image

幸福の景色を覚えている

木板にペンキを塗りつける乾いた音が響く。階下の大広間を利用して経営することになった喫茶店のオープンを明日に控え、私とサクラちゃんはファイさんに指示を受ける形で形で店内の最終チェックを行っていた。

現在、男性ふたり――小狼君と黒鋼さんは鬼児狩りとして街に出ている。鬼児は基本的に夜行性なので、ハンターたちの活動も必然的に夜になるのだそうだ。今日は準備のために夜更かししているものの、基本的に昼は活動して夜はちゃんと寝るという規則正しい生活を送っている私には無理な相談である。……やっぱりウェイトレスを選んで良かった……。

「ファイさん、インテリアとテーブルの点検終わりました。そっちはどうですか?」

「ん、ありがとー。こっちも順調だよー」

平バケを使いながら、壁にかける絵を描いていくファイさんの手先は迷いがない。きちんとした絵を描くのははじめてと言っていたけど、これはなかなかの才能ではなかろうか。

私が「ほへー……」と感嘆の声を漏らしている横で、当のファイさんはにゃんにゃんと猫の声真似で鼻唄を歌いながら淀みなく作品を完成させていく。まだ店名を決めかねているので唯一看板だけは仕上がっていないのだが、この分ではその看板もファイさんが手がけることになるだろう。

ノルマが終わって手持ち無沙汰になってしまったので、空いている席に座ってサクラちゃんとふたりでファイさんの作業を眺めていると、いかにも乱暴な手つきでドアが開かれた。どうやら小狼君たちが帰ってきたらしい。

「てっめ――!!」

「あ。おかえりなさい黒鋼さん、小狼君」

「おかえりなさい」

「おかえりー」

「た、ただいま」

黒鋼さんの後ろから続くように帰宅してきた小狼君は控えめに返事を返すが、当の黒鋼さんは私たちのことなど眼中に入っていないらしい。血管が浮き出るんじゃないかというぐらいに怒り心頭の様子の彼が足音も高らかに詰め寄ったのは、ファイさんの方だった。

「よくも……妙な名前つけてくれやがったな!」

「あっ、バレちゃったんですね」

「てめぇも知ってたのかよ小娘!」

胸倉を掴みにかかるんじゃないかというぐらいに怒鳴り散らす黒鋼さんだが、ファイさんはどこ吹く風といった様子だし黒鋼さんが怒っているのもいつものことだ。すっかり慣れてしまった私はぼそっとぼやいたつもりだったのだが耳聡いことにおっきいワンコには聞こえてしまったらしい。ぎゃっ、とばっちり。

「市役所の子が偽名でもいいって言うからさー。でも、この国の字分かんなくてー」

登録用の書類をつくる際、文字が分からないならイラストで伝えようという発想に至ったファイさんは、それぞれをなんとも可愛らしい名前で登録したのだ。そこには堅物な黒鋼さんをからかってやろうという意図も多分に含まれていたのだろうが……。

「これ描いてー、名前は『おっきいワンコ』と『ちっこいわんこ』にしてもらいましたー」

余った白紙に手早く描かれたのは、狼のような姿をした黒い大型犬と茶色い毛並みをしたふわふわの小型犬だ。文字通り黒い方が黒鋼さん、茶色い方が小狼君を指すのだが……それぞれ可愛らしくデフォルメされているものの程良く各自の特徴を捉えていて、見ていて可笑しくなる。

ちなみに同じ要領でファイさんは「おっきいニャンコ」、サクラちゃんは「ちっこいにゃんこ」で登録したのだが――。

「あれ、未侑はー?」

ぴょんっと私の肩に乗ってきたモコナが、怪訝そうな表情で首を傾げる。勿論私も別名を登録しているのだが――。

「私は……えーと……ひ、ひらひらちょうちょ=c…」

ぼそぼそと呟くような声でモコナに答えを返す。うちの華押が由来なんだけど、たしかにこの名前をいつも名乗るのはちょっと恥ずかしいかもしれない……。

黒鋼さんたちの漫才をBGMにそんなやり取りをしていると、小気味良いベルの音を響かせてドアが開いた。

「わぁ、可愛いお店!」

うっとりした表情で入ってきたのは、セーラー服を着たおかっぱ髪の女の子だった。歳は私より少し下ぐらい……ちょうどサクラちゃんと同じぐらいってところだろうか。すぐ隣には、すらりとした体躯の大型犬が彼女を守るように鳴き声ひとつあげず静かに控えている。お客さんだろうか……?

「ここがおうちなんて素敵ですね、ちっこいわんこさん!」

「え、いや、あの……」

屈託のない明るい笑みを浮かべる女の子の横で、さすがにその名前で呼ばれるのは戸惑いを隠せないのか、どう訂正したものかと悩んでいる小狼君をいなしていると続くように軍服のような服を纏った男のひとが入ってきた。物珍しげに店内を見回し、ケーキの匂いが気になるのかくんくんと鼻を鳴らして嗅いでいる。

「いらっしゃいませ、お客さま!」

「おう、邪魔するぜ。……お、美味そうな匂いだな」

「チョコケーキの試作なんですー。開店は明日からなんですけど、良かったら食べてみてもらえませんかー?」

モコナを肩に乗せながら器用に黒鋼さんの剣戟を捌き続けるファイさんの申し出に、来店してきたふたりの目がきらきらと輝く。

「悪いな、おっきいワンコ」

「ワンコじゃねえ!!」

いやぁ、犬だと思うんだけどな黒鋼さんは……。



「やー、賑やかだったねぇ」

「くそっ、犬だなんて認めねぇぞ俺ぁ……」

「常連さんできて良かったじゃないですか、ワンコさん」

「ニヤニヤしてんじゃねぇ、ぶっ飛ばすぞ!」

ワンコさん、のところに含みを持たせて言うとすかさずツッコミが入ってくる。うーん、こうも打てば響く反応を返してくれるとは……少しファイさんの気持ちが分かるかもしれない。

やってきたお客さんはそれぞれ猫依譲刃、志勇草薙と名乗り、どうやら鬼児狩りをしているときに小狼君たちとたまたま出会った流れで来店することになったらしい。鬼児狩りを生業にしていて、特に譲刃ちゃんはサクラちゃんと歳が近いこともあってすぐに意気投合していた。ふたりともうちのメニューを気に入ってくれたし、サクラちゃんには友達ができそうだし、忙しいながらも有意義な日になって良かったと思う。

「でも、妹分が離れていく気がしてちょっと寂しい……」

「未侑ちゃん、サクラちゃんのこと可愛がってるもんねー」

小狼君とサクラちゃんは一足先に上の私室に上がっているが、私はまだ目が冴えているので散らかった店の片付け――主に黒鋼さんとファイさんの追いかけっこによる被害だ――を手伝っている。

「おい、ここにあるのは全部要らねぇやつなんじゃねぇのか」

「あ、じゃあ黒様それ上におねがーい」

「パシってんじゃねぇよ!!」

「わ、私も手伝いますから……」

苦笑しつつ、黒鋼さんから私でも持てそうな軽い荷物を受け取り担ぎ上げる。よし、これぐらいならいけ、る、か……?

「重いでしょ、オレも半分持つよー」

軽くよろめきそうになる私をファイさんが後ろからそっと受け止め、荷物を受け取る。その手つきはしっかりしたもので、ともすれば普通の人より細く見える彼でも確かに男性なのだと改めて意識させられた。

「あんまり無理しないでね」

「は、はいっ」

耳許で囁かれ、思わず肩が震える。ひぃ、耳と心臓に悪いぞこれ……。

「なら最初からてめぇがやれよ……」

「えー。オレ、力仕事は専門外だしぃー」

「嘘つけ、てめぇはそれなりに鍛えてるしどっちかっつーと着痩せする方だろうが」

「……あの、そーゆー話はできれば男性だけのときに……」

まがりなりにも思春期の女子高生を自認している身としては若干恥ずかしさが、こう……。

そんな風に3人でわいわいと話しつつ、寝静まっているであろう小狼君を起こさないようできるだけ忍び足で彼の部屋の前を通りすぎようとして――その声で歩みが止まった。

「――わたしと小狼君って、いつ会ったの?」

小狼君の私室から聞こえてきたのは、縋るように問うサクラちゃんの声だった。同じように聞き咎めたのか、黒鋼さんとファイさんも厳しい表情で立ち止まる。

……その問いは、ある程度予想していたものだった。

まだ記憶に欠落があるとはいえ、以前と比べるとサクラちゃんは見違えるほどに言葉や感情を顕わにするようになった。楽しいときは声をあげて笑うし、悲しいことがあれば悲しそうな表情をする。心配事があれば元気もなくなる。おかしいと感じることがあれば疑問を口にするし、看過できない理不尽を見れば怒りや嘆きを感じることもあるだろう。

阪神共和国で最初に目覚めた直後の抜け殻のような状態と比べれば雲泥の差であることは、誰の目にも明らかだった。あのときは自分たちと一緒に旅をするのだと言えば無条件に頷いていたが――もし仮に、今の彼女に逆にこの旅のメンバーから外れてくれと言ったとして、それを唯々諾々と受け入れるようなことは絶対にないだろう。反発し、なぜそのような選択をするのかと糾す筈だ。

それは、それだけ彼女が人間らしい感情の機微を取り戻してきたということであり……旅を続けるなら、なぜ小狼君がここまで自分に尽くしてくれるのかという疑問を抱くのは彼女の性格上避けられないことだった。

「もしかして……小さい頃から知ってて、すごく大切なひとなんじゃ……!」

限りなく正解に近い疑問の声は、しかし最後まで小狼君に届くことはなかった。最後まですべて伝える前に、糸の切れた人形のように彼女自身の身体が頽れてしまったのである。しばらく何かに抗うように目蓋を開こうとしていたサクラちゃんだが、ほどなくして深い眠りに落ちたのが遠目にも分かった。

「なんだ、今のは」

「――対価っていうのは、そんなに甘くないってことだよ」

黒鋼さんの端的な問いに答えを返したのは、ファイさんの厳かな声だった。その顔には暗い影が落ちているが――それは夜闇のせいだけではないだろう。

「誰かがサクラちゃんと小狼君の間にあったことを彼女に教えても、サクラちゃんの中でその情報はすぐに消去される。サクラちゃんが自分で思い出そうとしても同じだね」

気絶するように眠っているサクラちゃんを抱きしめる小狼君の表情は、こちらからは陰になってしまってよく分からない。

「サクラちゃん、今の記憶はどうなるんでしょう……」

自然と私の表情も翳る。いつも仲良しな小狼君とサクラちゃんだけど、特に小狼君はたまに彼女に向ける視線が明らかに異性を見るものだった。それだけ彼がサクラちゃんを大切にしているということなのだろうけど――、

「彼女に疑問を差し挟む余地が生じないように、都合のいいようある程度改竄されるかもね。矛盾が生じないように、小狼君の部屋に来たっていう記憶自体なかったことにされるのかも」

――それはどんな孤独だろう、と想像してみる。自分がどんなに頑張っても、好きな子の自分との記憶は戻らない。どんなに小狼君が身を粉にして奮闘して、長い旅の果てにすべての羽根が揃ったとしても……その中に幼馴染みの小狼≠ヘ存在しない。覚えていないのだ。

彼女の笑顔が見たい。そう言えば聞こえはいいけれど――端的に言って、小狼君にとっては報われることのない旅路だ。サクラちゃんとの幸福は、今となってはもはや彼の心の中にしか存在しないひどく頼りないものになってしまった。

「小狼君は分かってたのかもね、こうなるって。羽根を探して、サクラちゃんが記憶を取り戻して小狼君との関係に疑問を持っても、差し出した対価は戻らないって」

「だからガキは姫に言わなかったのか、以前自分と姫がどういう関係だったのか」

「それを言ったら、どっちにとっても傷付くだけになっちゃいますしね……」

私はあなたのためにこんなに頑張った――私だったら、そんな風に言ってしまいそうだ。けれどそれは真にそのひとを思うなら決して言ってはいけない言葉だし、こと小狼君たちに限って語るなら仮に口にしたとしても無意味なものだ。そしてそれを承知の上で、しかしそこまで心を強く持てる人間はきっととても少ない。やっぱり私たちは見返りを求めてしまうものだから。

「……それでもやる≠チて決めたことはやる≠でしょう、彼は」

かすかな呟きがひとつ、月光に照らされながら落ちる。小狼君の献身は、支払った対価ゆえに正しい意味でサクラちゃんに届くことはきっとない。

――それでも、また新しく得られるものがあればいいな。

失ったものは戻らなくても、それを補えるぐらい新しく得られる何かがあればいい。そんな風に祈りながら、できるだけ物音を立てないように3人で小狼君の私室を離れた。

ALICE+