずは
今使っている紙は、一口に紙≠ニいっても私がいた世界で使われていたような綺麗に成形されたものではない。竹や木綿など原料になった植物の繊維が剥き出しになっているごわごわしたもので、使っている筆記具も当然ながらボールペンやシャープペンシルといった便利なものではなく春香ちゃんに貸してもらった墨と筆である。高麗国では印刷や印紙などの出版技術が発達していないようで、手紙をしたためるなど文字を書くときはこうして1枚ずつ手書きになってしまうらしい。正直、慣れないのもあってちょくちょく筆先が繊維に引っかかるので結構書きにくい。
で、こうしてちょっと勉強しながら分かったことがあるんだけど。
――ファイさんの国って、フランス語圏?
なんとなくだけど、単語の発音が英語ではなくフランス語を彷彿とさせる。勿論、彼がいた国が文字通り別次元に存在していた以上、あくまで「私がいた世界の文化に当てはめるなら」という前提がつくが。
そういえばこの前、阪神共和国にいたときも赤ワインのことを「ヴァン・ルージュ」と呼んでいた。ルージュ≠ヘフランス語で赤≠指すから、やはり私がいた世界で言うならフランス語圏に近い文化圏に住んでいたのだろう。
「ええっと、こっちが
黒鋼さんとファイさんの会話をBGMにむんむんと唸りつつ課題を進める。
ファイさんは「誰かを傷付けることよりも、まずは自分の身を守ることを考えて」と今のところ私には防御魔法しか教えていない……らしい。細かい違いは私にはよく分からない。今集中的に覚えている呪文は
――魔法、か。
昨夜、私が見たあの高速治癒。あれも魔法なのだろうか。でも私は今のところてんで魔法は使えないし、今までもそんなものとは無縁だった。なのにどうして、あんな風に異常なまでに肉体の修復――気味の悪い言い方だけど、本当に治癒と言うより修復と言った方が適切な早さだった――が進んでいたのか。怪我してすぐに包帯が取れるなんて不自然だから、包帯はとりあえず巻き直したままにしているが……。この治りの早さも、異世界を渡った影響?
……ファイさんに、訊いた方がいいだろうか。
「大丈夫? 分かる? ちょっと難しかったかな」
「あ、い、いえ! 大丈夫です! 大丈夫ですからっ」
ぼーっとしている私を見てどこかで躓いていると判断したのか、ファイさんがこちらを覗き込んでくる。吐息がかかるほどの距離にうっかり顔を赤くしてしまうが、私に罪はない筈だ。何せファイさんは控えめに表現しても物凄いイケメンさんなのだ。正直、私がいた世界でもそこら辺のモデルとか目じゃないレベルだと思う。
黒鋼さんはファイさんを指して「へらいの」とか言っているが、あれは体格の大きな彼と比べているから相対的に細身に見えるだけでよく見ると結構鍛えているのが分かるし、ふとしたときに見せる仕草はやっぱり男性的で、それでいてこう、細やかな気遣いができるというか――やめよう、なんか今の私凄く変態臭い。
「そう? ならいいんだけどー」
「は、はい。お気遣いありがとうございます……」
あらぬ方向に暴走しかけていた思考回路を強制的に元に戻し、落ち着きを取り戻す。イケメンが好きなのはすべからく女性の性だと思っているが、それにしても今のはあまりにもアレだった。水でも被って頭を冷やしたい気分だ。
「しかし大丈夫なのか、あの姫出歩かせて。しょっちゅう船漕いでるか寝てるかだぞ」
大いなる不満を木材とトンカチにぶつけ、怒鳴り散らしながらも屋根の修理に勤しんでいた黒鋼さんがぼそりと呟きを漏らす。一気に場の雰囲気が重くなった。
「足りないんだよ、
そう、当面のいちばんの問題はサクラ姫の羽根についてだ。彼女が取り戻した羽根は、小狼君が無意識に掴まえていた分を含めても2枚だけ。それを除けばまだたったの1枚のみだ。
「取り戻した羽根は2枚だけ。戻った記憶はあるみたいだけど、まだ意志とか自我とかそんなものがないんだ、今のサクラちゃんには。だから異世界を旅するオレたちに、何も逆らわずについて来ただろ?」
「君は実は異世界のお姫様で、今記憶を失っていて、それを取り戻すために自分たちと異世界を旅しているからついて来てくれ」などといきなり言われ、何の疑問もなくそれを信じ込み、あまつさえ同行を承諾するような人間は普通存在しない。その前の段階で何らかの疑問を示すなどのアクション、または下手をすると物理的な抵抗を示すのが通常の反応だ。しかしサクラ姫にはそれらが一切存在しなかった。顔も名前も知らない私たちの説明を信じ込み、こうして今も唯々諾々とついてきている。
「まあ、羽根が戻っても、」
……そう、それだ。小狼君がどんなに頑張っても、彼女の記憶の中に永遠に彼は戻ってこない。サクラ姫の記憶が、小狼君がいた部分だけ空白の状態で戻ってくるのか、それとも姫が自分の記憶に違和感を覚えないよう上手く改竄された状態で戻ってくるのか。それは分からないが、ひとつ確実に言えるのは、
「――小狼君との思い出は戻ってこないけどね」
空気が重くなる。先程まで壊れた屋根めがけて八つ当たりじみた不満の嵐をぶつけていた黒鋼さんも、小狼君の姫への献身には何か思うところがあったのか、修理の手を止めて複雑そうな表情で俯いていた。
「それでも探すでしょう、小狼君は。いろんな世界に飛び散ったサクラちゃんの記憶の
何ヵ月、何年、もしかしたら何十年とかかるかもしれない。それでも――たとえば黒鋼さんが元の世界に辿り着いてこのメンバーを抜けたとしても、たとえば私が召喚者の許に辿り着いて、元の世界に戻ることになったとしても……たとえサクラ姫とふたりきり残されたとしても、きっと小狼君は羽根を探し続ける。彼女の記憶が全て戻って、本当の笑顔が戻るまで。
――その記憶の中に、自分が存在していないとしても。
「とにかく、修理しながら皆を待とうねー。あ、未侑ちゃん課題終わった?」
「あ、はいっ」
紙に書き終わった解答をファイさんに渡すと、彼の表情がふっと綻んだ。
「ん、満点ー! 頭いいんだねぇ、未侑ちゃん」
「いえ、そんな。ファイさんの教え方が上手いんです」
実際、ファイさんはひとに物を教えるのが非常に上手かった。聞いていてとても分かりやすいし、どこで躓きやすいのかとか、そういうのをきちんと心得ている気がする。……誰に魔法を教わったのか少し気になったが、そこまで深く突っ込むのも失礼だろうと口を閉ざしておいた。
「って、ナニ茶飲んでくつろいでんだよ!」
「んー?」
黒鋼さんから切れのあるツッコミが入ったと同時に、ファイさんの頭にトンカチが激突する。しかしファイさんはけろっとした顔でどこから持ってきたのかお茶の用意をしている。
「やー、黒ぴっぴの働く姿を見守ろうかなーって。あ、勉強一段落したし、未侑ちゃんも良ければどうぞー」
「あ、ありがとうございます……。……あの、ファイさん」
「んんー?」
頭、痛くないんですかと訊くのはなぜか憚られた。優しいのは優しいけど、なんというか、相変わらず不思議なひとだ……。