2 深夜であろうとも、ゴッサムの中心部はネオンライトに照らされて明るいのだが、教会ともなればさすがに朝日とともに目覚め、日没とともに眠る。 実際、梟が庭から司祭館とその周囲を監視していても、教会の周りだけが街から切り離されたように静かだった。 そんな教会でも、まれに夜中救いを求めやってくる人間もいるそうで、そういう時は自然と目が覚めるとジェイソンは語った。 神父という肩書きに不釣り合いなほど、人の気配に敏感な男だ。 訓練を受けたディックですら、自分を捜索されているつもりで息を潜めていなければ、たちどころに居場所がバレる。 ディック 教えて貰ったばかりの自分の名を口の中で転がし、梟は口元にうっすらと笑みを浮かべた。 神父はリチャードと呼んでくれた。それが自分のファーストネームらしい。だから、愛称はディック。ファミリーネームはグレイソン。ミドルネームは父の名前と同じ、ジョン。母親の名前はメアリ。 欠けていたピースが嵌まっていく感覚に、ディックはこれが自分の過去なのだと確信した。それに、曾祖父がウィリアム・カッブなのは間違いない。 なぜなら彼は―― ディックが人の気配を察知する。現実に引き戻された彼が背後を振り返ると、司祭館の周囲に植えられた木々の一本に、人影が立っていた。 影が聞きなれた声でその場を空気を震わせる。 「〈タロン〉、神父はどうしている」 なぜならウィリアム・カッブは……彼は――ディックに〈タロン〉としての技と心得を叩き込んだ師匠なのだから。 木の上に立っていたのは、ディックと良く似た黒髪に、青白い肌の男。かつての〈タロン〉にしてディックの曾祖父、ウィリアム・カッブ。 ジェイソン・トッドとブルース・ウェインの素性調査を命じられた男だ。 ディックと同じ金の目が、闇夜の中で光っている。 感情の読み取れない獣の目だ。 若い梟は、肌を嬲る威圧感に僅かばかり眉を顰める。 「師匠、調査は終わったの?」 「ああ。今から報告に行く」 「そう。いってらっしゃい」 「お前も〈法廷〉に戻るぞ」 なぜ教会に来たのかと思えば、ディックを呼び戻しにきたらしい。 「神父の監視は?」 「もう必要なくなるだろう。一緒に来い」 ということは、ジェイソン・トッドが何者か、ウィリアムはきちんと情報を入手してきたのだろう。さすがに優秀な男だ。 木の上からウィリアムの影が消える。ディックに拒否権はない。〈タロン〉なのだから当然だ。 狩りしか知らない梟に選択肢を与えてくれたのは、後にも先にもジェイソンしかいない。 〈タロン〉は一瞬闇夜を見つめたが、すぐに意を決して立ち上がった。最後に神父の顔を見たいと思ったが、彼は今頃夢の中だし、妙な行動をしてはウィリアムに叱責されるだろう。 諦めるしかなさそうだ。 また選択肢のない世界に戻っていくのだと思った途端、胃の辺りがムカムカして、夕食に食べたものが逆流しそうになる。 食べる時はあんなに美味くて嬉しかったのに。 もどしてなるものかと唾を飲み込んだ彫刻は、次に風が吹いた瞬間その場から姿を消していた。 屋根を伝ってウィリアムを追いかけ、教会から少し離れた路地裏に入り込む。生け垣を跳び越え、塀に乗って、また屋根を三つほど移動すると、コンサートホールの屋根裏に入り込んだ。 埃をかぶった長テーブルと、椅子が何脚か。凝った装飾の施された代物で、埃まみれでさえなければそれなりの高値がつきそうだった。 壁には幾枚かの写真が飾られており、その全てにマスクをかぶった〈タロン〉と、梟の仮面を被った法廷メンバーが映っている。 〈梟の法廷〉の古い拠点だ。 何人かのメンバーが集まって、緊急会議を開いていた場所。ホールでの大規模な集会の前に、大まかな意思の疎通が行われていたと、ディックは聞いている。 現在は別の場所に移されてもう使われていないが、〈タロン〉の活動で潜伏先として使うことがあった。 今用事のあるような場所ではない。 その場に立ち尽くしているウィリアムの背中を見て、若い梟は心臓が暴れ出すのを感じていた。 うなじのあたりにざわざわと、嫌な感覚が這い寄ってくる。 「どうかしたの?」 〈タロン〉が尋ねると、彼の曾祖父が首だけを動かし、金色の目で彫刻を見据えた。 「……レイチェル・ロスから報告があった。お前は、あの神父が〈梟の法廷〉について調べるのを放置していたそうだな」 怒気を含んだ声だった。昔、訓練を受けていた時良く聞いた声。殆どは他の連中を叱責する場合で、自分がその声の対象になることは滅多になかった。 それが、〈タロン〉になってから自分に向けられるとはお笑いぐさだ。 「ふーん、アイツ生きてたんだ」 ディックが頭の後ろで手を組むと、ウィリアムの眉間に皺が寄る。空気が重くなった。 「軽口の言い合いをするつもりはないぞ、〈タロン〉」 「はいはい」 彫刻がゆっくりと部屋を歩き出す。その様子を年老いた梟が目で追った。少しの動きも見逃すまいとする視線だ。 鋭い眼光に射貫かれたディックは、わざとらしく肩を竦めて見せる。 「でも、僕が受けた命令は神父の監視だ。やめさせようにも殺す訳にはいかないし、相手は僕が殺す気はないってわかってるから脅しも効果がなかった」 「では、なぜ報告しなかった?」 「面白いこというじゃないか。一時も離れるなって命令で、どうやって報告すればいいんだよ?」 ウィリアムの表情は変わらない。腹の内が読めない。久しぶりに身の危険を感じた〈タロン〉は、知らず背中にじんわりと汗を掻いていた。 「っていうか、いつもならそんな細かいことで目くじら立てないよね。最終的には殺すんだからさ。本当に言いたいことはなんだよ」 老いた梟の纏う雰囲気が変わった。全身から殺気が漲り、〈タロン〉を睨む。思わず身構えた若い梟は、目の前の男の他に、数人の気配が近づいて来ることに気づいた。 ウィリアムの喉が上下し、低い声が空気を震わせる。 「レイチェルから方向を受けた後、念のためお前を監視させてもらった」 ディックの背後に数人、黒衣の暗殺者が現れる。全員梟を模した黒いマスクを被っていた。おそらく、ウィリアムが呼びつけた"先代たち"だ。 老いた梟もマスクを被る。表情は隠れ、声は布を通して不明瞭なものに変化した。 「絆されたな、〈タロン〉。いや、ディック。お前は〈タロン〉に相応しくない」 ウィリアムがナイフを取り出しディックに向けた。それに倣うように、後から現れた黒衣の集団がディックに向けてナイフを構える。 〈タロン〉の口元に笑みが浮かんだ。目は忙しなく周囲の様子を確認し、敵の正確な人数と立ち位置、そして自分との距離と実力を測っている。 「なるほど。僕は"引退"ってワケか」 マスクを被ったウィリアムの表情は伺いしれないが、硬い声が布越しに落とされた。 「大人しくついてくれば、痛い目を見ずに冷凍睡眠処置だけで終わるぞ」 場を包む緊張感が肥大化していく。背後の黒衣連中がジリジリとディックに対し距離を詰めてきた。もうすぐ一斉に襲いかかってくるだろう。 「まだ後任の〈タロン〉は教育されてなかったはずだけど、僕の引退後はレイチェル・ロスが〈タロン〉になるの?」 ウィリアムが右足を後ろに引いた。 「いいや。あの女は命令に背いたため、法廷により死刑を命じられた」 「なんだ、じゃああいつ結局死んだんじゃん。ウケる」 「お前もそうなりたいのか?」 「まさか」 かといって、ディックが武器を構えればその瞬間敵が襲ってくることは明確だった。大人しく降参して、冷凍睡眠処置を受け入れるのが一番安全な方法ではある。 それをウィリアムも理解しているのだろう。マスクの奥から、フン、と微かに嘲笑する気配がした。 「お前は歴代〈タロン〉の中でも高い能力を持つが、この数の暗殺者が相手では敵うまい。抵抗は無駄だ。諦めろ」 窓はウィリアムの背後にあった。他に脱出経路はない。 ディックの乾いた笑い声が響く。 「確かに……ちょっと、厳しいかもな」 選択肢は、存在していなかった。 [しおりを挟む] 目次 戻る |