1 ゴッサム・ニュースデー社はマーチ通りの角にある八階建てのビルで、鉄筋コンクリート構造を採用している。一階はそのすべてを受付としており、左右の両側にエレベーターを三基ずつ配置。その手前には流線型のオブジェとソファが、左右対称になる形で置かれていた。 ジェイソンが受付カウンターに向かう間、タロンは興味深げに周囲を観察しながら後をついてくる。その姿が子供のようで、神父は笑ってはいけないと思いながらどうしても口元が緩むのを感じてしまっていた。 笑顔を浮かべた受付嬢と神父の目があう。 「昨日お話したジェイソン・トッドです」 「承っております。お掛けになって少々お待ち下さい」 背後で話を聞いていたタロンが金の目をすっと細めた。 「昨日もう連絡してたわけだ。根回しがいいね」 「ええ。昨日思い立ったので」 タロンがわざとらしく両手を挙げ、降参のポーズをして見せる。顔には呆れの感情が浮かび、全体の立ち振る舞いから皮肉っぽさが強くにじみ出ていた。 黒い流線型のオブジェの横、柔らかいソファに腰掛けたジェイソンはタロンにも座るように促したが、梟は不機嫌そうな顔のまま首を横にふり、腰に手を当てて神父の背後に立っていた。 しばらくして右側のエレベーターから茶髪の女が小走りでやってくる。 ハーバーハウスに居合わせた新聞記者、レイチェル・ロスだ。 彼女は琥珀色の目にジェイソンの姿を捉えると、パタパタと忙しない足取りで近寄り、小さな顔に人好きのする笑みを浮かべた。 「トッド神父! こんにちは!」 「こんにちは、レイチェルさん。お忙しいところをわざわざすいません」 「いいんですよ。そちらの方は?」 レイチェルが視線を向けたのは、ジェイソンの後ろで腰に手を当てているタロンだ。場違いなほどピリピリとした雰囲気を纏う彫刻が気になったのだろう。臆した様子はないものの、気遣わしげな表情を浮かべていた。 神父がソファから立ち上がる。 「信徒の方でジャックと言います。話してみたら彼も興味があるそうで、一緒に来たいと。ご迷惑でしたでしょうか」 「とんでもない。でも、今時古い新聞に興味がおありだなんて珍しいですね!」 平然と嘘を吐くジェイソンを見て、タロンが片眉を跳ね上げた。梟の含みを持った態度に気づいた神父は、しかしそれに言及することなく、笑顔でレイチェルの話を聞いている。 「現在過去記事のデータベースを一般公開しようという話も出てるんです。今はフォーマットの検討に入ってますから、そのうちインターネットから古い記事を検索してもらえるようになると思いますよ」 「それはすごい。バックナンバーの購入にも限りがありますからねぇ」 「ええ。一般用データベースへの追加は年単位経過したものを検討してますから、新しいニュースの検索は無理ですけど」 「私のような物好きにはありがたい話です」 資料室は建物の四階、東のつきあたりにあり、プラスチックブラインドで日差しを遮っていた。二台並んでおかれたパソコンは旧型で、本棚には年季の入った本がズラリと並んでいる。インクと紙の匂いの中に、古書独特といえる、カビ臭いながらも甘いような、不思議な匂いが混じっていた。 レイチェルがパソコンの前にジェイソンを案内してくれる。 「それにしても、古い新聞のデータベースを見せて欲しいなんて、いったい何に興味がおありなんですか?」 ディスプレイが明るくなり、しばらく間を置いてデスクトップが表示された。コンピューター内部に入っているのはインターネットと記事の社内データベース、それから資料管理用のデータベースの三つだ。レイチェルが古い記事の社内データベースを立ち上げてくれたので、ジェイソンは礼を言って目当ての記事を探し始める。 「こちらの新聞が、紙面で初めて〈梟の法廷〉を扱ったものだと、信徒の方から教えていただきまして」 「〈梟の法廷〉? あの、都市伝説のですか?」 「ええ」 タロンがジェイソンの背後にまわりこみ、後頭部を軽く掻いた。レイチェルはジェイソンの横に身を寄せ、邪魔にならない程度の距離をとりつつパソコンの画面を覗き込んでいる。 「確かに私もデータベースで見た覚えがあります。まあ、記事の内容は当時ゴッサムに蔓延していた格差に対する批判が主で、都市伝説に関しては例の童謡くらいにしか触れていませんでしたが」 「なるほど。当時すでにあの童謡がゴッサム中に広がっていたということですね」 「そうなります。あの頃は、まだ今の子供たちが言うゾンビ兵とか、不死身の化物なんて話は出てなかったようですよ」 「何人かの信徒さんも、昔と今では内容が少し違うなんてことをおっしゃってました」 「都市伝説ですからね。時代に合わせて変わっていくんでしょう」 画面に該当の古い記事が表示される。PDF化された紙面は多少読みづらかったが、レイチェルの言う通り格差批判を主題にしたコラムのようだった。 女記者もジェイソン同様、記事を目で追っている。 「それにしても、なぜいきなりこんな都市伝説をお調べに? 説教の題材にでもなさるんですか?」 「いいえ。そのためにここまで細かく調べたりしませんよ。ただ、信徒さんの中に本気で怯えている方がいらっしゃって、怯え方が尋常ではなかったので」 「その方は〈法廷〉が実在すると?」 「そのようでした」 レイチェルが微かに肩を揺らした。彼女は乱れてもいないスーツの襟を整え、パソコンの画面から目を離す。顔には訝しむような表情が刻まれていた。 「……興味深いですね。私も、お話を聞いてみたいです。差し支えなければ、その方の名前をお伺いしても?」 ジェイソンの視線がレイチェルを捉える。琥珀色の目に感情はなかった。神父も極力感情を表に出さず、ディスプレイ上から古い記事のデータを消す。 「お話は、できないと思います。先日お亡くなりになられました。ジェフリー・ヒュームさんです」 女の片眉が跳ね上がり、少し呼吸が乱れた。 「あの自殺した警備員ですか? 彼は、〈梟の法廷〉についてなんと? 自殺の原因が都市伝説に関係しているんでしょうか?」 タロンの視線がレイチェルに向けられる。こちらも金の目に感情は読み取れない。まるで今日の朝見たような、梟の目。 ジェイソンの体を悪寒が走り、手の末端に軽い痺れが起こる。 「……随分、ジェフリーさんのことを気になさいますね」 レイチェルが首を傾げた。動作自体は可愛らしいが、部屋の空気はぐんと重くなる。 「それは、私文化部ですけど、記者ですから。神父様はご不快かもしれませんけど、都市伝説を信じた男の自殺……気になります」 「いえ、そういう意味ではないんですよ。ただ、〈梟の法廷〉が実在するかのように振る舞った不審者にはあまり興味がなさそうでしたので、意外だなと」 タロンが一歩動き、ジェイソンとレイチェルから離れた。さっきから彼は黙りっぱなしだ。神父が数回瞬きをする。水が飲みたい。口がひどく渇いていた。 「なぜ、ジェフリーさんの事件に興味を持ったのか、なぜウェイン司教を襲った"〈タロン〉のような不審者"にはあまり興味を示されなかったのか、よければ教えていただけますか?」 数秒、沈黙があった。部屋の空気がどんどん重くなっていく。レイチェルは大きな目を見開いて神父を凝視していた。そうしていると彼女も、まるで梟のようだ。 部屋全体が暫時、止まったかのように硬直していた。秒針の音を三回響かせたあとでレイチェルが微笑み、魔法が解けたかのように重い空気が霧散する。 「あの事件については、別の記者が担当してるんです。人の仕事を取るわけにはいきません」 記者に続いてジェイソンも微笑んだ。 「そうでしたか。それもそうですね。いえ、細かい事をお尋ねして、申し訳ありません」 「かまいませんよ。私も仕事柄、細かいことや、デリケートなことをお聞きしてしまいますし」 ジェイソンが椅子から立ち上がり、コンピューターの電源を落とした。あらためてレイチェルに向き合い、軽く頭を下げる。 「記事も見られたので、長居するわけにもいきませんし、これで失礼致します。お忙しい中こちらのワガママを聞いていただいて、ありがとうございました」 「いいえ、お気になさらないで下さい。こちらもなにかあればお話を聞きに伺いますし、お互い様ですよ」 「そう言っていただけると幾分か気が楽です」 「よかった。またなにかありましたら、お気軽にいらしてくださいね。ロビーまでお送りします」 レイチェルの申し出を受け、ジェイソンが改めて笑みを浮かべた。 「ありがとうございます」 それから彼は視線を後方に送り、まだピリピリとした空気を纏うタロンへ声を掛ける。 「ジャックさん、帰りましょう」 「……はーい」 わざとらしい返事とともに、タロンが軽い足取りで部屋を出て行く。それにレイチェルが続き、最後にジェイソンがドアを閉めた。 来た道を戻り、エレベーターを使って一階まで戻ると、自動ドアの前でレイチェルが手を振ってくれる。 「気をつけてお帰りくださいね!」 「ええ。今日は本当にありがとうございました」 まだ日は高く、空は青い。ジェイソンの後について建物を出たタロンが眩しそうに目を細めた。 極端に口数の減った彼が次に口を開いたのは、ビルを出て五分ほど経ってから。ジェイソンとともに人通りのない路地に曲がった直後のことだ。 「アンタ、実は自殺願望があるとか、そういうオチ?」 話しかけられた神父は、刺々しい言葉に穏やかな声音を返す。 「いいえ。命を粗末にしてはいけませんよ」 太陽の日差しはビルによって遮られ、道全体が薄暗い。細く切り取られた青空が頭上に広がっていた。ビル風のせいでタロンとジェイソンの髪が煽られる。 その風の先に、たなびく茶色の髪があった。 薄暗い路地でも輝いて見える琥珀色の目が、無感動にふたりの男を捕らえている。その目よりも強く輝くナイフが細い両腕に一本ずつ握られていた。刃渡り三十センチはあるであろう、大ぶりのものだ。 レイチェル・ロス ゴッサム・ニュースデー社ビルで別れた後、ジェイソンたちを追ってきたらしい。薄い唇から、ビルでの明るい様子とはまったく違う、凍てついた声音が零れた。 「〈タロン〉、その男は〈法廷〉のことを探っているのに、なぜ殺さないの?」 「殺せって命令が出てない。命令はあくまで監視だ」 「口が上手いわね。〈法廷〉の存在を探るものはなんであれ、即座に抹殺するように言われているはずでしょ。この案件に関しては、ビークにも殺人が許されている。最優先事項よ。貴方は〈法廷〉の命令を無視した」 レイチェルがナイフを構える。銀色の刃先にジェイソンの姿が映った。男がゆっくり彼女に向き合うのを、タロンが手で制する。 「命令を無視したのはお前だ。今直ぐこの場から離れて、自分の仕事に戻れよ」 「偉そうに命令しないで、裏切り者!」 女がタロン目がけて走り出す。 彼女の振り下ろしたナイフを避けたタロンは、ジェイソンの服を乱暴に掴み、バックステップの合間に背後へ放り投げた。ぞんざいな扱いを受けた神父がエアコンの室外機に背中をぶつけ、眉を顰める。 レイチェルが右足を軸にして体をターンさせ、回転の力でタロンをナイフで切りつけた。 ジャンプして攻撃を避けたタロンが側面の壁を蹴ってレイチェルの背後に回り、女の細い首に腕をかける。 首を絞められたレイチェルは、地面を蹴って倒立することで拘束から逃れた。 そのままタロンの肩に乗り首に足を絡めるも、投げ飛ばされて地面に叩きつけられる。 両者とも、まるで曲芸師のような動き方だ。 感心する神父をよそに、タロンは地面に伏せて呻くレイチェルを見下ろしていた。 「なんで僕に攻撃するんだよ。お前、僕を殺せるつもりでいるの?」 わざとらしい嘲笑とともに殺気が降ってくる。レイチェルは取り落としたナイフをもう一度掴み、立ち上がってタロンを睨み付けた。 「裏切り者のアンタに〈タロン〉を名乗る資格はない! 今日から私が〈タロン〉になるわ!」 「嫉妬か? 醜いったらありゃしないな」 まだ完全に体勢の整っていない女の腹部に、タロンの蹴りが入った。後方に吹っ飛んだレイチェルは途中で体を丸め、猫のように一回転して攻撃の勢いを殺してしまう。着地の際、すぐ近くにいたジェイソンには目もくれなかった。〈法廷〉について探る者を抹殺するといいながら、おそらく彼女の本当の目的は、タロンの殺害なのだろう。 敵意を剥き出しにする女になにを思ったか、タロンの双眸がさらに剣呑な輝きを帯びる。金の殺気はゾッとするほど青空に似合わなかった。 青白い彫刻がズボンのポケットに手を突っ込むと、投擲用ナイフが三本姿を現す。 影の中で尚も光るそれをみて、ジェイソンはやっと我に返った。 すぐ近くにいたレイチェルの、ナイフを持った腕を掴む。 「……争い事はそれくらいで」 琥珀が神父の腕を見る。そこから辿るように首を動かした女は、薄氷色を視界にいれた瞬間歯を食いしばって瞳孔を見開く。 レイチェルが髪を逆立て、癇癪を起こしたように暴れ回り神父の手を振りほどいた。 「触るんじゃないわよッ!」 振り下ろされたナイフを避けたジェイソンは、結局自分を放り投げたタロンの横に後退せざるを得なくなる。 「思いのほか力が強いですね」 彼の呟きを聞いて、タロンが呆れた様な声を出した。 「とっとと逃げればよかったのに」 「貴方を置いてひとりで逃げられないでしょう」 梟の動きが一瞬止まった。金の眸子が少しだけ左右に揺れたあと、手にもった投擲用ナイフを握り直す。 「……ご立派なことで」 レイチェルの標的はジェイソンに移行したらしく、大きな刃が神父を狙ってきた。 空気を裂く音とともに、ポロシャツの袖が少し切れる。ワインレッドの布地が中空を舞う。 レイチェルは髪を振り乱し、眼窩に殺気を漲らせていた。出会った当初の、人好きのする笑顔は見る影もない。 「童謡にもあるでしょう神父様! 〈梟の法廷〉の名を口にすれば首をとられるのよ!」 「では祈りましょう。神よ、どうか私をお守り下さい」 ナイフが空気を切り裂いた。 ジェイソンは体を反転させて攻撃を避ける。ついでにレイチェルの手首に手刀を入れ、彼女の武器をはたき落とした。 もう一本のナイフが、動きの止まった神父めがけて飛んでくる。 「死ねッ!」 怒号。 ナイフが光る。 ジェイソンが避けるよりも早く、彫刻のような手が女の腕を掴み、捻り上げた。 ゴキリと鈍い音がして、金属が地面に落ちる。 どうやらレイチェルの左腕が折れてしまったようで、彼女は右腕で肩を押さえ、忌々しげにタロンを睨み付けた。 とうの梟は無感動に女を見下ろしている。感情は読み取れなかった。 女が髪を振り乱す。 「裏切り者! 貴方なんか〈タロン〉に相応しくない! そこは私の場所よ! 私が〈タロン〉よ!」 まだ辛うじて無事なレイチェルの左手が、ナイフの切っ先をタロンに向ける。梟は三歩ほど下がって、ジェイソンに一瞬だけ目配せをした。下がれ、と言っているようだ。 そうしてすぐ視線をレイチェルに戻し、吐き捨てる。 「訓練で一回も僕に勝てなかったくせによく言うよ」 どうやらレイチェルは、タロンと同じ戦闘訓練を受けているらしい。戦い方は類似しているし、あり得ない話ではなかった。訓練の成績が優秀だった者を〈タロン〉とし、その役職に名誉を与えるなら、レイチェルがこれほど〈タロン〉の座に執着しているのも頷ける。 ディックの右手には投擲用のナイフが五本、握られていた。 レイチェルが駆け出すと同時に、タロンの腕もナイフを投げる。 四本のナイフを避けた女は、最後遅れてやってきた一本を避けきれず、肩に刃物を受け止めた。 血が噴き出して床が汚れる。 それでも女は止まらない。 タロンは服の下からさらに投擲用のナイフを取り出し、今度は投げずに体勢を低くした。 ジェイソンが叫ぶ。 「待って下さいタロン!」 レイチェルの左手がナイフを振りかざす。 タロンは紙一重で攻撃を避け、伸びきった腕の下にもぐり込んだ。 そのまま懐まで一気に距離を詰め、もっていたナイフを体の中央――心臓目がけて突き立てる。 「っ」 女の顔が一瞬苦痛に歪み、口が大きく開いたが、そこから声が出ることはなかった。 光を失った琥珀色の目がぐるりと回転し、眼球だけが空を見上げたままうつ伏せに倒れる。 おそらくその衝撃でナイフがより深く刺さったのだろう。口からゴポリと音をたてて赤黒い液体を吐き出したレイチェルは、打ち上げられた魚のように一度だけ体を痙攣させると、それきりピクリとも動かなくなった。 薄暗い路地、頭上に切り取られた青空と、地面に広がった赤い汚れのコントラストがいやに鮮明だ。 タロンの靴先にまで血だまりが広がってきた。鉄の刺すような臭いが鼻腔を突き抜けていく。 ジェイソンは、女の死体を見下ろしたまま動かない梟の背中を、見つめることしかできなかった。 「タロン……」 神父の口からでた言葉がきっかけだろうか。タロンの背中がビクリと跳ね、金色の目がジェイソンを捉えた。彼が「あ」と思った時にはすでに青白い腕が襟首を掴んでおり、そのまま力尽くで壁に押しつけられる。 ガツン、と鈍い音がして肺から空気が逃げ出した。 息が出来ない。 つま先が地面から数センチ浮いており、視界の下方にギラギラと光る双眸がある。 彫刻の呼吸は荒く、食いしばった歯の間から低い唸り声が漏れた。 「お前が余計な首を突っ込むから僕はコイツを殺さなきゃいけなくなった。全部お前のせいだ」 タロンの足もとにはレイチェルの死体が転がっている。もう二度と動かない、鉄の臭気を振りまく"人だったもの"は、もはやただの置物同様気配もなく、地面に赤黒い液体を垂れ流し続けていた。命の源だったはずの水がゆっくりと下水に向かって流れていく。すでにゴミだと言いたげに。 襟首を掴まれ、体を持ち上げられたジェイソンは、すこし咳き込んだあと、締まる喉からなんとか声を絞り出した。 「彼女が、死んだのは……私の責任です。これは私の罪だ……それでも私は、人が、殺され、不当な扱いを受けるのは、見過ごせない」 タロンの口から「はっ」という嘲笑が漏れる。 「そのせいでまた人が死んでも? あの刑事のことだって、僕が〈法廷〉に報告すれば、僕が殺すことになる」 「その時は、私が止めればいいんですね?」 「バカにしてるのか。アンタに止められるはずないだろ」 「そうですか? 貴方がウェイン司教を殺すのは止めました」 タロンがさらに強くジェイソンの首を絞めた。神父が咳き込み、浮き上がったつま先が苦しげに少し動く。それでも彼は、薄氷色の目を梟から逸らさず、怒り狂った彫刻の顔をまっすぐに見下ろしていた。 引くわけにはいかない。興味本位で首を突っ込んでいるわけではないのだから。 「……貴方も、不当な扱いを受けている。私は、それを見過ごす気はありません」 タロンが一瞬痛みに耐えるような顔をした。 それからすぐ、怒りを露わにして眉をつり上げ、神父の体をさらに強く持ち上げる。 口から漏れる低い声は擦れていて、まるで悲鳴の様だ。 「余計なお世話だよ! アンタは大人しくしてればそれでいいんだ! 僕は不当な扱いなんか受けてない!」 ジェイソンの腕から力が抜けていく。視界の隅が暗くなって、金色だけが鮮明に見えた。 夜の路地裏で初めてこの梟にあった時のように、意識の全てが金に吸い込まれていく。 「……昔、子供の頃……私は、盗みや他の犯罪行為をして、生きてきました」 「は?」 タロンの口元が左右非対称に歪む。笑おうとして失敗した表情は、なぜか泣き出しそうに見えた。 きっと意識が朦朧としているせいだろう。 一度咳き込んで空気を吸い込んだジェイソンは、しかし酸素をほとんど取り込めていないことに気づき苦笑する。上手く表情を作れているかは自信がなかった。 「父は犯罪者で、母は薬物中毒で……いつか自分も、ドラッグを使うようになりました。クスリのために盗みを繰り返し、他にも、法に触れるようなことを、たくさんしてきました」 「なにそれ、懺悔のつもり? 僕に言ってどうするのさ。仲間の神父にでも聞いて貰えよ」 梟の声は震えていた。金色がとても美しい。他は夜の闇で出来たような男なのに、そこだけが太陽の光にとても似ていた。 青空の下ならきっともっと綺麗だとジェイソンは思う。こんなことを考えてしまうのは、酸欠で思考が上手く働かない証拠だ。 「気がつけば、カルト教団の一員になっていました。終末思想の……悪魔を崇拝するイカれた連中です……その時の私は、疲れていて、生きる意味もわからなくて……手を差し伸べてくれる人間なら、きっと誰でも……誰でも、よかった」 その時のジェイソンは何も考えない人形のようなものだった。ただ言われたとおりに行動し、言われた通りのことを信じる。動ける分人形より質が悪いかもしれない。クスリで疲弊しきった頭は救いを求め、なんにでもいいからすがりついてしまいたかった。 罵声を浴びせてこないなら誰でも良かった。狂った様に錯乱して暴れ出さないなら誰でも良かった。自分を認めてくれるなら誰でも良かった。 自分から手を伸ばすこともせず、変わろうともせず、そのままの自分ですがりついてもいいんだと言ってくれる誰かを探していたら、引き返せない所にまできてしまっていた。 その時見た光景を、ジェイソンはきっと一生忘れないだろう。 「この世の……地獄を見ました。私は、生きながら地獄に堕ち……そして、生まれ変わった……救ってくれた、ウェイン司教と、カトリック教会には……とても、感謝しています……」 タロンの腕から力が抜け、ジェイソンの呼吸が少し楽になった。視界がゆっくりと回復していく。 金色の目がじっとジェイソンを見つめていた。 ビルの影に切り取られた空が、青い。 大きく息を吸い込むと、頭にかかった靄もだんだんと晴れてくる。 「私は、洗脳されていた。クスリで狂った頭に都合の良いことばかり吹き込まれて、利用されて、戦闘術は……その時、教わりました。数え切れない罪を犯した……一生かけても、償いきれないほどの、罪です。あの時の私は、それが正義だと信じていた……信じ、込まされていた……だから、わかります」 梟の体が微かに震えたようだった。腕がゆっくりと下がり、ジェイソンのつま先が地面に触れる。 「貴方は〈梟の法廷〉に洗脳されている」 とうとうタロンがジェイソンの服から手を放した。神父の気管が開放され、新鮮な空気が入り込んでくる。すでに体力の限界に達していた男は、壁にもたれかかったままずるずると座り込んだ。その神父の肩を、梟の足が蹴る。ジェイソンの喉から「ぐぅっ」と短いうめき声が飛び出した。 梟は神父を見下ろし、睨み付けている。 「洗脳じゃない」 タロンの薄い唇から出た言葉は短く、強く、震えていた。 「僕は、洗脳なんかされてない」 まるで自分に言い聞かせているようだと、ジェイソンは思う。 彫刻のような端正な顔が、今にも泣き出しそうに歪む。細められた金目がグラリと揺れ、あまり光の差し込まない路地裏なのに、太陽でもあたったかのように煌めいた。 「僕は、これしか知らないだけだ」 ジェイソンが無理矢理体を起こす。タロンの足を退けると、彼は大人しく神父から一歩離れた。いやに素直だ。俯いてしまったので表情は伺いしれないが、両の拳を硬く握って立っている様は、まるで迷子のようである。 神父という職業柄、ジェイソンはこんな子供をたくさん見てきた。泣くのを我慢している、誰かに助けて欲しいのに助けてと言えない、不器用な子供たち。 気がつけば彼は、今まで見てきた子供の誰よりも背の高い迷子を、いつものように優しく抱きしめていた。 きっといつもなら全力で抵抗するだろう彼は、ただ大人しくされるがままだ。 「それを、洗脳と言うんです」 できることならレイチェルも助けたかった。彼女も〈梟の法廷〉に洗脳された被害者だ。頑なに〈タロン〉という肩書きを欲したのも、彼女がそんな世界しか知らなかったからだろう。 世界はもっと広く、素晴らしいものがあるのだと、教えることができればどんなによかったか。 ジェフリーもそうだ。怯えるような最後ではなく、自分と向き合い穏やかに生きて、穏やかに天の国にいけるように取りはからえれば、どんなによかったか。 ジェイソンの手はいつだって小さくて短くて不器用で、救える命よりも救えない命のほうがはるかに多い。 「貴方が知らないことは、罪ではない だからせめて、今手を掴んでくれているこの迷子だけでも救いたいと、強く願った。 「あなたが知らないことは、これから知っていけば良いんですよ。タロン」 迷子の体が小さく震えているのに、ジェイソンは気づかないフリをする。くぐもった声がタロンの口からこぼれ落ちた。 「……ごめん、アンタが、悪いんじゃないんだ。あいつは自分が〈タロン〉になるために、僕を殺そうとしてた。アンタのことは、ただの口実だったんだ」 消え入りそうな言葉に返すべきなにかを、ジェイソンは持ち合わせていない。ただ大丈夫だという意味を込めて迷子の背中を二、三度撫でる。彫刻の震えが収まったあたりで「帰りましょう」と優しく言うと、梟は小さく頷いてくれた。 その日の夕食はクラムチャウダーと、チーズ入りオムレツにほうれん草のバターソテーを添えることにした。 司祭館のリビングに、ふたり分の食事が並ぶ。 タロンは右側の椅子に手をかけたまま、湯気の立つ料理を見つめていた。 「また僕の分まで作ったの」 「助けてくれたお礼、ということではダメですか?」 梟は答えない。ジェイソンはいつものことだと割り切ってテーブルについた。後を追うようにタロンもそっと椅子に座る。 青白い顔の彫刻が神父を見ていた。そこに、今までの監視するような視線は感じられない。 ジェイソンはテーブルに並べられた料理を前に両手を組み、目を瞑った。 「父よ、あなたのいつくしみに感謝して、この食事をいただきます。ここに用意されたものを祝福し、わたしたちの心と体を支える糧としてください」 男の右手が空に十字を切った。 「わたしたちの主、イエス・キリストによって。アーメン」 彼が祈りを終えた途端、梟がスプーンを手に取った。どうやら用意したものを食べてくれる気になったようだ。祈りが終わるまで待っていてくれたのも、彼なりの気遣いなのだろう。 青白い手が、食器を白いスープにくぐらせる。 大きめのスプーンにジャガイモとニンジン、それにクラムがひとつ入っていた。薄い唇が開いて、彫刻がスプーンを口の中に運ぶ。ゆっくりと金属が引き抜かれ、頬が動くたびに眦が見開かれていく。金の双眸が光を吸い込んだ。宝石のように煌めく目がジェイソンを捉え、青白い頬が微かに高揚する。 タロンの喉が上下し、それからすぐまた口が開いた。 「……おいしい」 今まで聞いたことのない、梟の明るい声。照れくさくなった神父は笑みを浮かべて首を傾げた。 「それはよかった。作った甲斐がありましたよ」 また梟が食事を再開した。今度はパンをちぎり、スープに浸している。スプーンで汁気を帯びたパンを口に運び、次にフォークでオムレツを一口分だけ切り分ける。 忙しなく動く彫刻の口元を見て満足したジェイソンは、自分もフォークを手に取り食事を開始した。 クラムチャウダーは透明になった玉ねぎが独特の甘みを出している。ジャガイモは噛むというより歯で潰すといった感じで、口にいれると溶けるようにスープと混ざった。貝の身は引き締まっていてエビのような噛み応えがある。ベーコンと貝の出汁がスープに深みを加えていた。 チーズとマッシュルームの入ったオムレツは空気を多分に含み、つるりとした黄色い表面には光沢があるように見える。フォークで割ると湯気が出て、溶けたチーズがトロリと糸を引いていた。口に入れるとマッシュルームの食感がする。卵は噛むまでもないほどやわらかい。 続けてパンを口に放り込んだジェイソンは、向かい合う形で座ったタロンがじっと自分の食事風景をみていることに気がついた。 彼の手元を見ればクラムチャウダーが綺麗になくなっていて、オムレツもあと一口しか残っていない。 「……おかわりは、いりますか?」 「いる」 少しは信用してくれたのだろうか。ジェイソンはフォークを置いて、タロンの前に置かれていたクラムチャウダー用の皿を手に取った。 「オムレツはないですけど、クラムチャウダーとほうれん草ならまだありますからね」 「うん」 タロンの前にまたクラムチャウダーを置くと、すぐさまスプーンを取って食べ始めた。目はキラキラと輝いていて、頬はやはり少し赤い。 追加のスープを半分ほど飲み干したところで、彼はふと顔をあげジェイソンを見た。 「僕、これ好き」 まるで本当に子供のようだ。懸命にスプーンと口を動かすさまは見ていて心地よく、ジェイソンの心に暖かいものをつれてきてくれる。 「ずいぶんたくさん食べますね。いらないとおっしゃっていたのに」 タロンが微かに目を細めた。 「食べなくても平気だけど、食べる時はたくさん食べるよ。食べない時のために貯めておかないといけないから」 「そうですか。おかわり、いります?」 「いる」 「明日の分は残りそうにないですねぇ」 苦笑交じりにジェイソンが呟くと、後ろからタロンの声が追いかけてきた。 「明日の朝も、僕、食べるから」 「じゃあ、たくさん作らないといけませんね」 タロンの前に皿を置き、ジェイソンが席に着く。明日の朝の献立を考え、心が弾むのは久しぶりの感覚だった。 昔は人間らしい食事がとれるだけで嬉しくて、食べ物に困らない生活が嬉しかった。神父になって、司祭館で自炊するようになってからは、自分の好きなものを自分で作れるようになったのが嬉しかった。 その頃を思い出す。 いつのまにか当たり前になってしまった幸福が、突然息を吹き返す感覚に戸惑いながらも、思い出させてくれたタロンに深く感謝した。 タロンはまたクラムチャウダーを飲み始めている。 ジェイソンはほうれん草のソテーをクラムチャウダーにくぐらせた。こうするとお互いがお互いの味を引き立ててより一層美味くなる。 神父の行動を見ていたタロンが不思議そうな表情のままジェイソンの行動を真似した。白くコーティングされた緑を咀嚼した瞬間、雷に打たれたような顔をした暗殺者が、すぐさまフォークで残りのほうれん草を突き刺す。 美味そうに自分の作った料理を食べてくれるのはそれだけでとても嬉しいものだ。幸福感に包まれたまま、ジェイソンはふと、タロンに尋ねた。 「……タロン、と呼んでも構わないんですが、それは貴方の名前ではないんでしょう? もしよろしければ、名前だけでも教えていただけませんか?」 梟の動きが一瞬止まった。今までなら警戒と殺気を前面に出し、ジェイソンを睨み付けていたはずなのだが、今回はすぐ食事を再開し、口に入れたものを飲み込んでしまう。ジェイソンと目を合わせようとしないものの、横顔にあるのは微かな憂いだけで、ピリピリした緊張は感じられなかった。 「〈タロン〉が僕の名前だよ。それ以外に名前はない」 「そうですか……」 おそらく、暗殺者となった時に、あるいは暗殺者候補となった時に、名前を奪われたのだろうと容易に想像できる。そうして、タロンと名づけられなかった候補者たちが、レイチェルやカートや、ジェフリーのように新しい名前を与えられ、街に溶け込んで暮らすのだ。 そういう意味では、きっとレイチェルもタロンも、呼び名としては大して変わらない。 〈梟の法廷〉のための駒。クイーンかビショップかルークかナイトか。音の違いは、きっとその程度の差違しか持たない。 本当の名前については、忘れているのかもしれないし、言いたくないのかもしれない。それは解らないが、タロンという音の羅列は彼だけの名前ではなく、ただの呼称だ。 そんな音でしか目の前の迷子を呼べない自分に歯がゆさを感じながら、ジェイソンはいつもより美味く感じる食事を終える。 そうして食べる前と同様、目を瞑って両手を組んだ。 「父よ、感謝のうちにこの食事を終わります。あなたのいつくしみを忘れず、すべての人の幸せを祈りながら」 神父の右手が十字を切る。 「わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン」 すると初めの祈りとは違い、向かい側から声が追いかけてきた。 「アーメン」 ジェイソンが驚いてタロンを見る。彼は、照れたように神父から目を逸らした。黒髪で隠れて目元がよく見えない。 唇がすこし動いて、小さな声が聞こえた。 「……本当は、覚えてないんだ」 「ん?」 ジェイソンが首を傾げると、タロンが黒髪の隙間からチラリと視線を寄越す。相変わらず、声は小さかった。 「名前。〈タロン〉になる前は確かに名前があって、両親もいたのはわかるんだけど、記憶が曖昧でわからない。訓練中は番号で呼ばれてたし、〈タロン〉になってからは〈タロン〉としか呼ばれてないから」 番号で呼ばれていた時期にレイチェルも一緒だったのだろう。彼女もその時番号で呼ばれていたに違いない。それ以前の記憶が曖昧なのは、〈梟の法廷〉にそう"処置"されてしまったのか、訓練やタロンとしての期間がそうさせたのか、ジェイソンには判断がつかない。 「そうでしたか。それは……無神経なことをお尋ねしてしまいました」 「いいよ。僕にはこれが当たり前だから」 当たり前であってはならない、と言おうとして、しかしそうしてなんとか前を向いている人間に対し、どうにもならないことをわざわざ指摘するのは躊躇われた。名前を奪われ、個を剥奪されるのが当たり前であってはならない。それは正論だ。だが、実際に奪われ、剥奪された人間に対し、それが自分にとっての当たり前だという人間に、わざわざ違うと指摘したとしてどうなるというのか。彼が名前を奪われ、個を剥奪されたことに変わりはなく、今後その事実を変えることもできない。 言葉が見つからず目線をさ迷わせるジェイソンに対し、タロンはまるで勇気づけるかのように笑みを浮かべた。 「ご飯、美味しかった。意地張らないで、もっと早く食べてればよかった」 話題転換も、きっと彼の優しさだろう。ジェイソンは強く不甲斐なさを感じたが、今まで自分を警戒していた梟が見せた優しさを無下にするのは嫌で、タロンの厚意に甘えてしまおうと決めた。 「いつでも作りますよ。これから、いつでも食べられますから、安心してください」 「うん、ありがとう」 ジェイソンが空になった皿を持って流し台に向かうと、タロンも真似をして空になった皿を運んでくれる。 こんなところまで子供のようだ。 もしかしたら、彼の知識はひどく歪で、戦っている時こそ大人びて見えるけれど、それ以外は子供のまま止まっているのかもしれない。人を殺すための知識しか与えられていない可能性は充分にあった。 だとすれば、更生の可能性は残っている。 彼が与えられてこなかった知識を教えられたなら、やり直せるかもしれないのだ。 「ああそうだ、タロン」 「なに」 なにが楽しいのか、梟はジェイソンの様子を後ろから見つめている。洗い物をしているだけで特になんの変哲もないのだが、監視というふうでもなく、本当にただ興味深げに神父の手の動きを追っていた。 「今日、これからお客さんが来ますから、私はすこし就寝が遅くなります」 「こんな夜更けに? 誰が来るのさ」 「友人に調べ物を頼んでいまして。同席したいのでしたら、どうぞ」 タロンの体が少し動いた。場の空気が僅かながら緊張感を孕む。ジェイソンは全身の毛が逆立つのを感じたが、極力表に出さず、穏やかな顔で洗い物を続けた。 梟は蛇口から出る水を見つめている。 「……なにを、調べてもらったんだ」 「レイチェルさんと、カートさんの過去について、少し」 「僕が監視するように命じられたのはアンタだけだ。そいつが〈法廷〉について必要以上に知ってしまったら、殺さなきゃいけないぞ」 「その時は私が止めますし」 舌打ちこそしないものの、背後に感じるタロンの気配がすこし不機嫌そうなものに変化する。 洗い物を終えたジェイソンは、蛇口から出る水を止めて梟に視線を向けた。 「彼にはとても優秀なボディーガードがついていますから、大丈夫ですよ」 青白い彫刻が、ますます面白くなさそうに口をへの字に曲げた。 ティモシー・ジャクソン・ドレイクは、弱冠十八歳にして多国籍企業ドレイク産業の社長を務める才多き若者で、飛び級によりすでにMITの経済学部を卒業している。一見順風満帆に見える彼の人生は、しかし両親を犯罪者によって殺されるという悲劇が暗い影を落としており、彼が十八歳にして社長となったのも、前社長である父親が犯罪者に殺されてしまったからであった。 元々経営の安定していたドレイク産業は、彼が社長に就任したことによりさらに多額の利益を出すようになり、余剰ともいえる黒字に関して、ティムはカトリック教会やその他ボランティア団体、NPOなどへの支援に惜しみなく注ぎ込んだ。 神の名の下にさまざまな支援活動を行う聖ラザロ教会にも、彼はやはり手厚い援助を行っている。 故に、ジェイソンとティムが交友関係を築くのに大した時間はかからなかったというわけだ。 年若い社長で、飛び級によりMITを卒業し、盤石な会社の基盤をさらに強固なものにしたという功績だけが世間に注目されるティム・ドレイクではあったが、特筆すべきはむしろ彼の"探偵"としての才能である。世間で評価されている彼の業績など、彼の探偵としての才覚が生み出した副産物でしかない。彼個人を知る者は、口を揃えていうだろう。 『ティム・ドレイクは生まれついての探偵である』と。 豊富な知識と観察眼、想像力、直感、そしてなにより素晴らしい推理力に恵まれた彼は、個人的にさまざまなものを調査し、社会にそっと貢献するという変わった趣味を持っていた。 「レイチェル・ロスは、大学で教育学とジャーナリズムについて学んだ後、ゴッサム・ニュースデー社に就職した。トッド神父の言った通り、元サーカス団員の孤児だったよ」 司祭館の電球がティムの黒髪を照らす。絹のような光沢を持つ髪は夜空を思わせる黒色で、サラサラと流れる細い糸は限りなく紺に近かった。 テーブルの上に広がった資料を弄ぶ手は細く長く、繊細な手つきで紙面を捲る。そのたびカサリと音がして、サファイアを思わせる双眸が、黒いインクで印刷された文字を追う。 「大学には奨学金を利用して進学。それ以前はヘイリーズ・サーカスで働いてた。それから、カート・グレイヴスについてだけど」 また細い指が紙を一枚捲った。整ったティムの顔にはうっすらと笑みが浮かぶ。新しい情報と、真実に到達した時、勝ち誇ったような笑みを浮かべるのはティムのクセだった。 「彼の曾祖父は建築家のジュード・グレイヴス。ゲート兄弟ほど有名ではないけど、ゴッサムの黎明期を支えた建築家だったのは確かだ。特にメディナ家の依頼で数多くの建築物を残したから、"メディナ家のお抱え建築士"なんて言われ方もするね。ただ、カートの父の代からは警察官の道を歩んでるようだ。こっちは孤児ではないけど、やっぱり奨学金で大学まで進んでる。彼の父も奨学金を使用。おもしろいのは、三人とも同じ奨学金制度を利用してしてるってことだね。それが……」 「メディナ奨学金制度ですか」 ジェイソンにとっておきのセリフを取られた青年が、面白くなさそうに肩を竦める。一瞬だけ口を尖らせた彼は、すぐさま気を取り直してまた紙面を捲った。 「神父様大正解! メディナ奨学金制度は美術や芸術関係の特待生が多いんだけど、十年に一度の周期で普通の大学に進む利用者がひとりいるんだ。カートの前は、ジェフリー・ヒュームがそうだった。彼は大学時代、フェンシングの大会で三度優勝経験がある」 ジェイソンは、ブルースが件の奨学金制度について語っていたことを思い出す。 『メディナ奨学金は、どうにも芸術関係に進む子供にばかり出資している。特徴といえばそれまでだが、メディナ奨学金を使って普通の学校に行くのは十年にひとり程度だ。あとは美術大学に進み、アートや建築やデザインを学ぶ。稀に美術史を学ぶ者もいるようだ』 この十年にひとりという割合が偶然ではなく作為的であったなら、制度のみならず出資先のメディナ家もきな臭くなってくる。 ティムが楽しそうに目を細めた。光を取り込んだサファイアが一瞬鮮烈な光を放ち、不敵な笑みでもってジェイソンを見据える。 どうやらセリフを横取りされたことがまだ悔しいようで、今度こそ驚かせてやろうという魂胆が見え隠れしていた。 彼は輝かしい経歴のわりに、親しい者に対しては妙に子供っぽいところを見せる。 「それと、レイチェル・ロスが以前働いてたヘイリーズ・サーカスも、メディナ家が大量の援助金を出してる。最近はどこのサーカスも経営難だからね。無形文化財保護がお題目になってるけど……ここまでカードが揃えば、どんなバカだってメディナ家が〈梟の法廷〉に一枚噛んでるってことには勘づくさ」 ティムがもう一枚紙を捲る。 「あとこれは、ハーパー神父から貴方への言づてなんだけど」 「彼も調査が終わりましたか。早いですね」 「あの人は貴方の"同類"なんだから当たり前でしょ」 彼がジェイソンの前に突き出した資料には、ヘイリーズ・サーカスに関しての調査記録が記されていた。 曰く、子供のサーカス団員が、十年に一度入れ替わるのだと言う。レイチェル・ロスも十年前にあった入れ替わりでサーカスを脱退した記録があった。 ティムの浮かべた笑みが深まる。 「神父様は知ってる? 古代の剣闘士たちが闘技場に向かう際、曲芸師や道化師の一座が彼らを導くことがあった」 「それが後世のサーカス団なんですよね」 「そう。ならばこのサーカス団は、〈梟の法廷〉の闘技場に、剣闘士たる子供達を導く役割を果たしている可能性があるわけだ。メディナ奨学金制度で普通の大学に通う子供が十年に一度現れ、ヘイリーズ・サーカスで十年に一度子供団員の大規模な入れ替わりが起こるのは、どちらも偶然じゃない。こんな偶然は起こりえない」 そして、十年前サーカスで起こった事件がもうひとつ。 ティムの指が紙面の一文をなぞっていった。 「かつてヘイリーズ・サーカスには、空中ブランコで有名な曲芸一家、『フライング・グレイソン』と呼ばれる団員たちがいた。サーカスが地元のマフィアとみかじめ料についてもめていた時期に、曲芸中の"不幸な事故"でジョン・グレイソン、メアリ・グレイソンの夫婦が死亡。彼らのひとり息子であるディック・グレイソンも、まもなく後追い自殺したらしい。この、ディック・グレイソンの顔写真も、ハーパー神父が入手してくれたよ」 資料に付随していたのは、黒髪の少年がステージの上で晴れやかに笑っている写真だった。青い目がライトに照らされキラキラと光っている。晴れ渡った青空を凝縮したような眸子と、健康的な肌。まだ幼いながらも鍛えられた体がしなやかに伸び、観客に向かって手を振っていた。 「ありがとうございます、ティム」 「あとでハーパー神父にも言っておきなよね」 「ええ。そうします」 ティムが椅子から立ち上がる。同時に、リビングの向こうでガタリと大きな物音がした。 青年がサファイアをスッと細め、訝しげな表情をつくる。薄い唇から「なんだろう」という低い声が漏れた。様子を見るに、もう心当たりがあるようだ。 ジェイソンもおおよその見当はついていたので、ドアノブに手を掛けたティムにならい廊下へと顔を出す。 黒髪をツーブロックにして、完璧にセットした青年が立っていた。 手には梟の意匠が施された投擲用ナイフを持っており、彼が力を入れた途端、まるでオモチャのように軽い音を立て、粉々に砕けてしまう。 コナー・ケント ティム・ドレイクのボディーガードとして常に傍らに立つ青年だ。 室内でもサングラスをめったに外さないのは、曰く『目が良すぎるから』なのだそうだが、真偽の程は定かではない。 ティムがどこにいてもすぐに駆けつけ、ナイフを手の力で粉砕できるほどの怪力を持つ、優秀なボディーガード。その強靱すぎる能力ゆえ、実は宇宙人だとか宇宙人と人間の遺伝子を混ぜたクローンだとか、元々生物兵器として開発されたのだとか根も葉もない噂が飛び交うほどだ。 彼らは旧知の仲として知られており、いわゆる幼なじみの関係にあった。ティムの幼なじみにはもうひとり、ドレイク産業の研究開発部門にいる『最速の青年』もおり、そちらの青年には『仕事をしている姿が早すぎて見えない』という、それこそ冗談のような噂がついて回っていた。 常日頃から三人で一緒にいる彼らであったが、、今回は知人の家に訪問するだけとあってコナーだけがついてきたらしい。 ティムは友人であり被用者でもある男を見て、小さく首を左右に振った。 「大人しくしてろって言ったはずだよな、コナー?」 名前を呼ばれた男が歯を見せて笑う。イタズラに成功した子供のソレだ。 「あっちが先に仕掛けて来たんだぜ? しょうがねぇだろ」 彼が指差したのは、コナーと対峙するように立っているタロンだ。青白い肌が電球に照らされ、金の双眸に殺気が宿っている。コナーとは対照的だ。まさに太陽と月といって良い。 ボディーガードの弁明を聞いたティムが小さく唸った。 「僕にもう一度、同じことを言わせる気か?」 雇い主兼親友の機嫌が急降下したとは悟っているはずなのだが、コナーに萎縮した様子はない。むしろ人好きのする笑顔のまま頭の後ろで手を組み、わざとらしく壁に寄りかかって見せた。 「俺はお前の猟犬じゃなくて、ボディーガードだぜ? お前に危険が及びそうならすぐに動くさ。名探偵様の判断基準で動いてちゃ、あっという間に俺の親友が殺されちまう」 ティムの口元に笑みが広がった。ただし目は笑っていない。瞳孔は見開かれたままコナーを凝視しており、うっすらと開いた口元から非常にトゲのある短い笑い声が漏れた。 「誰かれ構わず噛みつくなら番犬以下だな。あんまり暴れるなら口輪を付けるぞ、駄犬」 ギリギリまでティムをからかって遊んでいたコナーだったが、これ以上は危険と判断したらしく、肩を竦めて両手をあげる。『降参』のポーズだ。 「おぉーぅ、おっかねぇ! わるかったよ、ティム」 すると青年社長が神父に顔を向け、「それじゃあ、また今度」と言って手を振った。それからツカツカと大股でコナーに歩み寄り、親友に目線もくれずに硬い声を出す。 「話は終わった。帰るぞ」 「へーへー」 ティムがもう一度振り返り、ジェイソンに向かって手を振ってくれた。ジェイソンもそれにならい手を振ると、まだ頭の後ろで手を組んだままのコナーが、笑顔でこちらもジェイソンに手を振った。 彼の 「またなー! 青っちょろいのー!」 という言葉に、おそらく投げかけられた当人であろうタロンは反応しない。ただ不服そうに口を尖らせ、前髪に息を吹きかけただけだった。 帰宅する友人を見送ったあと、神父が改めて梟に向き直る。 「なにがあったんですか?」 タロンは口を尖らせたままで、一瞬だけジェイソンに視線を向け、すぐに顔を逸らしてしまった。 「別に。ちょっと遊んでやっただけだよ」 「遊ばれたのは貴方では?」 空気が凍る。重くなった空気の中には怒気と僅かな殺気が混じっており、ジェイソンは緩む口元を抑え、タロンに向かって右の手のひらを見せた。梟は不機嫌を隠そうともせず神父を睨んでいる。 予想通りの反応だ。コナーとは違うタイプだが、タロンも結局子供じみたところがある。 「失言でした。話したいことがあるので、リビングへどうぞ」 彫刻が腕組みをしたまま早足でリビングへと入っていった。顎を突き出したままテーブルの上に乗ったタロンは、ジェイソンの「行儀が悪いですよ」という言葉を綺麗に無視し、鍛え抜かれた長い足をこれ見よがしにぶらつかせた。 「この部屋寒くない?」 タロンの硬い声に、ジェイソンは目をしばたたかせる。 「そうですか? 夜ですから、少し気温は低いかもしれませんが……」 「寒いよ」 梟の体が一度小さく震えた。どうやら冗談ではないらしい。自分の腕をさする彫刻が、造形と裏腹にあまりに人間じみていて、ジェイソンは思わず笑ってしまう。 最初に出会った時の印象が嘘のようだ。 あの時は、感情のない人形かなにかのように感じた。 「冷たい食べ物だけじゃなく、寒さも苦手なんですね。カイロ使いますか?」 「なにそれ」 「私も信徒さんに教えていただいたんですけど、服に貼ると発熱して暖かくなる防寒グッズですよ。肌に直接貼ってはいけませんよ。低温火傷をおこしますから」 「ふーん」 「待ってて下さいね。確かまだ五つくらい残っていたと思うんですけど……」 出かける時に必要なものなので、リビングの戸棚にしまったはずだ。記憶を頼りにドア付近の収納スペースを探り、すぐに貼るタイプのカイロを発見する。ジェイソンがカイロを一枚もって振り向くと、テーブルの上に座ったタロンが、紙面の一枚を見て目を細めているところだった。 「また随分と細かく調べたもんだね」 「ええ。もう脅さないんですか?」 「脅したって無駄だろう」 柔らかい声色だった。諦めているようにも呆れているようにも、受け入れているようにも聞こえる。神父がカイロを手渡すと、梟は素直にそれを受け取り、しばらく商品の説明書きを目で追っていた。 「それで、なにかわかったの?」 「はい。とても重要なことがわかりました」 カイロを持つ青白い指に力が入る。 「……なに?」 グシャリ、とパッケージが歪む。 梟の全身が緊張感を帯び、視線は行き場所を失ったように中空をさ迷った。声が微かに震えている。 ジェイソンは気づかないフリをして、タロンの背後にある資料に手を伸ばした。 彫刻は一瞬ビクリと跳ねたが、まるでそんな自分の反応を恥じるように顔をうつむけてしまう。 床を睨み付けるタロンに対し、ジェイソンが一枚の写真を差し出した。 「これを見て下さい」 黒髪の少年がスポットライトを浴びている。青空を凝縮したような瞳がキラキラと輝き、押さないながらも整った顔に満面の笑みが浮かんでいた。 彫刻のような造形には、タロンの面影が確かにある。 「貴方の名前を、見つけたんです。貴方は、ヘイリーズ・サーカスでかつて『フライング・グレイソン』と呼ばれた曲芸師一家のひとり息子だ。曾祖父であるウィリアム・カッブがサーカスに入団して以降、代々サーカスの曲芸師として生きてきた。記録では両親が事故で死亡したのち、後追い自殺したことになっていますが……」 タロンは食い入るように写真を見ていた。本当の彫刻のようにピクリとも動かない。微かに動いた口から漏れる息だけが、彼の発する音であり、動きだった。 ジェイソンは彼の様子をまっすぐに見つめる。伝えなければいけない。梟が忘れてしまったという、彼の過去を。そこから連なる大切なものを。彼が彼だと証明できる、魔法の呪文を。 「レイチェルさんがサーカスを抜けたのもこの時期で、他にも何人か、同じようなタイミングでサーカスを抜けている。この十年前にも子供団員の大規模な入れ替わりがありました。ヘイリーズ・サーカスは、定期的に子供を〈梟の法廷〉に貢ぎ、〈タロン〉になるための訓練をさせていますね?」 「……その質問に、僕は答えられない」 タロンが写真をジェイソンに突き返す。紙片を受け取った神父は、まだ俯く彫刻と写真をもう一度見比べた。 「それで結構です」 タロンが顔を上げる。ジェイソンの薄氷色と、梟の金がぶつかり合った。出会った当初は殺気か無感情のどちらかだった眦は、迷子の子供のように頼りなく揺らいでいる。 その揺らぎを止めたいと思った。 「貴方の名前は、リチャード・ジョン・"ディック"・グレイソン。ジョン・グレイソンとメアリ・グレイソンの息子……これに、違和感はないですか?」 彫刻の薄い唇が開き、まず小さな息が漏れ出す。視線が一秒さ迷い、やがてゆっくりと呼吸が音をなし、ジェイソンの前にこぼれ落ちた。 「……ない。ないよ。違和感はない」 カイロを持つタロンの――ディックの手に力が入る。既に皺のよったパッケージがさらに歪んだ。 「たぶんそれが、僕の名前だ。ウィリアム・カッブは僕の曾祖父。それは、聞いたことがある」 「そうですか。では、間違いないですね」 ジェイソンの手が、カイロを握りしめていたディックの青白い手を握る。冷たい指先を温めるように包み込んで、まだ揺らめく金の目を覗き込んだ。安心させるように笑みを浮かべ、ゆっくりと宥めるような声を出す。少しでも安心してくれればいい。 「貴方の名前が知れて良かった、リチャード。今日は良い夢が見られそうです」 梟の目尻にうっすらと輝くものが浮かび上がった。ジェイソンが軽く腕を引くと、彼は驚くほどあっさりとテーブルから下り、神父に向き合う。 神父はまだ彼の手を握ったままだ。冷たかった梟の指先が、少しずつ温かくなってきた気がする。 「貴方もどうか、良い夢を。おやすみなさい」 ジェイソンが手を放すと、今度はディックが神父の手を掴んだ。ジェイソンの動きが止まる。目の前に立つ彫刻のような男は、自分がなぜこんなことをしているのか一瞬理解できないようだったが、やがて神父の手を握ったまま、眼窩に嵌まった金色が溶けて頬を伝っていった。 瞼の下から雨が降り出したかのように、静かにただ水滴が青白い頬を滑り落ちていく。 梟の唇が動いた。 「リチャード……グレイソン……」 ディックが噛み締めるように自分の名前を呟いて、ジェイソンの手をさらに強く握る。まだ眼窩から涙を流す梟は、しかし泣きながら笑うという器用な芸当をしてみせた。 濡れる金の目に、もう迷いは見られない。 「……僕の名前を教えてくれたのが、貴方でよかった。トッド神父」 ジェイソンもディックの手を握り返して、笑みを返す。 「ジェイソンでも構いませんよ。それに、私がひとりで探し当てたのではありません」 「それでも、僕は貴方に教えて貰えてよかった。あの写真を僕だと解ってくれる人がいてよかった」 既に時間は夜の十時を回っている。 「だから、ジェイソン……」 ディックが少し照れくさそうに肩を丸め、一瞬顔をうつむけてから意を決したようにまた神父を見た。 「もう一回、僕の名前を、呼んで貰ってもいいかな?」 「かまいません」 見つめられた神父まで、なぜか照れくさくなってしまった。梟の流す涙を人差し指で拭ってやると、ディックの笑みがますます深くなる。初めてみる嬉しそうな彼の笑みは、ジェイソンを幸せな気分にさせてくれた。 人を傷つけることしか教えられてこなかったディックに、まだ心の底から笑える心が残っていてよかった。 奪われることと、奪うことしか教えてこられなかった彼が、また写真の中のような笑顔を浮かべられてよかった。 ジェイソンは、心の底からそう思う。 「貴方が満足するまで、いつでも、何度でも、呼んで差し上げますよ。リチャード」 [しおりを挟む] 目次 戻る |