My little bird

2


 血の臭いがする。
 階段を降りた先でディックが真っ先に感じたのは鉄錆のような尖った臭気だった。
 カビの生えた天井からはポタリポタリと水がしたたっている。周囲は薄暗く、しめって生ぬるい空気に満ちていた。外気に触れた肌から汚れていく感覚に、ディックは思わずうなじを撫でる。
 嫌な予感がした。
 廊下に充満する臭いはあまりに強く、つい最近もその場で大量の血が流れたことを示している。
 現在、途上国における人口の爆発的な増加と貧困の連鎖は、世界中に奴隷の供給過多状態を引き起こしていた。子供であればそれなりに利用価値は高いが、使い物にならない場合、二束三文でも売れない。それ故に"維持費"がかからないよう、使い物にならない奴隷を早急に処分しているのだとしたら。連れて行かれた子供達は既に殺されている可能性もある。
 ディックとジェイソンは互いに視線を交わし、ほぼ同時に薄汚い廊下を走り出した。
 コケの生えた通路の隅を黒っぽい虫が走り去る。なんの虫か確認する気は起きない。不潔な通路は思ったより早く終わり、二人の前に締め切られた巨大な扉が現れた。
 扉に背中をピタリとつける。ディックはエスクリマスティックを構え、ジェイソンはホルスターから銃を引き抜く。
 レッドフードの銃が施錠された扉の鍵と蝶番を撃ち抜いた。ガキン、と金属の壊れる音がする。不安定になった扉を蹴破って突入すると、血の臭いが一層強くなった。
 広がっていたのは地獄だ。
 拳銃を持ったスキンヘッドの男がひとり立っていて、その周囲に子供が十数人。ひとりは千切れた右腕に左手を伸ばしたまま力尽きていて、向かい合うように立っている子供はナイフを両手で握りしめ、体を震わせ虚空を見ていた。その腹部からは赤黒い血が大量に滴っており、おそらく、もう長くない。
 他にも首の取れた少女がひとりと、壁に背中を預けて座り込んだまま動かない男の子がひとり。手足のない少女は新しい怪我こそしていないようだったが、相変わらず生気がなかった。彼女の横には、やせ細ってうつろな目をした少女が銃を持って立っている。
 床は真新しい血液と湿った生肉がそこかしこに飛び散りヌラヌラと妖しい光沢を帯びていた。血の海に三人、子供が折り重なるようにして倒れている。頭が潰れて内容物の溢れ出た死体と、両足を切断された子供と、背中に大穴の開いた子供。全体が赤にまみれているため性別も顔立ちもよくわからない。
 他に、両手を背中側で縛られ口を切開された子供の死体と、何の意味があるのか自分の腸を首に巻き付けられて死んだ子供の死体がある。千切れ飛んだ足や手の数はあと数人の存在を示していたが、一見して他に人型のものは確認できない。
 血の海を取り囲むように、三脚に固定されたカメラが設置されていた。
 中央にいるスキンヘッドの男が、ディックとジェイソンに銃口を向けて叫ぶ。

「なっ、なんだテメェら! なんでこんなところまでっ!」

 ディックは思わず手の甲で口を押さえた。
 現代の奴隷ビジネスは全体的に供給過多だ。それ故に"維持費"がかからないよう、使い物にならない奴隷を早急に処分しているところまでは予想できていた。
 しかし、それでは仕入れにかかった金や、運搬・管理費用が回収できない。
 だから彼らは、処分風景を撮影してスナッフフィルムとして売るつもりだったのだろう。
 赤く染まった地獄に浮かんだ子供たちの死体は、なんとかまだ生きている小さな命たちは、彼らにとってポルノ撮影用の小道具くらいの意味しかない。
 人の尊厳は地に落ち、命の値段は、今や最安値を更新していた。
 言葉を失ったナイトウイングは、横に立っていたレッドフードの全身から殺気と怒気が立ち上るのを感じ取る。
 ジェイソンが銃を構え、照準をスキンヘッドの男に向けた。

「テメェッ、このクソ野郎がッ!」

「フード! やめろ!」

 ディックの静止も頭に血の上ったジェイソンには聞こえない。生命の危機を感じたらしい男が、すぐ近くに座っていた手足のない子供を引き寄せ、そちらに銃口を向ける。

「そっ、それ以上ちょっとでも動いたらこのガキを殺すぞ!」

 マスク越しでも解るほど、ジェイソンが発する怒気と殺気が強くなる。彼の持つ銃がゆらりと動き、ディックは声を荒げていた。

「フード! やめろ! 動くんじゃない!」

 男は子供に銃をつきつけたまま「ふたりとも武器を床に置け!」と叫んでいる。凶器を頭に押しつけられた子供はうつろな目で虚空を見続けていた。抵抗する様子もなく、一見すると力尽きて死んでいるようにも見えるのだが、腹が動いているので生きているのだろう。
 ディックがもう一度ジェイソンに視線を移した。彼が「フード」と呼びかけると、ジェイソンの目もディックを見る。
 マスク越しに青い目同士が会話し、ジェイソンが舌打ちして銃を投げ捨てた。ディックもスティックを銃の隣に捨て、ふたりそろって両手を頭の上に掲げる。
 スキンヘッドが子供を掴んだままディックとジェイソンに銃口を向けた。彼は敵から目線を離さず、じりじりと床の武器に近づいていく。
 もう一度ジェイソンとディックが目配せをした。ナイトウイングが視線を仲間から敵に移す。
 
「……抵抗はしないから、その子を離せ」

「信用できるわけねぇだろうが!」

 男の銃口がディックに向けられた。彼はスキンヘッドを睨み付けたまま頭上に上げた手を微かに動かす。袖口に隠していた煙幕弾が床に転がり落ちた。ジェイソンのつま先が小さな球体を蹴り飛ばし、敵の足もとまで運んでいく。
 数秒して、白い煙がその場を覆い尽くした。突然煙に包まれた男が咳き込み、銃口が下を向く。
 レッドフードが小型酸素ボンベを付けて即座に煙の中へ飛び込んでいった。床に落ちた自分の武器に見向きもせず、男の手を掴んで持っていた銃を叩き落とす。

「抵抗すんじゃねぇぞクソ野郎!!」

 ジェイソンの怒号の直後、白く覆われた部屋の奥で銃声が響いた。

「フードッ!!」

 煙が引いていく。クリアになった視界が捉えたのは、床に倒れ込んで脇腹を押さえているレッドフードと、大口径の拳銃を持って茫然としている女の子。発砲したのはおそらくこの子だ。至近距離の攻撃により、ジェイソンの着ていたアーマーを貫いたのだろう。
 スキンヘッドの男は床に倒れ込んでいて、彼の武器は後方に転がっていた。イレズミの入った腕が銃を取ろうと伸ばされる。女の子は煙を吐く銃を握りしめたまま、真っ黒な光のない目でその腕にすがりついていた。

「ねえ、チョコレートちょうだい、チョコレート、チョコ、チョコ、チョコちょうだい」

 繰り返し呟いた彼女は、やがて体をわなわなと震わせ、なにもない部屋の一点を見て絹を裂くような悲鳴を上げ始める。

「はやく! ちょこ! あれがきたの! ちょこあげないと! ちょこあげないとわたしがたべられる!」

 生気のない目と、血色の悪い肌。そして繰り返し吐き出される言葉と突然のパニック症状は、彼女が薬物中毒であることを示している。子供を依存症にして逃げ出さないようにしているのだ。
 スキンヘッドがすがりつく少女を振り払って怒鳴った。

「離れろクソガキ!」

 彼の目に、少女の持っている銃が映る。尻もちをついた彼女に向かって手を伸ばした男は、しかしイレズミの入った腕を、血まみれの手に掴まれてしまった。

「まて、や……テメェ! 」

 ジェイソンだ。動いたせいで脇腹からの出血が酷くなっている。床に赤黒い跡ができていた。まるで乾いた筆で絵の具をなすりつけたような軌跡。
 スキンヘッドの男が怒鳴る。

「離しやがれ!」

 男の足がジェイソンを蹴りつけた。傷から大量の血が噴き出す。

「がっ……!」

 レッドフードが低く呻いたと同時に、ディックの頭に血が上った。
 視界が赤く染まり、心臓が暴れ始める。耳の奥で鼓動がうるさい。体に火がついたような感覚がした。
 気がつくとディックは音を立てず地面を蹴っていて、床に落ちたエスクリマスティックを蹴り上げ放電スイッチを入れていた。
 男が気づいて人質の子供を引き寄せるより早く、彼の頭に放電状態のスティックを叩きつける。バチバチと轟音がしてスキンヘッドの体が酷い痙攣を起こした。「うがぁああああああッ!」という長い悲鳴を遮るため、無防備になった腹部に蹴りを入れ黙らせる。頭をもう一度スティックで地面に叩きつけると、男は完全に動かなくなった。
 殺してはいない。まだ辛うじて息がある。
 スティックを背中に装備しなおしたディックが、慌てて義弟のほうを振り返った。

「ジェイソン!」

 駆け寄ろうとするも、這いつくばったジェイソンに一喝されてしまう。

「まずガキどもが先だろうが!!」

 大丈夫かとか止血をしないととか、もう動くなとか喋るなとか、言いたい事は山ほどあったが、それらをぐっと飲み込んでレッドフードに背を向ける。ナイトウイングはヒーローだ。助けるべき対象がいるなら、まずそちらを優先させなければならない。当たり前のことだった。
 助かるかもしれない命に手を差し伸べ、助からない命の苦痛を和らげ、すべてのやるべき事を終えた後、彼はやっと普通の人間に戻れるのだ。
 ナイフを持って立ち尽くしている子供に駆け寄るヒーローの背後で、子供が気絶した男に這い寄り、彼の肩を揺さぶった。両の目から涙を溢れさせ、口の端からは粟立った唾液がこぼれ落ちている。

「ねぇおねがい! ちょこ! はやくちょこちょうだい! むしが! むしがくるの! ちょこちょうだいよぉおおお!!」

 手足のない子供は生気のない目でそれを見ていた。何の反応も示さず、目の前で泣き崩れる少女をじっと見つめている。
 本当に見つめているのだろうか。
 生きているだけで、意識がないのかもしれない。目だって見えているかどうかあやしいものだ。
 脇腹を押さえたままのジェイソンが少女たちに這い寄っていく。ズルズルと体を引きずる音がナイトウイングの耳に届いた。振り返ることはできないが、きっとまた床に赤黒い軌跡ができている。
 乾いた筆で絵の具をなすりつけたような、命を振り絞ったような痛々しい軌跡が。

「大丈夫だ、もう、大丈夫だ……」

 擦れた声が聞こえる。腹部に穴を開けた子供への応急手当を終えたナイトウイングが思わず振り返った。

「大丈夫……」

 消え入りそうな声を出して、レッドフードが子供達を抱き留め項垂れている。手足のない子供は暗い井戸のような目でジェイソンを見上げ、やせ細った子供はまだ「チョコ、ちょこ」と呟いている。

「大丈夫、だから……」

 その姿は祈りのようにも懺悔のようにも、慟哭しているようにも見えて、ディックは彼の「大丈夫」が、「すまない」と言っているように聞こえた。
[*前]- 2 - [次#]
[しおりを挟む]
目次 戻る
美しくなんて死ねると思うな