遠くに、行きたい ライターからオレンジ色の炎が飛び出してタバコに燃え移る。吐き出した煙が薄暗い路地裏を漂い消えていく。湿った空気がジェイソンの肌を撫でていった。もうすぐ雨が降りそうだ。 30分ほど頭を冷やして家に帰ろう。朝にはブルースと会話できるくらいには落ち着いているはずだ。 またタバコを咥えて煙を吐き出す。黒く煤けたコンクリートの上に異臭を放つゴミの破片が散らばっていた。すえたような臭いがする。猫がジェイソンの頭上高く、塀の上で短く鳴いた。少年がふざけ半分で猫を見上げる。 「にゃあ」 マネして鳴くと猫が目を見開いた。黄色い目がじっとジェイソンを見ている。もう一度 「みゃあー」 と鳴いてみると、猫が身を乗り出してくる。笑顔で両手を差し出すも、猫は突然動きを止めて空を見上げて逃げ出してしまう。 ジェイソンの頭上に影が差し、聞き覚えのある声がする。 「リトルウイング! こんなところでなにしてるんだ?」 声の主はディック・グレイソン。グラップネルガンで上空を飛んできたらしい。。 ブルードヘイブンで自警活動をするナイトウイングは初代ロビンだ。ジェイソンの先輩にあたる、バットマンの相棒。 「ナイトウイング、あんたこそこんなところでなにしてんだ?」 声は少し震えてしまった。 「いや、用事で実家に帰る途中だったんだ。パトロールがてらと思ったらお前を見つけてさ」 嘘だ。わかっている。どうせブルースに言われてきたのだ。ジェイソンと口論になって、サイドキックとの話し合いが不可能だと判断した時彼は"元サイドキック"に頼る。 『お兄ちゃんちょっと弟宥めてきて』という奴だ。ジェイソンはマトモに家族というものを知らないが、話に聞く限り男兄弟のいる家庭ではたまにあるらしい。 ナイトウイングが了承も得ずにジェイソンの隣に降り立ち、少年の咥えていたタバコを取り上げた。 「こんなもの吸うなって前も言っただろ」 「うっせーな」 ディックがタバコを地面に落とし、足で火をもみ消した。ジェイソンの生意気な態度にも眉を顰めず、困った様に笑う。 「荒れてるな。ブルースと喧嘩でもした?」 知ってるくせに。という言葉を少年はなんとか飲み込んだ。黙っているのを了承と取ったらしく、ディックがジェイソンの頭を撫でる。 「あの人もお前も頑固だもんな。僕もよく喧嘩したよ」 懐かしそうに目を細める男を見て、じゃあサイドキックに戻りゃいいのにと喉元まででかかった。 初代ロビン、ディック・グレイソン。 あらゆる面でジェイソンの上を行く男。 ジェイソンの周りには現在、ロビンとしてのディックを知る人間ばかりで構成されている。 「たまには息抜きも必要だよな。今度ブルードヘイブンに遊びにこいよ。パトロールはどうせ夜だろ? 昼間にいろいろ連れ回してやるよ」 明るいディックの声が耳障りだった。 ディックは優しい男だ。面倒見の良い男。だからバットマンも頼りにするし、ヒーローたちにも信頼されていて、敵も恐れる。 「いいよ、ディックだって仕事あんだろ」 「別に365日仕事してるわけじゃないんだぞ?」 「休みの日は休めよ」 「なんだよ、付き合ってくれたっていいだろ?」 ニコニコと笑うディックはそれとなくジェイソンを気遣ってくれているのだろう。ブルースとの衝突は自分も経験があるし、放っておけないといったところか。 「女誘えよ。引く手あまただろ」 生憎ブルースとの衝突なんてものはジェイソンにとって結果でしかない。それまでの鬱憤の積み重ねがバットマンとの衝突となって形になっただけのこと。 ディックが不満そうに口を尖らせる。 「可愛くないなお前」 「悪かったな」 ジェイソンがロビンになってまず躓いたのは、ふとした瞬間ブルースの目に映る『自分ではない誰かの残影』だ。 それがディックの後ろ姿だと気づくのに時間はかからなかった。 「なあジェイソン。真面目な話、やりたいこととか、行きたいところとかないのか?」 別にジェイソンは完全に『ディックの代わり』として扱われているわけではない。ブルースはきちんとジェイソン自身を尊重してくれているし、路地裏で拾った薄汚い少年を家族として扱ってくれている。ただふとした瞬間、家を出て行った"長男"の姿を重ねてしまうだけ。 ブルースもディックも悪くない。ジェイソンがただ子供なだけだ。 犯罪者に初代と勘違いされて『腕が落ちたな』と言われた時も、ディックの友人に『戦い方が違うから戸惑った』と言われた時も、別に気にするほどのことではなかったのに、ジェイソンが勝手に拗ねただけだ。 長いことサイドキックをやって、独立しても上手くヒーローとして立ち回っているディックより、クライムファイトを始めたばかりのジェイソンの『腕が落ちる』のは当たり前のことだし、別人なのだから『戦い方が違う』のだって当然だ。 どちらもジェイソンを貶める意図はない。 悪人のほうはまあ、挑発のつもりもあったのだろうが。 ディックに顔を覗き込まれたジェイソンは、なんだか身体から一気に力が抜けてしまった。 ただジェイソンが子供なだけだ。全部、気にするほどのことではない。 だから時間が欲しいのに、ブルースもディックもアルフレッドも、善意からジェイソンをひとりにさせてはくれなかった。 「……遠くに、行きたい」 自分のこともディックのことも知らない人間しかない場所にいきたい。頭を冷やす時間が欲しい。 「旅行か! いいね、どこに行きたい? 連れてってやるよ」 お前のいないところとは言えず、ジェイソンはただ曖昧に笑った。 [しおりを挟む] 目次 戻る |