思い出のあとさき

あとのことは知らない


「だからさぁー、俺がサーカスで見たお前はぁー本当すごくて……」

「もう聞いたよ」

「自由でさ……幸せそうで……俺が、俺が憧れてたもん、全部持ってて……」

「うん、その、わかった、わかったから……」

「あん時から、お前は俺のヒーローだったんだよ……」

「あの、本当、勘弁してくれないか。恥ずかしいから」
 
 酔っ払いの戯れ言が、手に持っている酒以上にディックの体温を上昇させていた。
 ブルードヘイブンにある小さなバーには客が数人いたが、それぞれが静かに自分の時間を過ごしている。オレンジ色の光に、木で出来たカウンターテーブルが照らされていた。カウンターの中にはあらゆる種類の酒が並べられた棚があり、棚を背にしてバーテンダーが立っている。ディックから四つ離れた席の男がバーテンダーに話しかけていた。
 ディックの横の席では、ジェイソンが赤い顔でカウンターテーブルに突っ伏している。片手に空のウイスキーグラスを握りしめ、幸せそうに笑っている。ディックが助け起こそうとしても、身長も体格もジェイソンのほうが上なせいで上手くいかなかった。脱力した人間の体は異様に重い。
 もう少し酔いが醒めたら、なんとか担いで帰れるだろう。その場合ディックの部屋に放り込むことになるが、それは仕方がない。ここまで酔っ払ったジェイソンが悪いのだ。

「ほら、ジェイソン、もう飲むなよ」

 ディックが男の肩を揺すっても、ジェイソンは妙な唸り声を上げるだけで動かない。

「ショー見たのはぁ、1回だけだったけど……テントには、何回か、行ったんだぜ……」

 ここまで話すのは初めてだ。またディックの顔が赤くなる。一体何杯飲んだのか。

「はぁー、ジェイソン……お前なぁ」

 きっかけは些細な事だったと思う。ブルードヘイブンでジェイソンにあった。それだけ。そこから、せっかくだからふたりで飲もうという話になった。例の共闘以来、少しギクシャクしていたふたりの関係は少しずつ改善されている。
 ディックがオススメのバーにジェイソンを連れて行って一時間半ほど。ハイペースで飲んでいたジェイソンがすっかり酔い潰れて今に至る。
 顔が赤くなったあたりからジェイソンはずっとフラインググレイソンの話をしていた。最初に話された時も気恥ずかしさと驚きが襲ってきたが、こう何度も話されると圧倒的に羞恥心が勝ってくる。
 出会った当初から生意気盛りだったジェイソンが、まさかこんな風に思ってくれているとは思いも寄らなかった。
 ディック自体は、いつジェイソンが自分のショーを見ていたのか心当たりすらない。演技に集中しているし、そもそもスポットライトの向こう側は薄暗い。観客席はよく見えないのだ。
 ジェイソンには悪いが、ディックが唯一覚えているのは、トレーラーを遠巻きから見ていたひとりの女の子だけだ。他にもそうやって遠巻きから見ていた子供は何人かいたけれど、ディックが特別になりたいと願ったのは彼女だけだった。
 だからジェイソンがテントに何度訪れていても、ディックの記憶では、ウェイン邸で喧嘩をしたのがジェイソンとの初対面だった。
 何人の子供がトレーラーを遠巻きに見ていても、ディックが話をしたのは、特別になりたいと思ったのはあの子が最初で最後だった。
 その子の目はキラキラ輝いていて、今まで浴びたどんなスポットライトよりも眩しくて
 その子の声は蕩けるように甘くて、今まで浴びたどんな拍手喝采よりも心地よくて
 だから特別になりたくて もっと彼女の特別になりたくて 毎日のようにその姿を探していた。
 あの目がもっと輝くところを見たかった あの声がもっと甘くなるのを聞きたかった。
 そんな風に思えたのは、彼女が初めてだった。
 
「おいディックー! 聞いてんのかー!」

 綺麗な宝物になった思い出を反芻しているところに声を掛けられ、ディックは突然現実に引き戻された。

「えっ?」

「ったくよぉ、薄情だよな、本当薄情!」

 いつもは銃をもつ手が、今はディックの服の袖を引っ張っている。腕についた薄い傷のあたりが赤みを帯びていた。
 ひとつため息をついたディックが、別の客と話しているバーテンダーに向かって声を掛ける。

「すいません、水ください」

 これで少しはマシになるだろう。
 バーテンダーが頷くと同時に、横に座った酔っぱらいがまた呻いた。

「何回も話したのに、お前すっかり忘れてるしさ……」

 ディックの目の前に水の入ったコップが置かれる。オレンジ色の光に照らされたそれをどうすることも出来ず、彼は隣に突っ伏す酔っ払いを見た。
 彼は今なんと言った?

「ジェイ?」

 小さな声は擦れてしまって、意識の朦朧とした男にまで届かない。顔の赤いジェイソンは、満足に回らない舌で自分の言いたいことを捲し立てるだけだ。

「思い出すまで絶対言わねぇと思ってたのに、サーカスの話しても、思い出さねぇしさ……」

 ディックがサーカス時代に話したのはひとりだけだ。多少かけられた声に応答はしたかもしれないが、何回も話したのはひとりだけだ。

「ジェイ、待ってくれ。僕らどんな話をした?」

「なに? 酒?」

「いや、そうじゃなくて、さっき何回も話したのにって」

「水くれ!」

「うん、目の前にあるぞ。それで、僕らが何回も話したって」

「水これ?」

「違う、それは空のグラスだ」

 ラチがあかない。ジェイソンはチビチビと水を飲んでいるが、当分酔いが醒める様子はなかった。
 何回もディックと話した、サーカスのテントにやってきた子供。心当たりはひとりだけ。
 いや、でも、あの子は女の子だった筈だ。細くて、声も高かったし、黒髪のショートカットで、青い目の女の子。ちょっとボーイッシュな雰囲気で、多少ガサツな面もあったけれど、それも可愛くて、赤いパーカーがよく似合っていて、いつもズボンだったからスカート姿が見たいと思ってみたりもして、そういえば名前も聞いていなかった。

――あれ?

 そこでディックは、『初恋の"女の子"』が自分の思い込みである可能性に気がついた。細かったのは子供だから。あるいは栄養失調。声が高いのは声変わり前だったから。髪が短く、いつもズボンをはいているなら男である可能性も十分にあり得るのだ。名前だって聞いていないのだから、ディックがその子を女だと判断した要素は、全て主観に過ぎない。もっと言えば、単なる思い込みだ。
 横ではまだジェイソンがチビチビと水を飲んでいる。すっかり逞しく成長した、ディックの弟。

「なあ、ジェイソン」

「あ?」

 アイスブルーの瞳がディックを見る。ああ、あの子の目もこんな色だった。透き通った氷の様な目に不釣り合いな熱が魅力的だった。キラキラ光る様子はガラスのようなのに、とても熱心にディックを見てくるから、もっと見て欲しくて。

「……僕、お前にアイス奢ったことあったっけ。その、サーカスにいた時」

「ンだよ! やっと思い出したのかよ!」

 はい確定!!

 おせーんだよ、と文句を言うジェイソンの横で、ディックは後頭部を思い切り殴られたような気分を味わっていた。
 初恋の子が男で、しかも数年後同じ家に養子として引き取られていたなんて笑えない。これで本当に女の子だったのなら、運命だと信じて突き進めたものを。残念ながら相手は百八十三センチ百二キロの男だ。自分より五センチ背の高い、生意気な弟。
 バレてはいけない。バレたら絶対に、一生からかわれる。
 ジェイソンを女の子だと思っていたなんて。そのうえ初恋だなんて。絶対にからかわれる。多分ダミアンにも笑われる。

「俺ねー、おまえにおごってもらってから、アイスすきなんだぜー……」

 なんで、この男は、知らずに追い打ちを掛けてくるのか。
 心臓が早鐘を打ち始める。耳元で鼓動がうるさい。思わず隣の男を睨み付けると、あろうことか特大の爆弾を落とした後勝手に眠ってしまっていた。
 このバカ、どうしてくれよう。
 心の底から妙な衝動が沸き上がってくる。頭を叩いてやりたいような、このまま捨て置いてやりたいような、無理矢理たたき起こしてやりたいような、妙な衝動。

「おい、ジェイソン」

「んー」

 暢気な寝顔を見つめながら、とりあえずタクシーを拾って、自分の部屋のベッドにでも転がしておいてやろうと決めた。
 あとのことは知らない。こんな状況で眠ったこいつが悪い。

 それに、ディックだって相当酔っていた。


 あとのことは、知らない。
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美しくなんて死ねると思うな