旅立ちの鐘が鳴る

3


 ナロウズにある聖ラザロ教会は、その名の通り聖ラザロに捧げられた聖堂だ。小さな教会だが歴史があり、設計者はジュード・グレイヴス。現在の主任神父はスチュアート・リンド神父で、助任神父にテリー・ハンクス神父とジェイソン・トッド神父がいる。
 リンド神父とハンクス神父はそれぞれの事情でゴッサムのアパートと借家に住んでおり、教会敷地内にある司祭館を使っているのは現在ジェイソンだけだ。それなりに広い建物に、自分ひとりというのは如何せん寂しい気もするが、気が楽なのも確かだった。朝起きて日課の祈りと身支度を済ませ、仕事のために司祭館を出る。
 その日、ハンクス神父は休暇を取っており、ミサはリンド神父によって執り行われた。ミサに参加したジェイソンが司祭館に戻り、朝食を終えて庭に出ると、なにやら視線を感じる。
 ナロウズはゴッサムの中でもスラムと形容されることもある地域なので、治安が悪く、人前に姿を現せないような人々が救いを求めてやってくる時があった。
 なのでジェイソンは今回も、まず自分を見つめる視線に対して声をかけることにする。
 
「どなたかいらっしゃいますか?」

 返事はない。庭の隅、高い植木の方から視線を感じた彼は、とりあえず庭掃除は後回しにしたほうがよさそうだと判断し、視線の先へと歩いて行く。
 ザクザクと芝生を踏む音が続き、木陰で立ち止まり空を見上げた。
 なんの姿も見えないが、気配だけはしっかりと感じる。ピリピリと肌を焼く緊張感。一歩移動しただけで殺気が膨れ上がり、その感覚に青白い肌の男を思い出した。ウェイン司教が襲撃された時出会った黒衣の暗殺者。自殺したということになった、美しい死体のような男。
 あらためて周囲を見回し、たしかに誰かの気配だけは感じたジェイソンが、何が来てもすぐ対処できるよう体に力をいれたまま、なるべく大きな声で問いかける。

「ハーバーハウスで会った方ですね?」

 一陣の風が吹き抜けた。肌が急激に冷えていく。ピリピリとした緊張感が強くなる。それでも、ジェイソンは続けた。

「隠れていないで出てきて下さい。話をしましょう」

 人の気配は動かない。ただ漫然とそこにあり、ジェイソンに殺気を放ち続けていた。彼の目的はなんだろう。少なくともジェイソンを殺すことではないはずだ。殺害が目的だったら、朝の時点で殺されているか、ジェイソンがあちらの存在に気づいた時に襲ってきている。

「警察に出頭しろとはいいません。カトリック教会は、あの時の犯人は自殺したと発表しました。警察もおなじ見解です。私が今ここであなたを捕らえても、きっと隠蔽されてしまう」

 相手は〈梟の法廷〉に関係があると見て間違いない。得体の知れない存在だが、本当は救いを求めているのかもしれない。かつてジェイソンがそうだったように。話してみなければなにもわからない。カトリック教会とブルースがジェイソンを助けてくれたように、ジェイソンもこの男を救えるかも知れない。相手から近づいてきてくれたのなら好都合だ。

「姿をみせてください。少し、お話しましょう」

 数秒の膠着が続き、やがて植木の上方がガサリと揺れた。気がつけば背後で風を切る音がして、首筋に冷たい金属のあたる感触。
 目線だけで後ろを見れば、先日見た青白い肌の男がいた。闇よりも黒い黒髪と、血管が透けて見えるほど白い肌。全身に黒衣を纏い、殺気を宿す金色の眸子だけが鮮明に輝いて見える。外傷は特に見受けられなかった。動きに不自然な箇所もない。先日十五階から落下したというのに、なんという生命力だろうか。

「どうして、僕がいるとわかった?」

「視線を感じました。姿は見えないので不思議に思いまして。心当たりがあるのは、ハーバーハウスでお会いした貴方だけですから、貴方だろうと」

 金属がより強くジェイソンの肌に押し当てられる。男の手が神父の肩を掴んだ。
 頭上に鳥が飛び、チチチ、とのどかに歌っているというのに、随分アンバランスな絵面もあったものだ。木漏れ日が芝生の上にモザイク模様を描き出している。日差しに温められた風が緑の匂いを運んできていた。

「お前は何者だ?」

 死体の声だけが、景色に似合わずとても冷たい。

「ただの神父ですよ」

「とてもそうは思えない」

「それでしたら」

 ジェイソンの腕が動いた。金目は動かず、神父を黙って見ている。ジェイソンは人差し指だけでナイフの腹に触れ、自分からゆっくりと引き離した。

「私のことも含めて、すこしお話しましょうか。私はジェイソン・ピーター・トッド。この教会で助任神父をしております。貴方のことは、なんとお呼びすればよろしいですか?」

 死体はジェイソンを殺すのが目的ではない。だというのに教会に来て、何者かと問うた。ならばおそらく監視が目的。あちらもジェイソンの情報が欲しいはずだ。ジェイソンも彼と話しがしたい。利害は一致している。相手はこの誘いに乗る。確信があった。
 案の定、男はすこし沈黙したあと、渋々といったていでナイフをしまう。

「……タロン」

 タロン。〈梟の法廷〉が有する暗殺者の名前。内心の動揺を悟られないよう笑みを浮かべ、ジェイソンが男を促す。

「タロン。では、お部屋へご案内します。司祭館は現在私しか使っていませんので、どうか楽にして下さいね」

 どうやら庭の掃除は、明日に回した方がよさそうだった。
 再び芝生の上を歩いて、今度は司祭館へ戻っていく。二階建ての小さな建物は昨年改修工事を終えたばかりで、内部は比較的新しい。
 黒衣を纏った暗殺者を招き入れるのはこれが始めてになるが、清貧を旨とするカトリック教会の建物とはいえ、それほど居心地が悪いことはないだろう。
 リビングには四人がけのテーブルがあり、椅子が四脚、左右に分かれて並べられている。神父が「お好きな席へどうぞ」というと、タロンはドアと窓に最も近い、右側の椅子に腰を下ろした。顔からはありありと警戒の色が見えている。ジェイソンも、話し合おうとは言ったが和やかな雑談ができるなどとは考えていない。

「少々お待ち下さいね」

 それでも電気ケトルでお湯を沸かし、紅茶を差し出すと、黒髪の男が盛大に眉を顰めた。不気味なものが目の前に現れたかのように、湯気のたつ紅茶の表面を睨み付けている。

「紅茶はお嫌いですか?」

 尋ねると、タロンが瞳孔を少しだけ動かし、ジェイソンを見た。

「毒が入ってるかもしれないものを、簡単に飲めるわけないだろ」

「おや、失礼致しました」

 さすがに暗殺者然としているだけあって警戒心は強いようだ。神父は差し出した紅茶のカップを手に取ると、行儀が悪いと思いながらも一口飲んでみせる。

「これでどうでしょう」

 そうして再びソーサーの上にカップを置くと、信じられないものをみるような目つきをされてしまった。その後は相変わらず憤然とした顔で紅茶と対峙しており、ならばと個包装の菓子を出しても警戒して食べる様子がない。
 まるで野生の動物のようだ。
 爪というより梟そのもの。狩りをする野生の動物。自身もタロンに向かい合うよう椅子に座り、紅茶で喉を潤したジェイソンが梟の顔を覗き込む。

「私の知っている童謡に、貴方と同じ名前の人物が出てきます」

 すると今まで動かなかったタロンが微かに顔を上げ、今度はジェイソンを眼窩に捉えた。

「回りくどい言い方はやめなよ。〈梟の法廷〉の話だろ」

 金の双眸が、逆光の中でも強く輝いていた。強い意思を感じる。あるいはなにも感じていないかのような、ものをみる目つき。空虚にして強靱な、なにものも受け付けない瞳だ。

「〈法廷〉については喋らない。お前の狙いがなにかは知らないけど、命令が出たらすぐにでも殺すからな」

「ということは、まだ私の"殺害命令"は出ていないんですね」

 思った通り。
 タロンがますます眉を顰め、対照的にジェイソンは柔らかく笑った。否定しないということは、やはり解釈は正しい。

「安心しました。もう少しお話できそうですね」

 とうとう唸り声をあげたタロンが、忌々しげに神父を睥睨して吐き捨てる。

「僕がここにいるのは、そのほうがお前を見張りやすいからだ」

「そうですね。隠れているよりはお互いに楽です」

 だが、今彼と話し合うのは無理だろう。これほど警戒されていては会話の糸口が見つかるはずもなく、雑談など夢のまた夢である。
 おそらくタロンは尋問や情報収集についての訓練を受けているだろうし、下手に話を聞こうとして警戒され、これ以降だんまりを決め込まれるのは面白くなかった。
 仕方なく、テーブルに置きっ放しになっていた今日の朝刊を手に取り、一面に目を落とす。
 ジェフリーの顔写真と氏名がまず目に飛び込んできて、思わず動きが止まってしまった。
 今まで苦い顔をしていたタロンが、ジェイソンの行動に気づいて無表情に戻る。ついで新聞の紙面を金の目が追い、彼の口には今日初めての笑みが浮かんだ。

「彼は法廷を裏切ったから死刑を宣告された。お前も、自分は殺されないと思ったら大間違いだからな」

 ジェイソンに対する意趣返しの言葉だろう。言外に『ジェフリーは僕が殺した』というメッセージを含めたそれは、彼が今使えるもののなかで最も威力の高い脅迫の言葉である。
 記事の見出しは『警備会社社員死亡』となっていて、内容に目を通すと、警察はほぼ自殺と断定して調査を進めているとわかる。

「彼は、自分の意思で死んだわけではないですよね」

 ジェイソンの呟きにタロンが答えた。

「裏切れば死ぬと解っていたはずだ。広義では自殺なんじゃない?」

 告解の時、彼は怯えていた。こうなる事を予期していながら罪の重さに絶えきれず告解を求めた。だから祈りの時、『せめて煉獄にいけるように』と言ったのだ。
 自分が天国にいけるとは思っていない、せめて煉獄で罪を償って、天の国への道を開きたいと。
 ブルースの元にかかってきた脅迫電話は、ゴッサム再建計画への賛成表明をとりやめろという内容だったらしい。
 〈梟の法廷〉の目的は街の現状維持なのだろうか。
 そのために男をひとり殺すだろうか。司教をパーティのスピーチ中に殺そうとするだろうか。
 〈タロン〉と名乗る男が、十五階の高所からトラックの上に落ちて、今は怪我をした様子もないという事実も不思議極まりない。
 ブルースは「今はまだその時ではない」と言ったが、できるだけ早く調査を開始するべきではないだろうか。
 養父の言葉を受け入れた手前一瞬戸惑いはしたが、すぐに彼が続けて言ってくれた言葉を思い出す。『無理強いはしない。心に従いなさい』と。自分の心にある善が、なにより正しい信仰であるのだと彼は言った。
 新聞の隙間からタロンを盗み見ると、彼は相変わらず憤然とした様子でジェイソンを観察している。
 ジェフリーを殺したのは彼だが、おそらく自分の意思ではない。タロンの言葉から察するに、彼は何者かの命令で人の命を奪っているのだ。
 自分の手を汚さず、命令して他人の人生や命を弄んでいる存在がいる。
 その事実に怖気が立った。

「……そろそろ聖書勉強会の準備をしないといけません。貴方は、ここでゆっくりなさっていてください」

「そういうわけにはいかない。僕はお前を監視しないといけない」

 今回の彼の任務なのだろう。ならば彼がブルースを殺しに病院へ忍び込む恐れはない。それに、司教には警察の警護がまだついているはずだ。彼個人にしたって簡単に殺されるような人間ではない。

「では、勉強会に参加しますか? 目立たない服ならお貸ししますよ」

 その服では目立つでしょう、と言うと、タロンは苦虫を噛みつぶしたような顔になった。梟というより猫だなと思い、ジェイソンが笑う。するとタロンは硬質な声音で吐き捨てた。

「必要無い」

 音もなく床を蹴った暗殺者が背中をピッタリと窓につける。後ろ手にガラスを開けた彼がするりと屋根へ飛び移るのを見送り、さすがに〈タロン〉と名乗るだけはあるとジェイソンは心底感心した。
 それから自分も、宣言通り勉強会の準備をするため、きちんとドアから司祭館を出ていったのだった。
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美しくなんて死ねると思うな