3 病院に搬送されたジェイソンが目を覚ましたのは翌日の正午過ぎだった。ベッドの横に座っていたディックが立ち上がる。 「ジェイソン! 目が覚めたのか!」 男が視線を義兄に向けた。思いのほか長い睫毛に彩られたアイスブルーがディックを捉える。凍った湖のように冴え冴えとした色が皮肉げに細められた。 「おかげ様でな。ガキどもはどうなった?」 彼が発した声は少し擦れていて、唇は乾いているようだ。ディックは、弟の顔色が少し悪いことに気づかないフリをする。 「全員、きちんと警察に保護されたよ。身元の確認が取れ次第親元に帰される。そうでない場合は孤児院に。預けられる施設に関しては、後で調査するつもりだ」 「そうか。それで?」 「え?」 薄氷色がまっすぐにディックを見据えていた。残酷な現実さえも睨み付け立ち向かう瞳は、時に本物の氷よりも冷たく光る。分厚い氷の下に、全てを焼き尽くすほどの炎を内包して、彼は乾いた唇を動かした。 「何人が"帰れない"んだ」 問われたディックが弟から目を離した。病院の白い床を意味もなく睨み付け、つるりとした表面についた無数の傷を数える。 「……十五人」 「そうか」 生きている子供たちは全員保護されたが、すでに乱暴された子供たちは、故郷に戻っても居場所がない。とくに女性に関してはそれが顕著だ。インドやネパールの性犯罪被害者は花嫁としての"商品価値"が落ちるため、肩身の狭い思いをする。彼女たちのような"キズモノ"を娶る男は稀で、女性はどこかに嫁ぐ以外、人生の選択肢がほとんど存在していない。 そして警察も医療関係者も、性犯罪被害者への保護や治療、カウンセリングに対して未だ無知である場合が多く、被害届けの受理を拒否したり、調査が遅れたりといった状況も多く発生している。 周囲の人々の無理解と不寛容は虐げられた被害者を再び傷つけるのに充分な威力を持っていて、この圧倒的不利な状況下、結局彼女らは高確率で"嫁ぐ以外の数少ない選択肢"を選ぶ。 今度は自分の意思で、体を売る商売をするのだ。犯罪に巻き込まれた傷を抱え、故郷に受け入れられなかった傷を抱え、体を売って短い一生を駆け抜ける。 重い沈黙がふたりの間に流れた。五秒ほどの静寂に耐えきれず、ディックが顔を上げる。 「でも、NGOの支援がある。自分たちで生計を立てられるように、周囲の理解を得られるように彼らが働きかけてくれる」 ジェイソンは天井を見ていた。睨み付けていたと言ったほうが正しいか。 「そうか。それで、なんとかなりゃいいがな」 再び空気が森閑とする。ジェイソンの目の色も相まって、冬の朝のように肌に刺さるしじまがディックを知らず身震いさせた。 「ジェイソン、目は醒めたけど傷は治ってないんだ。しばらく安静だからな。医者の話じゃ、一週間は入院だってさ」 わざとらしく話題を逸らせば、ジェイソンが目だけを動かしディックを見つめる。氷の目には既に温度が戻っているようだった。 「そんな金ねぇよ」 「ウソつけ。この前コルシカマフィアを壊滅させてただろう。あいつらの資金どこにやった?」 「お前のような勘の良い男は嫌いだよ」 「とにかく、安静にしとけよ」 ジェイソンが目を細める。感情は読めなかった。口の片端を微かに引き上げ「どうせこれじゃ動けねぇよ」と吐き捨てる。一抹の不安を感じたディックが弟の顔を覗き込んだ。 「見張ってるからな」 「信用ねぇな」 男の喉が上下して、口元からクッ、と短い笑い声が漏れた。 「あたりまえか」 それが自嘲のように聞こえて、どこか寂しそうに笑うジェイソンに罪悪感を覚えたディックは、「腹減ってるんじゃないのか」と吐き出していた。 「喉も渇いた」 「いま食事用意してもらうよ」 ディックがナースコールを押すと、しばらくして看護師が食事を運んできてくれる。ナンと二種類のカレーソースに、パックの牛乳だ。出された食事をあっという間に平らげたジェイソンは、「足りねぇ」と小さくボヤいたあとパック牛乳にストローを突き刺した。 微笑ましく様子を眺めていたディックに何を思ったのか、義弟が少し牛乳を飲んだあと、パック牛乳をディックに差し出す。「飲む?」と尋ねられて彼はゆっくり首を横に振った。ジェイソンを信用していないわけではないが、インドでも犯罪者として扱われているレッドフードは、なるべく一箇所に留まりたくないはずだ。ディックに一服盛ってその間に脱走することも考えられる。 「お前が飲めよ。僕は買ったのがあるから」 ディックがミネラルウォーターを取り出すと、パック牛乳をまたたくまに飲み干したジェイソンが今度は手だけを突き出してきた。 「ちょっとくれ」 苦笑してペットボトルを手渡すと、未開封のフタを遠慮なくあけられてしまった。 「酒じゃねぇのかよ、バディ」 「怪我人が酒なんて飲めるわけないだろ」 ジェイソンがフン、と鼻を鳴らした。 別にそれはいいのだが、容器の底を天井に向けてラッパ飲みし、半分以上飲み干されたのには流石に辟易してしまう。ディックは突き返されたミネラルウォーターの残量を見やり、口を尖らせてしまった。 「普通、人からもらっといてこんなに飲むか?」 「喉渇いてんだよ、しょうがねぇじゃん」 なら牛乳を差し出したりしなければいいのに、そこは一応ディックに気を遣ったのだろうか。やけになってペットボトルの残りを飲み干すと、ジェイソンが楽しそうに声をあげて笑う。 しばらくしてトレーを回収しにきた女性看護師に、義弟が愛想良く礼を述べた。直後、彼は隣に座っているディックにやかましく声をかけてくる。寝転がっているだけは「あー、ひまー」らしい。 「グレイソン、トランプしない?」 「しない」 「テレビつけろよ」 「いいけど、ほとんどヒンディー語だぞ。お前わかるのか?」 「あー……ちょっとだけ」 「僕はほとんどわからない」 しばらく下らない会話を続けていると、不意に寝息が聞こえてくる。さっきまで上機嫌で喋っていたジェイソンが目を瞑っていた。目が覚めるのも元気になるのも突然なら、眠ってしまうのも突然だ。 彼がきちんと眠っていることを確認して、ディックも椅子に深く腰掛ける。ようやく人心地ついたと思ったらとたんに眠気が襲ってきた。ジェイソンが病院に搬送された昨夜からまともに眠っていない。自覚すると体が疲れを訴え始めた。一度目を瞑ってしまうと、深淵に引きずり込まれるように意識が霧散していくのを感じた。ぬるま湯につかるような眠気に身を預ける。 彼が次に目を覚ました時、ベッドの上に義弟の姿はなかった。 「……ジェイソン……?」 周囲を見回しても男の姿は見えない。どこかに隠れているのかもしれないと思ったが、そういうわけでもなかった。 ベッドのサイドテーブルにメモが置いてある。白い紙に書かれたアルファベットの羅列は思いの外整った形をしていた。 〈本当手持ちねぇんだ。入院費は奢ってくれ。悪いな。いろいろありがとう。 J〉 時計を確認すると、ディックは三十分ほど眠り込んでいたらしい。すぐさまミネラルウォーターのペットボトルを検査すると、睡眠薬の成分が検出される。簡易調査機の表示を睨み付け、ディックは空の容器を握りつぶした。 やられた。 牛乳を差し出された時はまだ警戒していたのだが、それが次の要求を通りやすくするための布石だなどと考えてもみなかった。まさか自分の買ったミネラルウォーターに一服盛られるとは。口の中にあらかじめ薬を隠しておいたのだろう。ということは、あまり強力な薬ではない 「信用がない」と自嘲したことすらこの一連のトラップを成功させるための布石かもしれなかった。 直情型の特徴ばかり目立つジェイソンは、意外にもこういった心理戦のほうが得意だ。人の弱みや思考のクセにつけ込んで自分の意のままに操る。ブラックマスクの件でも、ブルース不在時のゴッサムで起こったマフィア同士の抗争でも、彼は見事ヒーローとヴィランを欺き通した。 わかっていたはずなのに。 おそらくディックの"わかっていたはず"という思考すら、彼はトラップに利用したのだ。 もう一度メモに目を落としたディックは、小さな紙を一旦ポケットにしまいこみ、病院への説明や手続き、バットマンへの報告を行うためその場を離れた。 まず病院側へ患者が失踪した旨を連絡し、対処と入院費について話をつけたあと養父に連絡を入れる。 (ディックか。どうした) 「仕事は終わった。ジェイソンは逃げたよ。一服盛られた」 (薬の成分は調べたのか) 「ああ。入れられたのは睡眠誘導剤だったよ。睡眠薬とも言えない弱い薬だ。まいったよ。警戒してたつもりだったんだけど」 (レッドフードの動向はこちらでも気にかけておく。お前はもうブルードヘイブンに戻れ) 「ああ。あいつの入院費を払ったらすぐにでも発つさ」 特殊回線での通話を終えたディックがフラフラと病院のロビーへ戻る。何人かが座って診察の順番を待っていた。大きなテレビが中央に置かれ、ニュース番組が放映されている。空いている場所に腰を下ろし、ポケットに入っていたメモ用紙を取り出した。 この後ジェイソンの入院費を払えば仕事は終わりだ。義弟の書いた文字を指でなぞり、また口からため息を吐き出す。 せめて傷が治るくらいまでは大人しくしていればいいのに、自分たちの世話になるのがそんなに嫌なのだろうか。 テレビの画面を見ると、相変わらずヒィンディー語のニュースが流れている。不慣れな言語なので殆ど聞き流すだけになってしまっていたが、突然昨日見たばかりのスキンヘッドの写真が出てきたときには驚いた。 (速報です。今日の未明、人身売買組織のリーダーとされているラケシュ・ヴァイダヤ容疑者が死亡しているのが発見されました。警察は他殺とみて調査を進めています) 他にもいくつかの情報を伝えていたが、ディックが聞き取れたのはここまでだった。ジェイソンがいつ病院を抜け出したかはわからないが、事が発覚してからすでに一時間が経過している。彼ならその間に犯罪者の元へ行き、殺害できるだろう。 おそらくこれは彼がやったことだ。 持っていたメモに目を落とし、義弟の書いた文字を見つめた。思ったより丁寧なアルファベットの羅列。謝罪と感謝の言葉と、最後に添えられた名前の略称。温度を感じる文字と言葉。 きっと彼はこれがやりたくて この事件に自分なりのケリをつけたくて、傷ついた体を引きずって病院を抜け出した。 気がつけばメモを握りしめ、両の拳を額に押しつけていた。 病院のソファで祈るように強く目を瞑り、聞きなれない言葉のニュースを聞いている。 ああ、どうか、神様、と口から小さな言葉が漏れた。 どうか神様。あの子の心の傷が癒えますように。 その役割が僕でなくてもいいから、どうか、あの子の心の傷を癒してくれる人が現れますように。 まるで胸にできた傷を抉って、その血を他人に分け与えているようなあの子の行為を止めてください。 優しいあの子が、人知れず泣かなくても良い世界を下さい。 そのためならなんだってするから。 せめて せめて その小さな羽でずっと飛び続けるあの小鳥の、あの優しくて苛烈な赤い渡り鳥の止まり木になれたなら。 そのためなら 神様 僕はなんだってするから。 どうか 僕の小鳥が傷つかなくて良い 泣かなくても良い 世界をください。 [しおりを挟む] 目次 戻る |