旅立ちの鐘が鳴る

U.N.オーウェンの秘め事


Q:〈梟の法廷〉について知っていますか?

「ああ、知ってますよ。都市伝説の秘密結社でしょう? 昔はね、言う事きかないと〈タロン〉がくるぞ、なんてよく親に脅かされましたよ」(中年男性)

「野菜食べないと〈タロン〉がくるってママが言ってた!」(五歳の女の子)

「もちろん知ってるよ。この街で、その都市伝説を知らない人はいないんじゃないかな。都市伝説の秘密結社っていったら、世界を牛耳る〜とか、国家を裏で動かす〜とかが普通なのに、〈梟の法廷〉が支配するのはゴッサムだけだ。結構面白い伝説だよね」(黒髪の青年)

「私はフリーメイソンのゴッサム支部だって都市伝説を息子から聞きましたよ。私の頃は"植民地時代ヨーロッパからやってきたカルト教団"だったのに、都市伝説の内容って時代によって変わるんですねぇ」(三十四歳の主婦)

「スーパーヴィランの集まりだって話ですよ」「えー! 私はスーパーヒーローの集まりだって聞いたよ!」(十九歳の男女)

「知ってる! ゾンビ兵がいっぱいいてリーダーは不死身の化物なんだよ!」(十歳の男の子)

「ゴッサムを拠点にする情報ブローカー集団なんですよ。リーダーは車いすに乗った赤毛の女なんです。まあ、全部妄想ですけど」(二十歳 男)

「アーカム精神病院の地下で集会開いてるんだって、ばあちゃんが言ってました。悪魔呼び出してるんだって」(赤髪の少年)

「ランタンともして梟がくるぞー!」「お前に仮面をかぶせにくるぞー!」「お前も〈梟の法廷〉にしてやろうかー!」(悪ガキ3人組)

「さっき弟とその友達が『タロンに蝋人形にされる』って言ってましたけど……なんかいろいろ混ざってますよね?」(女子高生)

「セレブのクローン作ってるんですよね。あれ、人間の冷凍保存促進協会でしたっけ?」(二十三歳女性)

「二十歳までその言葉覚えてると死ぬらしいですよ!」(男子高校生)

「知ってるー! 昔遊んでばっかりだと〈タロン〉がくるぞってめっちゃ言われたー! あっ! 神父様そんでさー! この前神父様の言ってた店あんじゃん! マーチ通りのアイス屋さん! 友達と行ったら割引券もらったのね! 一枚でふたり分使えるっていうからー、神父様に一枚あげるー! そんでこの前姉貴がニューヨーク遊びに行ったんだけどさー、お土産にマニキュア買ってきてくれてー、今それつけてんだけど、どう? めっちゃ綺麗じゃーん? 見て見て神父様ー! これ手動かすと色変るの! すっごい気に入ったんだけどー、ニューヨークのショップ限定なんだよねー! ゴッサムでも売ればいいのにー! ところでこの前同い年の男に声かけられたって話したじゃん? あいつが実は最悪でー」
「もう帰るわよー」
「待ってよまだぜんぜん話足りないんだけどぉー!?」
(女子高生と母親)

「日本の池袋にあるんですよね。あれ? 法廷? カフェじゃなくて? あの怖い童謡の?」(三十二歳女性)

「〈梟の法廷〉を初めて紙面で扱ったのは我が社ですね。当時は都市伝説からゴッサムの現状を読み解く内容のコラムでした。たしか19世紀末だったか……会社のデータベースにならバックナンバーがあると思いますが、何分古い資料ですから、他の場所には保存されていないと思いますね。我が社でも紙面での保存は、おそらくしていないでしょう」(ゴッサム・ニュースデー勤務の記者)




 ジェイソンが聖書の勉強会に参加した信徒や、教会を訪れた人々に聞いて回った結果得られた情報は、あまり有益とは言えないものばかりだった。会話を記録したボイスレコーダーを何度聞き直し、情報を文字に起こして眺めても、役立ちそうな情報は見つけられなかった。作業に限界を感じた彼は資料を机に放り、椅子に座ったまま大きく背伸びをして落胆を紛らわせる。
 無防備な彼の首筋に、ひたりと冷たい金属が触れた。
 背後にいるのは青白い肌の男。〈タロン〉と名乗る黒髪の青年だ。

「余計なことをするな、ジェイソン・トッド。殺されたいのか?」

 明確な殺意が神父を射貫く。命の危機にさらされたジェイソンは、しかし暗殺者に対し朗笑して見せた。

「本気で殺す気なら、警告の前に殺していますよね。それに、貴方は"命令がないと殺せない"のでしょう?」

 タロンの双眸が剣呑な光を帯びる。殺気が膨れ上がるも、銀のナイフは最初の位置からピクリとも動かなかった。

「緊急事態なら自分の判断で動くこともできる。お前が〈梟の法廷〉についてこれ以上探るようなら……」

「それでしたら」

 暗殺者の声を遮るように、ジェイソンの手が机から資料を拾い上げる。背後にいるタロンへ差し出すと、目の前に紙片を突きつけられた彫刻は流石に面食らったらしく、一瞬殺気が和らいだ。
 ジェイソンはナイフの感触を肌に感じたまま、資料に関して確言する。

「ご心配には及びません。どれもこれも、たわいのない噂話の域を出ませんよ。興味があるようでしたら見てごらんなさい」

 タロンは平然とした様子のジェイソンを訝しみながらも、突き出された紙片をそっと手にとった。文字に起こされた情報を目で追い、不思議そうに首を傾げる。彼の様子を見る限り、やはり核心に触れる情報はないらしい。
 神父が立ち上がり、クローゼットの中から上着を取り出して梟に話しかけた。

「ところで、私は今から出かけますが、ついてらっしゃいますか?」

 今まで読んでいた資料をぐしゃぐしゃと丸めてゴミ箱に捨てたタロンが、無表情のままジェイソンを見る。

「当たり前だけど、僕のことは気にしなくて良い。お前がどこに行こうと尾行するだけだ。でも、どこへ行くの?」

 ジェイソンが上着の袖に手を通す。そういえばこの上着を今年着るのは初めてだと、現状に無関係なことを考えた。

「ジェフリーさんのご自宅へ。ジェフリーさんは、教会に告解を求め訪れた時ひどく怯えていらっしゃった。自殺でないことは貴方の言葉からも明白ですが、可能なようなら近所の方にもお話を聞いてみます。そして、せめて安らかに眠って頂けるよう、お祈りを」

 タロンの整った顔に呆れた表情が浮かび、暗殺者はわざとらしく肩を竦めて見せた。

「ご立派なことで」

 それでも何も言わずジェイソンについてくるのだから殊勝なことだ。
 神父が司祭館を出てタクシーを拾う頃、彼の背後からタロンの姿は消えており、代わりに建物の屋根に小さな影が見えた。いつのまに登ったのかはしらないが、屋根伝いについてくる気らしい。よほどの身体能力がなければ無理な話だったが、タロンが目的地の場所を正確に知っていれば不可能ではない。フリーランニングを用いるのであれば障害物はないも同然であるし、いっそタクシーより早いかも知れなかった。

「神父様、どこまで?」

「リンカーン通りの1367番地までお願いします」

「わかりました」

 屋根の上を見つめるジェイソンを乗せ、タクシーが滑らかに走り出す。アパートの前へたどり着いたのは二十分後のことだった。
 タクシーを下りたジェイソンの眼前に、赤煉瓦でできた三角屋根が四つ立ち並んでいる。その全てが同じデザインの五階建てだ。建物の各階は渡り廊下で繋がっていて、中央部分はエレベーターになっている。古い建物のどこにも規制線は見当たらず、現場の調査は終了したことが窺えた。庭の一角に女性が三人立っており、なにやら深刻な顔で話し込んでいる。
 ジェイソンは標識の傍に立ち止まり、気づかれないよう息を殺して彼女らの会話に耳を傾けた。

「ジェフリーさん自殺ですって」「最近悩んでたみたいだったもの」「でも、すごく熱心に神様を信じてらしたのよ」「そうね。穏やかな人だったわ。トラブルとは無縁そうだったのに」「そんな人が自殺なんてねぇ」「本当かどうかわからないわよ。この街の警察はやる気ないから」「でも、恨みを買うような感じでもないわよ」「物取りかもしれないわ」「物騒でいやねぇ」

 ジェフリーは、近所の評判が良かったらしい。悩んでいたというのは、ウェイン司教の襲撃事件に関してか、告解を求めた自分がいずれ〈タロン〉に殺されるという予感についてか、あるいはその両方か。警察の調査が杜撰であると周囲も感じているようで、ジェフリーの自殺に疑問を抱く人間は多いようだ。
 実際、彼は黒衣の暗殺者に殺された。
 この世の誰もが穏やかな死を迎えられるわけでも、誇り高い死を選べるわけでもない。人は時に簡単にあっけなくむごたらしく死ぬと知っているジェイソンは、せめて死に方を選べない人々が、眠りの中だけは穏やかでいられたらいいと願ってやまなかった。
 だから、あらためてジェフリーの住んでいたというアパートを見上げ、胸の上で手を組み合わせる。そっと目を閉じ、口の中で言葉を転がした。

「慈しみ深い神よ、この世からあなたのもとにお召しになったジェフリー・ヒュームを心に留めてください。洗礼によってキリストの死に結ばれた者が、その復活にも結ばれることができますように。アーメン」

 祈りを終えると、踵を返してアパートから遠ざかる。大通りへ向って行く神父に物陰から声がかかった。

「話は聞かないんだな。次はどこへ行くんだ?」

 タロンだ。アパートから一本外れた路地に隠れ、様子を伺っていたらしい。神出鬼没とはまさにこのことだろう。ジェイソンは黒衣に視線もくれず、まっすぐ前を見て声だけを返す。

「警察へ。彼が、教会に告解を求め訪れ、殺されると怯えていたことをお話しにいきます。自殺でないのはわかっていますから」

 路地を通り過ぎてもタロンが追ってくる気配はない。変わりに、背中から呆れた様なため息が聞こえた。

「……無理だと思うけどね」

 それはやってみなければわからない。
 神父は道端でタクシーを拾って乗り込と、「警察署までお願いします」と伝えた。やはりタロンが車に乗り込んでくる様子はない。また自力でついてくるのだろう。
 運転手の「はい、わかりました」という返答とともに車が走り出すと、ジェイソンの視界の隅、青い屋根の上で小さな影が動いた気がした。
 同時に景色の流れる速度が速くなっていき、タクシーはアパートの通りを抜けてゴッサムの中央部へ向かっていく。ジェフリーの住んでいたアパートから警察署へは車で三十分程度の距離があった。
 運転手とたわいのない話をしながら移動時間を過ごした神父が警察署のエントランス前でタクシーを駐めてもらう。

「またよろしくどうぞ」

「ええ。またお願いします」

 神父が建物の中に入っていく瞬間、すでにタロンの突き刺すような視線が彼を捉えていた。
 梟はおそらく隣のビルにいるのだろう。ジェイソンが建物に入った後、自分も警察署にもぐり込むつもりなのかもしれない。通常の建物とは勝手が違うはずなのだが、タロンにとってはそれくらいなんともないということか。なにせ街中を屋根伝いに飛び回り、タクシーを尾行してきたような男だ。
 ジェイソンはそこで一時思考を中断した。いくら考えても仕方のないことだ。それより先にやることがある。警察署のエントランスに入り、受付の職員に話しかけた。
 
「聖ラザロ教会のジェイソン・トッド神父です。ジェフリー・ヒュームさんの事件を新聞で拝見しました。お話したいことがあります。担当の方を呼んでいただけませんか」

「わかりました。あちらのお部屋でしばらくお待ち下さい」

 通された部屋は、ハーバーハウスの事件について話した時と同じだ。天井からタロンの視線を感じる。殺気混じりの張り詰めた空気が部屋に立ちこめていた。
 素知らぬ顔でソファに座り、担当者が来るのを待つ。
 暫くして部屋のドアを開けたのは赤髪の男。ハーバーハウスの事件と同じく、カートと名乗った男だった。
 彼は淡褐色の目を見開き、驚いた様子でジェイソンに駆け寄ってくる。

「トッド神父! どうかしたんですか?」

「ジェフリー・ヒュームさんの事件、新聞で拝見致しました。彼が先日告解に訪れた時のことをお話したいのです」

 神父の訴えを聞いてもいまいち理解できないようで、刑事は不思議そうに首を傾げた。

「はぁ……ですが神父様、彼は自殺ですよ。告解でなにか、重大なことを告白したんですか? 犯罪の経歴とか?」

「告解でのことは守秘義務があるので詳しいことは言えませんが、彼はあのとき殺されると怯えていました」

「そうですか……できれば詳しく教えていただきたいのですが……怯えていたというなら、そういう"ストレス"のせいで自殺してしまったとも考えられる」

 天井裏からの殺気が強くなる。本気ではないとジェイソンは悟った。脅しのためのフェイク。偽りの殺気だ。
 神父の話に耳を傾ける刑事は、困った様に眉尻を下げたままジェイソンの横に立っている。
 それでもジェイソンは真実を伝えなければならなかった。

「彼が怯えていたのは〈梟の法廷〉と〈タロン〉です。ウェイン司教を襲撃した犯人が関与しているかもしれない」

 天井裏からの殺気は変わらない。
 ただし、カートの顔色が変わった。
 部屋の空気がさらに湿度を帯びたものになり、肩にのしかかるような感覚がある。刑事はジェイソンの横に立ったまま、不気味なほど静かな声で空気を震わせた。

「……なるほど。となると、警察が発見した"襲撃の犯人"は人違いで、あの警備員が真犯人ということかもしれませんね。どちらにしろ、自殺したことには変わりありませんが……彼が告解の時に話した内容を詳しく聞かせていただけませんか?」

 神父の眉尻がピクリと跳ね上がる。どこをどうくみ取ればそんな結論に至るのかまるで解らなかった。本当にきちんと調査してもらえるならば刑事の言う通りにしても構わないが、告解の内容を歪曲されてしまうのでは守秘義務を放棄する意味がない。

「告解の内容はお話できません。それに、路地で私が見た犯人の顔は、ジェフリーさんではありません」

「では、犯人がジェフリー・ヒュームを殺して自殺したんでしょう。告解の内容を伺えばそれを元に調査もできますが、現時点ではこれが一番有力ですよ」

「私に"自殺した犯人"の顔を見せていただけませんか」

「しかし神父様、当時周りは暗かったわけですから、勘違いという可能性もあります。犯人とは言葉を交わしていないんでしょう?」

 暫く沈黙があった。ジェイソンは一瞬だけ俯いて思考を巡らせると、相変わらず横に立ったままのカートに視線をやる。
 刑事はまるで話を早々に切り上げたいかのような態度だ。実際、事件と向き合うのが面倒で似たような態度をとる警察関係者は、残念ながらゴッサムにたくさんいる。彼もそのうちのひとりだったのだと思えればどんなに楽だろうか。
 見過ごせない不自然さに、ジェイソンは気づいてしまっていた。

「……聞きもしないんですか?」

「……なにをでしょう?」

「私の見た犯人像」

 空気がどんどん張り詰めていく。いつかヒビが入ってしまいそうだ。もはや原因は天井からの殺気ではない。カートとジェイソンの間にあるいやな緊張感だ。

「逃亡した黒ずくめの変質者の特徴。死体の確認もそうですが、たとえ周囲が暗かったとしても、なんらかの特徴くらいは尋ねるものではありませんか? 身長、体格、男か女か、髪の色、目の色、クセ毛かストレートか、人種はわかるか」

「捜査に先入観は禁物です。聞き取った特徴がまったく違うということもある。死体の確認も同じ理由で必要無いと判断します」

「だからといって、なんの手がかりもなく調査しますか? それに、外見には頓着しないのに、私が犯人と会話をしたかどうかは気にしていらっしゃる。どうせ自殺だといいながら、ジェフリーさんの告解の内容も気にしていらっしゃるようだ」

 天井から小さな音がした。暗殺者にしては粗末なミスだ。しかし気づいたのはジェイソンだけらしく、カートは神父を睨み付けるのに夢中だった。

「何が言いたいんですか、神父様」

「ジェフリーさんは自分を"裏切り者"だと言っていた。だから〈タロン〉に殺されると。貴方は傷害事件と自殺案件のふたつを刑事として担当していらっしゃる。どちらも〈梟の法廷〉がらみ」

 ジェイソンの頭上に、刑事の冷たい声が降ってくる。

「想像力が豊かすぎますよ。転職なさったらどうですか?」

 カートの額にうっすらと汗が滲んでいた。空調に不備はない。呼吸から緊張が見て取れた。まるで、教会に告解を求めに来た時のジェフリーのようだ。

「パーティ会場で私が〈タロン〉のマスクをはぎ取った時、貴方はマスクに目をやりましたね。あの時最も注視するべきは犯人の素顔だったはずです。警察ならなおさらだ。だというのに貴方はマスクのほうに目をやった。〈タロン〉の素顔を見る必要がなかったからでは? 犯人が逃げたあとも、犯人を追うわけでもなく、すぐにマスクを拾っていらっしゃいましたね。なにか、犯人の身につけていたものを最優先で回収しなければならない理由でもあったのですか? 犯人の追跡を後回しにするだけの理由があったのか、それとも、追いかける必要がなかったのでしょうか?」

 カートが眉根に皺を寄せ、口を開いた。音がでることはない。ジェイソンは薄氷色の目に狼狽する男の姿を映したまま、ゆっくりと片手をあげた。
 彼の人差し指が示す先には、目立たないよう背後に回された刑事の腕がある。

「それに、今銃に手をかけてらっしゃるのが、一番の証拠ですよ」

 カートが弾かれた様に素早く動いた。銃口がジェイソンの顔先に躍り出て、天井の気配が緊張感を増す。
 銃口と向かい合った神父は、ゆっくりと瞳を動かし、鉄の向こうにいる刑事の姿を眼窩に捉えた。

「……決定的な証拠はないのに、それでも貴方は、正体に勘づかれたというだけで、こうしなければならないんですね」

 男の表情が歪んだ。苦痛に耐えているようにも、怒っているようにも見える。低い声が重く冷たい空気の中に転がった。

「私は〈梟の法廷〉のメンバーではない」

「では手駒ですか。それとも、手足と表現したほうが?」

「手足なら簡単に切り落とされたりはせんでしょう」

 いよいよ刑事が泣きそうな顔をする。指が銃の撃鉄にかかり、ガチャリと硬質な音がした。赤髪の男が泣き笑いのような表情を作り、銃口をジェイソンに押しつける。

「貴方もこんなことで死ぬのはバカげていると思うでしょう? 私も職を失ったりはしたくないが、殺されるのはもっと嫌でね。死ぬくらいなら、刑務所から出て別の職を探したほうがいい」

「そうして、一生利用されるわけですか」

「残念ながら他に選択肢がない」

 痛みに耐えるよう歪んだ刑事の顔は、諦めの色が強く浮かんでいた。天井に隙間が空いている。闇の奥からタロンの気配がしていた。緊張感を孕んだ金の視線。
 カートはやはり気づかないままジェイソンに銃を向けている。
 部屋の向こうには人の気配。叫べば誰かが来るだろうが、その前にジェイソンは撃たれるだろう。この男が狙いを外すとは思えない。
 正解はひとつ。
 神父は上体を大きく横にズラし、同時に右腕で突きつけられた拳銃をなぎ払った。引き金を引くことすらできず武器を取り落とした刑事の頭を、椅子から立ち上がった勢いも上乗せしてテーブルに押しつける。
 物音を聞きつけて人が来たら厄介だと判断したジェイソンは、暴れないようカートの背に体を押しつけ、左手で男の口を塞いだ。
 赤褐色が神父を睨む。

「んぐっ、ぐぐぐぐぐっ!」

 刑事は足をバタつかせたが、完全に拘束されているため大した威力はない。部屋の外で誰かが異変に気づいた様子もなかった。ジェイソンは、男の口を塞いだ腕に力をこめる。

「貴方が〈法廷〉の手駒なら、自首しろとも自白しろとも言いません。それは貴方の命を脅かす行為だ。回心はご自分の意思でなさってください。私は、私の養父を危険に晒し、ひとつの命を自殺という罪深い方法に偽装して殺し、貴方や〈タロン〉のような人々を捨て駒のように扱う黒幕の存在が知りたいだけなんですよ」

 床に落ちた銃を、ジェイソンのつま先が蹴り飛ばす。くるくると回転しながら滑って行った鉄がやがて壁にぶつかり、カツンと硬質な音を立てた。カートが起き上がってその銃を取り構えるよりも、ジェイソンが部屋を出て行くほうが早いだろう。
 安全を確保した神父が刑事の拘束を解くと、彼は崩れ落ちるようにして床に座り込んでしまった。息を整えるのに必死で立ち上がれないようだ。
 ジェイソンが少し乱れてしまったカソックの襟元を正し、ドアに手を掛ける。

「今のことは黙っておきます。今後は貴方のお好きなように行動なさってください。万が一敵対するようなことがあれば、全力で抵抗させていただきます」

 神父が警察署を出た後も、カートが追いかけてくる様子はなかった。
 代わりに、街路樹の上からタロンの冷たい声が降ってくる。

「〈梟の法廷〉のことを必要以上に嗅ぎ回るなって言っただろ。本当に殺すぞ」

 警察署の天井裏からすぐさま移動してきたらしい。疲れた様子は一切見せないあたり流石暗殺者といったところか。

「そのうち命令が下るかも知れませんね」

 神父の軽口に、タロンは面白くなさそうな顔をした。

「冗談で言ってるんじゃないんだぞ」

「でも、さっきは助けようとしてくれたでしょう?」

 タロンの体が一瞬だけ硬直する。戸惑ったようで、木の枝を掴んでいた青白い指が所在なげに動いた。仮面を被ったような無表情に僅かだが朱が混じる。肌が異様に青白いため、僅かな紅潮でもすぐに解ってしまう。本人も自覚しているのか、軽く頭を振って熱を追い払った。
 すぐさま感情を押し殺してみせた暗殺者は、再び硬い声音をジェイソンに投げつける。

「……見張れという命令だからね。あの男は僕に下された命令までは知らないから、ああなった」

「末端の手駒は自分の任務だけを知らされているわけですか」

「当然だろう」

「そうですね。ありがとうございます」

 タロンが一瞬、口をぽかんと開けた。だがすぐに表情を引き締め、震える声で短く尋ねる。

「……なにが」

 ジェイソンは硬い表情の暗殺者を見上げ、微笑んだ。

「助けようとして下さって」

 神父の視線に耐えきれなかったらしく、タロンが俯いて目線を逸らす。黒い髪が顔にかかり、サラサラと流れた。目元が完全に覆われてしまい、表情はうかがい知れない。

「だから、あくまで命令に従っただけだ。助けたかったわけじゃない」

「それでも、ありがとうございます」

 暗殺者が小さく舌打ちするが、苛立ちや殺気は感じられなかった。ジェイソンはますます笑みを深め、タロンを真っ直ぐ見つめたまま首を傾げる。

「お礼にお食事でも一緒にどうですか? 司祭館で私が作ることになりますけど」

「毒が入ってるかもれいない。お断りだよ」

「頑固ですねぇ」

「どっちが」

 今まで枝を握っていた彫刻の手が、ヒラヒラと前後に振れる。とっとと行け、というジェスチャーだ。言われたとおり歩き出したジェイソンの背後から

「本当に、何者なんだ」

 という言葉が聞こえてきたが、ジェイソンはあえて答えなかった。日の当たる歩道を少し歩いたところでタクシーを拾う。

「神父様、どこまでですか?」

「聖ラザロ教会……ああ、ナロウズのウォルマートまで、お願いします」

 スーパーから教会までなら歩いて帰れる距離だ。夕食の材料を買って帰った方が、効率が良い。たしか今日は鳥の手羽が安かったはずだと、窓の向こうに流れる景色を見つめながらぼんやり考える。
 行き先をタロンに告げなかったため、スーパーの駐車場で射殺されそうな視線を感じた。それでも尾行してくるのだからたいした根性と能力だ。

「僕を撒こうとしたのか? 良い根性じゃないか、ジェイソン・トッド」

 地を這うような低い声が、植木の上から聞こえてくる。タクシーに料金を払ったあと、やっと自分の失態に気づいた神父は思わず苦笑してしまった。

「申し訳ありません、そのまま教会に帰ろうとしたんですけど、どうせ出かけたのだから買い物も済ませようと思いまして……」

「次にやったら片腕切り落としてやる」

 ごめんなさい、ともう一度伝えるも、今度は返事が返ってこなかったので、買い物かごを持って店内に入ってく。
 神父とタロンが教会へついたのはそれから三十分後のことだ。

 その日の夜、司祭館のダイニングルームにはふたり分の食事が用意された。
 表面に照りのついたバッファローウイングとチリスープにパン。刺激的な匂いが部屋に充満すると同時に、ジェイソンは自分ひとりではないのに味の系統がかぶってしまったことを少し後悔した。ひとりの時間が長い弊害か、自分の好きなものばかり作ってしまう。呆れられていやしないかとタロンの方を見れば、彼はジェイソンの向かい側、窓と扉の最も近い右側の席に座ったまま、テーブルセッティングをする神父を観察している。

「僕、食べないって言ったはずだけど」

 気恥ずかしさも手伝って、ジェイソンは思わず肩を丸めてしまった。

「貴方が食べないようでしたら、明日の朝私が食べますから」

 一応タロンの席にも食事を準備して自分も席につく。神父が胸の前で手を組み、目を瞑る様を梟がじっと観察していた。

「父よ、あなたのいつくしみに感謝して、この食事をいただきます。ここに用意されたものを祝福し、わたしたちの心と体を支える糧としてください。アーメン」

 食前の祈りを終えてからスプーンを手に取る。タロンは神父を凝視しているだけで、食事に手を付ける様子はない。
 チリスープはすこしだけしょうがの香りがした。ジェイソンは向かい側の席から飛んでくる視線を感じつつ、牛ひき肉とビーンズを咀嚼し、飲み込む。

「名前、本当はタロンではないんでしょう? 名前だけでも教えていただけませんか」

 尋ねられた彫刻は椅子に座ったまま少しのけぞり、ため息をついたあと腕を組んで見せた。青白い指先が、上腕二頭筋を叩いてトントンとリズムを刻んでいる。

「答えるわけないだろ」

「じゃあ、好きな食べ物は?」

「ないよそんなの」

「私はチリドックとアイスクリームが好きですよ」

「聞いてないだろ」

 とうとう生気のない唇が突き出され、そこから吐き出された息が黒い前髪を跳ね上げた。語気はすこし荒い。見かけに反して表情は豊かなのだなと思ったジェイソンは、微笑ましく思って自分の表情が緩むのを感じた。にやける口元が相手に見えないよう、片手で顔の下半分を多うと、そのせいで声音がすこしくぐもってしまう。

「私のことを監視するとおっしゃっていたので、てっきりパーソナルデータも集めているのかと」

 タロンは一瞬神父の行動に疑念を抱いたらしく、相手に値踏みするような視線をやった。不機嫌そうにもう一度前髪に息を吹きかけ、尊大に足を組む。

「僕が知りたいのはそういうことじゃない。お前がどこでその戦闘技術を身につけたかだよ。僕の時も、あの刑事の時も、普通の人間に出来るレベルじゃない」

「昔は随分ヤンチャしてましてねぇ」

「そういうレベルの動きじゃないんだけど」

「そうですか?」

 タロンが髪をかきあげた。食いしばった歯の間から微かに唸り声がする。ジェイソンは相変わらず微笑んだまま胸を張った。

「部屋はありますから、食事が終わったらベッドの準備をしますね。着替えも用意しますから、使って下さい」

「必要ない。お前を監視するのが仕事なんだから」

 彫刻がきゅっと口を引き結んだ。全身の筋肉がこわばっているのがわかる。その後ジェイソンの用意した部屋は、やはり使われないようだった。日課を終えて就寝する際にも確認したが、タロンが部屋にいる様子はなく、鋭い視線が神父の背中を突き刺してくる。

「頑固ですねぇ」

 昼間同様小さくぼやくが、今度は返事も返ってこなかった。しかたがないので自分の部屋に入り、すこし雑務をこなしてから就寝することにする。
 ジェイソンが次にタロンの姿を見たのは翌日の朝だ。
 鳥の鳴き声を聞いて目を覚ました途端、自分を覗き込む金の双眸と目が合った。

「うお!?」

 驚いて飛び起きると、冷静な視線が追いかけてくる。感情のない瞳は昨日の夕食時とは正反対で、本物の梟のようだと感じた。
 外はまだ薄暗く、うっすらと明るくなった青い闇が窓の外から忍び込んでくる。空気はやけに澄んでいて、遠くに車の走る音がした。
 ジェイソンが荒れた呼吸を整える。

「眠らなかったんですか?」

 タロンはベッド脇に椅子を持って来て、一晩中そこに座っていたようだ。背もたれを前にして椅子にまたがり、よりかかるようにしている。背もたれの上に重ねた手の上に、洗練されたラインの顎が乗っていた。青白い顔は瞬きひとつせずジェイソンを注視しており、薄い唇から低い声が転がり落ちる。

「お前の監視が僕の仕事だって言っただろ」

「体に障りますよ」

「そんなにヤワじゃない」

 タロンに吐き捨てられた言葉が静寂に霧散した。そういえば彼は、十五階の高所からトラックの上に落ちて死にもせず、怪我をしていたはずなのに今や手当ての必要すら感じられない動きをしているのだった。生命力という言葉で片付けるにはあまりにも不自然な状況だったが、尋ねたところで答えなど返ってこないのだろう。
 諦めてため息をついた神父が、代わりに咳払いをした。寝起きのせいかやけに口が渇いている。

「ですが、顔色が悪い」

「これは元々だよ」

「食事は、やはりいりませんか?」

「いらない」

「スープだけでも?」

 タロンの青白い手が、背もたれの上でピクリと動いた。拳を握り、また開くを繰り返しながら顎を持ち上げ、ベッドに座ったジェイソンを見下すように笑う。

「別に食欲がないから食べられないってわけじゃないんだよ。必要ないって言ってるんだ」

 寝起きに目撃した、獲物を狩る梟の冷酷さは既に消え失せていた。タロンの顔に浮かぶのは負の感情ながらも、青白い肌には似つかわしくない温度が感じられる。見下されて安堵するという不思議な感覚に戸惑いながらも、神父は意を決してベッドから這い出した。まだ肌寒い。ついでに、少し不機嫌そうに嘲笑しているタロンに対し

「それは失礼しました」

 とひと言告げ、すぐに思い至って「ああ」と声を上げた。
 タロンも椅子から立ち上がって部屋を出ようとしている。彼は立ち止まったジェイソンを見て眉を顰め、首を傾げていた。
 梟とジェイソンの目があう。

「私、今日休日なんです」

 彫刻が面白くなさそうに腕組みをしてみせた。

「へぇー、デートでもするわけ?」

「そうですね」

 タロンが体を硬直させる。少しだけ開いた口から息が漏れるも、何度か開閉してみたそこから言葉が漏れることはない。
 神父が声を上げて笑った。

「出かけたい場所があるので、私が朝食を済ませたら少し付き合っていただけませんか?」

 その場に、タロンの盛大な舌打ちが響いた。
 しかし、ジェイソンが出かける以上、〈梟の法廷〉に彼の監視を命じられたタロンに拒否権などあるはずもない。警察署の時のように尾行すると主張するタロンに、わざわざ無駄な労力を使って距離を取る必要もないと説き伏せたジェイソンは、しかめっ面をする梟に「その黒い服は目立ちますから」と言って、無理矢理ジーンズと青いパーカーとを着せた。ジェイソンの着古しではあるが、サイズ的には問題無いようだ。ジェイソンもワインレッドのポロシャツとジーンズを着て平日のゴッサムへと繰り出した。
 無理矢理連れ出されたタロンは、心なしか猫背になってジーンズのポケットをもてあそんでいる。所在なげな視線が周囲を探っていた。タロンにとってゴッサムの繁華街は物珍しい場所のようだ。仕事の際は気にしていなかった日常風景が随分と新鮮なようで、先ほどから少し落ち着きがない。
 なにせ連れ立って訪れたマーチ通りは、ナロウズの教会周囲と違って人通りが多いのだ。メインストリートには飲食店やファッションブランドが軒を連ね、最近できたばかりのショッピングモールは平日にもかかわらず随分と繁盛している。
 忙しそうに歩いている男や、仲むつまじく歩いている女性ふたり、手を繋ぐ男女や親子とすれちがうたび、タロンはわずかに口を開いたまま相手の背中が人混みに消えるまで視線を送っていた。
 やがて梟はそんな自分の姿に気恥ずかしさを感じたのか、パーカーの袖をひっぱって親指の付け根を隠すと、そのまま服を口元に押し当て咳払いをして見せる。

「お前、どこに行きたいんだよ」

 タロンの前方を歩いていたジェイソンが、歩幅を調整して梟のすぐ隣についた。

「昼食、買ったものなら大丈夫ですか?」

「はぁ?」

「私が作ったものが不安なら、ハンバーガーやチリドックだったら、抵抗なく食べられるんじゃないかと思いまして」

 タロンが目を丸くし、まじまじと神父の顔を見た。

「大概しつこい性格だね」

「よく言われます」

「神父としてどうなのそれは」

 タロンの皮肉を笑って受け流したジェイソンは、未だあきれ顔の彫刻をつれ、大通りから一本奥の道へと入っていく。少し歩いたところで見えてきたのはテラス席の設置されたチリドックスタンドだ。店の中にもテーブルがあるようで、遠目から見ても繁盛しているのがわかる。

「あそこのチリドックなら、どうですか? 結構人気なんですよ」

「それは見ればわかるよ」

 食べない、とは言われていないのでタロンを店に連れて行くことにした。店に入って五分ほど並ぶと、三十秒しないうちに注文した商品が提供される。回転の速さも人気の理由で、ふたり分のチリドックとアイスティーが乗ったトレイを共にテラス席へと向かう。
 今日は天気がいいので、外のほうが気分良く食べられるだろう。
 ジェイソンの見つけた席に大人しく座ったタロンは、執拗に食事を勧める神父に根負けしたのか、本当に既製品なら気にしないのか、ひとつため息をついた後自分の分のチリドックを手に取った。
 そして、タロン同様チリドックを持ったジェイソンを見て、片眉を跳ね上げる。

「カソック着てなきゃ、とても神父には見えないね」

 日差しを遮るパラソルの向こうに青空が広がっている。テラス席全体はガヤガヤと騒がしく、人の気配が周囲を頻繁に行き来していた。どこか落ち着かない、祭りのような雰囲気。その喧騒に相応しい、毒気を抜かれたぬるい声音の皮肉が、彫刻の口から滑り落ちる。
 ジェイソンは今まさにかぶりつこうとしていたチリドックから顔を離した。

「よく言われますね」

「それもどうなの」

「そうですか?」

 今度こそチリドックにかぶりつくと、口内にチリソースの辛みが広がった。上にかかったチーズとソースに入ったひき肉が味に深みを加えている。ソーセージはパリッ、と軽い音を立てて口の中におちてきた。肉汁が弾けてソースと絡み合う。

「相変わらず美味い」

 ジェイソンが笑みを浮かべると、タロンはもう皮肉を言うのもバカらしくなったようで、手に持ったチリドックを食べ始めた。パンと肉を全て綺麗に平らげてから、すでに汗をかいているアイスティーのカップを持つ。

「それで、本当にどこに行くつもりなの? まさかチリドック食べるために僕を連れ出したわけじゃないだろ?」

 ジェイソンはまだチリドックを完食できていなかった。口に残っている分を飲み込み、タロンに視線を合わせる。

「このあとアイスも食べます? 液体窒素で作るアイス屋さんがあるんですよ。あそこの行列ができてるお店がそうです」

 彼の指が、向かい側にある店舗を指し示す。パステルカラーでまとめられた店の前には幾人かの行列ができており、店頭のディスプレイが明るく楽しげなコマーシャルを流し続けていた。
 ジェイソンが

「割引券持ってますから、安くなりますよ」

 と言うと、タロンが不機嫌そうに鼻を鳴らし、再びアイスティーを飲む。

「冗談だろ。それに、冷たいのは苦手なんだ」

「おや、それは残念。美味しいんですけど」

 タロンの表情がますます歪み、アイスティーのカップを持つ手に力がこもる。もう少しで容器が歪みそうだ。

「なあ、こっちは真面目に聞いてるんだけど」

「ああ、すいません。別に大した用ではないんですけど」

 じゃあ出かけるなよ、とタロンが毒づいたが、ジェイソンは聞こえないふりをした。

「ゴッサム・ニュースデー社に行こうと思いまして」

 言い終わり、アイスティーを少し飲む。冷えた液体が、まだ辛さの残る口内を満たして心地よかった。
 タロンが不審そうにジェイソンを見ている。

「……なんで?」

 神父はアイスティーを全て飲み干し、トレイの上に空の容器を置いた。

「あそこが最初に、〈梟の法廷〉を紙面で扱った新聞社だからです」

 タロンが持っていたアイスティーを一気に飲み干した。
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美しくなんて死ねると思うな