玻璃色フィロソフィア

エピクテトスの雨はまだやまない


――まずいな

 カーテンの隙間から差し込む朝日を見つめ、ジェイソンは冷や汗とともにコンロの火をつけた。上にフライパンを置いて、油を軽く引いてからベーコンを炒める。薄い加工肉がぷくぷくと膨らんできたあたりで、縁の色づいた肉目がけ卵を割り入れた。隣のコンロに置かれたスープ鍋からは湯気が出ている。白い皿にできあがったベーコンエッグを移し替えたあと、スープボウルを二枚取り出した。あともうひとつ、自分の食べるベーコンエッグを作り始めたあたりで、ジェイソンはもう一度

――まずい

 と、心の中で呟く。
 ジェイソンがディックに愛の告白を受けてからもう一年が経とうとしていた。一週間か、長くても一ヶ月あれば冷静になるだろうと思っていたディックは、意外なことにまだ熱に浮かされた状態で、今もジェイソンとの恋人ごっこを続けていた。
 これだけ長く関係が続くと、最初は戸惑っていた周囲も完全に慣れてしまって、ジェイソンがディックの部屋に泊まってもなにも言われない。それどころか妙な気を回されて最近宿泊回数が増えている。やたらとモテるはずのディックに女の影がないのも不思議だった。今まで複数人にアプローチされることも珍しくなかった男なのに、誰かがディックに好意を寄せているという噂話すら聞かない。これではディックに恋人など出来ようもない。
 テーブルセッティングを終えたあたりでベッドルームに繋がるドアが空いた。出てきたのは下着姿のディックだ。まだ髪が少し乱れていて、眠そうな青い目がジェイソンを見てふにゃりと笑う。

「ジェイソン、おはよう」

「おう」

 再度、ジェイソンの脳内で「まずい」と警鐘が鳴った。ディックはそんなことなど気づいていないのだろう。テーブルの上を見て嬉しそうにわあ、と声をあげると、冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出した。コップをふたつとって席につく。

「ありがとう。美味そうだ」

「お前ひとりだとシリアルばっか食うからな」

「ジェイもひとりの時はハンバーガーばっかり食べるだろ」

「ひとり暮らしの自炊は逆に高くつくって知ってたか」

「僕もそれが面倒になってシリアル食べてたんだよ」

 トースターの中でパンが焼けている。それをベーコンエッグの隣に置いてやると、ディックがミネラルウォーターの入ったコップをジェイソンの席に置いた。
 もはやこの一年で当たり前になってしまった朝の風景が胸に突き刺さる。他の誰かがいるはずの場所を、随分長く占拠してしまっていた。

「リチャード」

 名前を呼ばれたディックが顔を上げる。口の端に卵の白身が付いていた。それを指ですくってやると男が照れくさそうに笑う。ふたりの時は名前で呼んで欲しいと言われたのは付き合って半年ほどたった時だったか。そんなことすら言われないと解らない人間相手に、よく恋人ごっこを続けられるものだ。

「お前、俺と付き合ってて失望したりとかしねぇの」

 ジェイソンの口から滑り落ちた言葉に、ディックが笑い声をあげる。

「なんだよそれ。そんなわけないだろ。もっと好きになってくだけだよ」

 模範解答。本心で言っていると解るから始末に悪い。本当に向けるべき相手に言えばきっと泣いて喜ぶし、ディックも相手も幸せになれるだろう。
 端正な顔立ちの男がジェイソンの髪を撫でた。

「お前は?」

 優しい低い声が耳朶を打つ。

「どーだかな」

「そこは俺もだとか言えよ」

「キャラじゃねぇよ」

 それ以前に言う資格すらないわけだが、どうにも上手くいかないものだ。自然消滅するまで付き合うつもりだったが、無理矢理にでも別れたほうがいいのかもしれない。"つなぎ"の期間ばかり長くなって、ディックに恋人のできる気配がないのだから。

「飯、食い終わったなら後片付けやれよ」

「はーい」

 テーブルに置かれた皿たちが、ディックの手でシンクに運ばれていく。水の流れる音がする。食器洗い洗剤の匂い。ふわりと浮いた小さいシャボン玉を見て、そろそろ洗剤がなくなりそうだなとジェイソンは思った。買い足しておかないといけない。
 次々綺麗になっていく皿たちが水切り台に置かれていく。すべて終わったところでディックが顔を上げた。

「ジェイソン、コーヒー飲む? インスタントだけど」

「じゃあ頼むわ」

 しばらくしてコーヒーが出てきた。ふたりでニュースチャンネルを眺めながらのんびりと過ごす。ジェイソンの脳裏に、本当の恋人のようだという言葉が過ぎった。すぐに打ち消す。そんなことを思っているからディックにいつまでたっても恋人ができないのだ。

「リチャード、あのさ」

「お前は、僕の"気の迷い"に付き合ってくれてるんだろ?」

 ジェイソンの動きが止まった。ディックは自然な動きでコーヒーを飲んでいる。まるで世間話をするような軽い口調で、ディックが言葉を続けた。

「僕の頭が冷えるまで恋人ごっこに付き合う。お前が考えそうな話だ。僕がそのうち冷静になるだろうって?」

 ディックの目がジェイソンを捉える。やたらと強い眼光が少し恐ろしかった。怒っているのか責めているのか。恋人に徹してやれなかったことを申し訳ないと思った。自分が代わりになると決めたのに、上手くできない。また上手くできなかったのだろう。ディックが傷ついていない様子なのが唯一の救いか。

「どのくらいで僕が飽きると思ってた? 三週間? 半年?」

「短くて一週間。長くて一ヶ月」

「一年は予想外だったわけだ」

「お前モテるからな」

 ディックがコーヒーカップをテーブルに置く。顔を近付けてきたので思わず仰け反ると、後頭部に手を添えられ逃げ場を失った。唇を吸われる。

「残念だけど、飽きたりはしない。そんなことにはならないよ。これから先も、ずっとな」

 至近距離に青空のような目があった。ジェイソンの顔が映っている。その目が泣いているように見えて、ジェイソンは頭を殴られたような衝撃を受けた。

「お前が始めたことだ。一生つきあってもらうぞ。絶対に逃がさないからな」

 傷ついていないわけではない。表面に出さなかっただけなのだ。いつからディックが傷ついていたのか、ジェイソンには解らなかった。
『あなたはディックの代わりにはなれない』
 バーバラにかつて言われた言葉が脳裏で鳴り響く。
 息子の代わりは上手く出来なかった。恋人の代わりも上手くできなかった。せめて傷つけたくないと思っていたはずなのに、結局ブルースもディックも傷つけてしまっていた。
 今度は、本物になりたいなんて思わなかったはずなのに。それとも、心のどこかでそう思ってしまったのだろうか。傷つけたいわけでも追い詰めたいわけでもないのに、なぜ上手く行かないのだろう。自分は、代わりすらマトモにできないのだろうか。

――ああ、バブス 君の言う通りだ。ディックの代わりだけじゃない。俺には、誰かの代わりなんて出来ないんだ。

 代わりにさえなってやれない。ブルースもディックも追い詰めて傷つけた。ジェイソンが自分を過信したばっかりに、疲れて傷ついたブルースもディックも、余計に疲れて傷ついた。
 ごめん ごめんな。

「ごめんな、ディック」

 小さく謝罪すると、ディックは余計に泣きそうな顔をした。
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美しくなんて死ねると思うな