旅立ちの鐘が鳴る

1


 司祭館の外に出ると、黒衣の暗殺者五人が待ち構えていた。彼らは周囲の死体に目もくれず、ジェイソンとディックに殺気を向けている。
 ホルスターから拳銃を引き抜いたジェイソンが、無尽蔵に沸いて出る敵を前に深く深く嘆息した。

「……あなたの仲間はあとどれくらいいるんですか?」

 神父の横に控えていたディックは対照的に平然としている。口元に薄ら笑いを浮かべ、数回ナイフジャグリングを披露した後で投擲用ナイフを構えた。

「さあ。聞いたことないけど、《コート》の警備を手薄にするとは思えないから、まだまだいるんじゃない?」

「クソッタレが」

「神父にあるまじき言葉使い」

「うるさいですよ」

ジェイソンが一歩右足を動かすと同時に、敵の〈タロン〉たちが動いた。滑るように突進してくる暗殺者たちの頭部を、四十四口径の弾丸が丁寧に貫いていく。
 若い梟は神父の背後に回り、いつのまにか司祭館の屋根に潜んでいた六人目の敵にナイフを投げた。相手が籠手でスローイングナイフを叩き落とし、ディックに接近してくる。彫刻は敵の顎を蹴り上げ、無防備になった喉元にナイフを突き立て絶命させた。倒れ込む肉塊から武器をかすめ取り、少なくなったナイフを補充する。
 前方で五人と戦っていたジェイソンがディックの腕を掴んだ。

「いきますよ!」

 教会堂のあたりから、また数人の暗殺者が沸いて来ていた。手入れされた芝生の上を走り抜け、教会を抜け出た途端に神父が後ろを振り返る。彼が取り出したのは黒い球体。手のひらに収まる程度の大きさをした手榴弾だ。
 下から上に軽く腕を振り抜き、それこそボールを投げ渡すかのような軽い動作で爆弾を放り投げる。
 手榴弾が地面に落ちた瞬間、閃光と轟音が響き渡り、ジェイソンとディックも背中に爆風を受けた。
 爆弾の破片で負傷した暗殺者たちが回復する前に、神父の銃口が梟たちの頭を撃ち抜いていく。
 爆発の中心地にできたクレーターを見て、ディックが数回瞬きをした。

「庭に穴があいたけど?」

「〈梟の法廷〉に修繕費を貰わないといけませんね」

「くれるかなぁ」

「弾丸と交換なら了承してくれるかもしれません。騒ぎになる前に急ぎましょう」

「それ世間一般では脅しっていうんだよ」

 街の中はディックが先導した。裏道を通って塀を跳び越え、屋根から屋根に飛び移る。所謂フリーランニングだ。
 ディックが軽々と障害物を越えていくのに対し、ジェイソンは彼についていくのが精一杯だった。運動神経は良い方だと自負しているが、特殊な訓練を受け、常日頃移動手段としてパルクールを用いている人間に敵う道理はない。

「私もこの街に住んで長いですが、こういう近道は知りませんでしたよ」

「街の見てる側面が違うんだろ。僕は道には詳しいけど、この街にどんな店があって、どんな人たちが暮らしてるかは知らない」

 ゴッサムは朝も夜も賑やかだ。まだ通勤ラッシュとはいかないものの、人も車も多く、通常ナロウズからハーバーハウスのあるアップタウンに行くまでは車でも二十分ほどかかるのだが、地図上のほぼ直線距離を屋根伝いに辿っていた結果、十分という驚異的な結果を叩き出した。おそらくディックはいつもこの程度の時間で街を移動しているのだろう。
 彼らの目的地であるハーバーハウスは朝霧の中に悠然と佇み、人の気配はなかった。一見何の変哲もないイベントホールである。
 ディックが手慣れた様子で施錠を解く。エントランスホールに入り込むと、受付の横に鎮座した梟の石像と目が合った。
 感情を排した巨大な体躯は、朝日の中でいっそ不気味なほどの存在感を放っていたものの、ディックは臆した様子もなく近づいていき、巨大な石の嘴に手を掛ける。彼が腕を手前に引くと、口を模した石の塊が数十センチ本体からせり出してくる。ディックが手首を右に捻ると、三角柱もギリギリと妙な音を立てて回転した。一連の動作によって石像が地面から微かに浮いたらしく、足もとの影に変化がある。
 青白い腕が巨大な石像を左に引っ張ると、重い音を立てて石の梟が床を滑った。
 下から現れたのは地下に続く階段だ。
 一連の作業を見ていたジェイソンが腰に手を当て、首を軽く左右に振った。

「解りやすすぎじゃありませんか? 隠す気あります?」

「ハーバーハウスの石像を調べるような奴は、〈法廷〉の存在を隠すより殺したほうが安心だろ」

「物騒ですねぇ。子供とか探険しにきたらどうするんですか」

「冒険気分の子供じゃこの石像の嘴にまで手が届かないし、力もたりない」

「なるほど、一理あります」

 長い階段を下りていった先は薄暗い廊下になっており、十メートルほど進んだところで、巨大な梟の石像が水を吐き出す噴水の広場に出た。真っ白な空間はそこだけ異様に明るく見えて目に焼きつく。道はまだ続いており、ディックは噴水に見向きもせず先へと進んでいった。ジェイソンも彼の背中を追いかけ、巨大な梟の視線を感じながらその場を通り過ぎる。
 薄暗い通路をどのくらい進んだだろうか。突然視界が開けて、ローマの円形闘技場を思わせる巨大な空間が現れた。
 中央のステージを取り巻くように周囲をすり鉢状の座席が囲み、巨大なシャンデリアが窪地になったステージに光をそそぐ。比例して周囲の座席は薄暗く、ステージ上からはその様子をはっきり見る事ができない。かろうじて、たくさんの人影があることはジェイソンの目でも確認できた。みな一様に梟を思わせる仮面を被っており、服は社交界を思わせるフォーマルなドレスやスーツだ。
 ディックが振り返り、神父に笑いかける。

「話し合いの最中だったみたい」

「なるほど。丁度良いですね」

 薄暗い座席に集まった仮面たちも、ジェイソンとディックの姿に気がついたらしい。ザワザワとどよめきが走り、スーツを着た仮面の男が声をあげた。

「〈タロン〉、なぜお前がここにいる?」

 それを切っ掛けに、周囲の仮面たちが次々と騒ぎ始める。

「カッブはどうした? なぜその男を連れている?」

「教会堂に行った〈タロン〉たちをどうした」

「貴様、まさか裏切ったのか」

 若い梟がジェイソンに背を向けて膝をつき、仮面たちに首を垂れた。シャンデリアの明かりが、薄暗闇になれた目には眩しい。

「とんでもございません。裏切りなど恐れ多い。僕は〈梟の法廷〉に仕えるために生み出された〈タロン〉です」

 青白い手が肩にかかったベルトからナイフを三本取り出す。すり鉢状の座席からは見えないギリギリの動きで武器を構えた梟が、跪いたまま最小限の動きで左右に向かってナイフを投げた。
 梟の意匠が彫られた特殊な武器は、まるで手品か魔法のように座席へ座っていた仮面の急所に吸い込まれていく。
 ひとりは首筋、ひとりは心臓、ひとりは喉。

「がっ」

「ひぎ」

「ぎゃ」

 短い断末魔を上げて息絶えた仲間に、仮面たちが悲鳴を上げる。立ち上がって死体から逃げる者や驚いて椅子から転げ落ちる者もおり、薄暗い座席は俄に混乱して蜂の巣をつついたような騒ぎとなってしまう。
 ステージで跪いていたディックが、頭だけを上げてニヤリと笑った。

「だけど、貴方たちが僕を眠らそうとするなら、身を守るために戦うしかないだろ?」

 最初に言葉を発した男が怒号を上げる。

「〈タロン〉たちを全員目覚めさせろ! あの裏切り者ごと神父を殺せ! 警備の連中を早くここへ!」

 ステージに黒衣の連中が走り込んできた。《コート》の警備を担当していた〈タロン〉たちだ。彼らにこの後増援があることは想像に難くない。〈法廷〉のメンバーを殺傷せしめたのだから手加減などしてくれるはずもないし、むしろ確実に仕留めるため、多少大袈裟な戦力を投入されることになるだろう。
 なにせパフォーマンスが派手すぎた。
 今後の状況を憂い、戦力差を脳内で冷静に計算しながら銃を構えたジェイソンだったが、眼前にたつ相棒に小言のひとつも言いたくなるのは、仕方のないことである。

「リチャード、貴方……ちょっと演出過剰じゃないですか?」

「今までいいように使われて来たんだ。ちょっと驚かせてやったっていいだろ?」

 ディックが立ち上がり、真横から飛んできたナイフを受け止めた。攻撃した本人であろう黒衣の男が、覆面越しに忌々しげな声音を吐く。

「裏切り者、〈タロン〉の面汚しめ」

 彼の後を追うようにして、数人の梟がディックとジェイソンを取り囲んだ。逃げ場はない。

「目障りな神父ごと始末してやる」

 受け止めたナイフを弄ぶディックは絶望的な状況でさえ焦る様子はなく、かつての仲間に対し挑発的な笑みを浮かべた。

「面汚しっていうほどマトモな立場じゃないと思うけどね」

「黙れ、誇りを失った裏切り者」

 ジェイソンは一旦目を瞑り、右手で中空に十字を切った。閉ざされた視界の中、まずディックの視線を肌で感じ、追うように敵が殺気混じりの視線を向けてくる。彼らはジェイソンの見かけと所作で油断しているのか、絶好の機会であるにも関わらず襲ってくる様子はない。

「……よ、……主の御手に……」

 神に祈る彼の所作を、案の定黒衣の暗殺者たちが嘲笑った。

「ふん、神父のほうは観念して祈り始めているぞ」

 彼の真意を理解し、苦笑したのはディックただひとりである。

「あー……、これ、たぶんそういうんじゃないぞ?」

 ジェイソンが右手をカソックの下、腰のベルト付近に忍ばせた。敵が油断しているならこれ以上ない好都合である。装備した手榴弾を取り出し、口で安全ピンを引き抜いて敵に力いっぱい放り投げた。
 同時に、ディックの腕を掴んで自分の元に引き寄せる。

「かれらが世にありし間、弱きによりて犯したる罪を、大いなる御あわれみを以て赦し給え。われらの主キリストによって願い奉る。アーメン」

 ジェイソンとディックが爆弾から距離を取った途端、轟音が響いて空気が揺れた。
 神父に腕を引かれた梟は、黒髪を揺らす衝撃を感じながら、もはや届かないであろう声を爆風に乗せる。

「"今から死ぬおまえらのために祈ってる"んだよーって、もう遅いか」

 手榴弾は、通常使用者の安全性を考慮して爆発の威力を抑えている。そのため爆発そのもので殺傷できる人間はせいぜいひとりであり、驚異的な回復能力を誇る〈タロン〉の場合は、数分動きを止める程度の効力しかない。つまり、爆風に飛ばされて床に転がった数秒のうちに仕留めなければならないのだ。
 血にまみれ呻く暗殺者たちの頭部を弾丸が撃ち抜くと、赤いプールに沈んだ肢体たちが動きを止める。
 その場に空薬莢が転がり、ジェイソンのつま先が小さな金属製の筒をひとつ蹴飛ばした。

「主よ、永遠の安息をかれらに与え、絶えざる光をかれらの上に照らし給え」

 大人しくしていたディックが神父の祈りを聞いて口を尖らせる。かつての仲間と戦闘中だというのに、声音には危機感も悲哀もまったく感じられなかった。

「ねえそれホント怖いからやめようよ」

「死者がせめて安らかに眠れるように祈るのは神を信じる者として当然のことですよ」

「うーん、実はこの人僕よりイカれてるかもしれない」

「信仰は、馴染みのないものや信じないものには理解されづらいものですね」

「絶対そういう問題じゃないのに」

 すでに新手の〈タロン〉たちがすり鉢状の座席から現れ、ステージの上に飛び降りていた。
 女の暗殺者がひとり、大ぶりのナイフでディックを切りつける。
 スローイングナイフで刃物を受け止めた若い梟は、腰のホルダーから刃渡り三十センチほどのコンバットナイフを取り出し、敵の攻撃を跳ね返した。
 同時に、ジェイソンの背後に巨体の暗殺者が舞い降りる。
 壁のような体躯に似合わず所作で音をたてず神父に接近した巨梟が、男の首に太い腕をかけ、一八三センチの体を持ち上げた。
 当然ジェイソンの気管は締め上げられ、口から短い悲鳴が漏れる。

「ぐぅっ」

 相棒の緊急事態に気づき、ディックが振り向いた。

「神父様ッ!」

 だが目の前に自分を襲う敵がいる以上、彼はその場を動けない。
 それどころか、天井伝いにやってきた別の梟が女に加勢し、鉤爪つきの籠手で彫刻の腕を引き裂いた。

「よそ見をしている暇はないぞ、裏切り者!」

 幸い千切れてはいないので、彼の腕はすぐに回復するはずだ。ディックも同様の判断を下したらしく、敵ふたりの相手をしながら金の目が忙しなくジェイソンの動向を追っている。
 これ以上気が散るようでは、ディックのほうが危ない。
 早急に拘束から抜け出す必要があると判断した神父は、自分の首に食い込んだ太い腕に銃口を密着させ、肘のあたりを撃ち抜いた。
 耳元で発砲音がし、肉の焼ける匂いと火薬の匂いが鼻腔を貫く。
 撃たれた男はジェイソンを置き去りにして二歩ほど後退したが、千切れかけた腕はすぐさま吹き飛んだ肉を再構築し始めていた。
 
――四十四口径至近距離で食らってそれかよ

 思わず口元に苦笑を浮かべた神父だったが、体は思考とは別に戦闘態勢のままであり、すでに残りの弾丸が五発になった銃口を巨梟に向ける。
 しかし彼が照準を合わせる前に、大きな腕が振り抜かれ神父の頬を殴打した。
 ともすれば首が折れそうな衝撃とともに、男の体が浮き上がって真横に吹き飛ぶ。
 背中を床に強く打ちつけたジェイソンは、痛む上体を起こして無理矢理敵に銃口を向けた。
 引き金を引くも、負傷した体では動く標的を捉えられず、巨体の暗殺者は腹部と肩にかすり傷を作る程度に留まる。
 意識をひとりに集中しすぎた為か、彼が鎖鎌の攻撃に気づいたのは、装填数を撃ち尽くした拳銃が腕から弾き飛ばされた時だった。
 カラカラと乾いた音を立て、銃が床を転がっていく。
 同時に、また太い腕がジェイソンの首を掴んで持ち上げた。

「ぐっ、ぁっ」

 足をバタつかせても大した意味はない。右足を極限まで曲げたジェイソンは、もがき苦しむフリをして靴底に仕込んであったペンナイフを抜き取ると、敵の腕に思い切り突き刺した。

「がぁあっ!!」

 敵が悲鳴をあげ、拘束が緩んだうちに腕を振り切る。神父が地面に着地するのを傍観していた仮面のひとりが苛立った様子で怒号を発した。

「なにをやっている! 相手はたかが神父ひとりだぞ! 早く殺してしまえ!」

 腕にささったペンナイフを引き抜いた巨梟が覆面越しにジェイソンを睨む。

「はい、すぐに」

「これだけ武装している相手に"たかが神父ひとり"なんて言える精神はすごいですねぇ」

「減らず口をたたけなくしてやる」

「生憎喋るのが仕事なもので」

 新しい銃を構えたジェイソンの真横から、再び鎖鎌が飛び出してくる。鉤爪に狙いを定めて引き金を引くと、真っ直ぐ伸びていた鎖が上方に跳ね上がり、失速して地面に落ちた。
 立て続けに背後から新しい敵の強襲を受け、今度は飛び出してきたナイフを銃身で受け止める。
 攻撃を避けたと思った瞬間、鋼に僅かながら食い込んだナイフが横になぎ払われ、刺さったナイフごと銃を弾き飛ばされてしまった。
 床に転がった武器は巨漢が容赦なく踏みつぶす。
 おそらく最初から、三人がかりでジェイソンの武装を剥ぐつもりだったのだろう。
 思わぬ連携に舌打ちしても全てが遅かった。
 手駒たちの躍進に高揚したらしい仮面たちは暢気なもので、座席に腰掛けたまま腕を振り上げ「殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ!」とシュプレヒコールを上げている。
 内心で「肥だめのクソどもが」と毒づいた神父が座席の仮面たちに視線を投げると、その中にいた小さな子供と目があった。
 いや、目があったかどうかは定かではない。ただ、大人ばかりの空間で、クマのぬいぐるみを抱いたその子供がジェイソンの目にとまっただけだ。
 彼女が仮面越しに発した言葉を、神父の耳が拾い上げる。

「ひきさいて」

 鎖鎌を持った男がジェイソンに襲いかかってきた。
 鎌の攻撃を避けた神父は、地面を蹴って目の前の敵を踏みつける。中空に躍り出た勢いのまま後方にいた巨体の体を駆け上って頭を踏みつけると、敵を踏み台にしてシャンデリアへと足を掛けた。
 そのせいで照明が大きく揺れ、ガラスの飾りがジャラジャラと大きな音を立てる。
 巨大な振り子が最大限振りきれるのを見計らい、再び跳んだ。
 着地先は仮面たちがたむろする"観客席"。
 彼が仮面たちの間に飛び移ったのを確認し、今まで他の〈タロン〉と戦っていたディックが声をあげる。

「ジェイソン!!」

 神父は答えなかった。ちょうど彼の目の前にいた男は、安全だと思っていた自分の居場所が突如脅かされて動揺したらしい。人垣がジェイソンを避け、彼の周りに不自然な空間が出来る。
 神父の五メートルほど後ろで、金髪の女が仮面越しに声を荒げた。

「そいつは武器を持っていない! 早く誰か押さえつけろ!」

 座席の警備についていた暗殺者たちが仮面のメンバーを跳び越え駆け寄ってくる。
 女の言う通り武器をなくしたジェイソンは、自分を捉えようとする梟たちの顔面に思い切り拳を叩きつけた。覆面についていたゴーグルが割れ、破片が男の手に突き刺さる。鋭利なガラスが皮膚を破き、血が噴き出した。
 地面に伏した黒衣がそれでもジェイソンの腕を掴んできたので、もう一度垂直に腕を振り下ろすと、今度こそ脱力して動かなくなる。
 一部始終を見ていた仮面たちが、耐えきれないと言った様子でとうとう悲痛な叫び声をあげた。

「ぎゃぁああああああああああああああ!!」

「ひぃっ!」

「あぁああっ! あぁあああーっ!」

 パニックを起こした群衆がジェイソンから逃げるかのように走り出し、出口めがけて殺到し始める。
 その過程で、先ほど怒号をあげた金髪の女に誰かがぶつかり、衝撃で仮面が取れた。
 現れたのはエステル・スチュワート・メディナ
 メディナ家の人間が〈梟の法廷〉に関係していることはすでに調べがついていたので今更驚くこともない。おそらく、彼女の夫もこの《ホール》のどこかにいるのだろう。
 ジェイソンと目があった途端メディナの顔が恐怖に歪む。
 彼女が身を翻して逃げだそうとした瞬間、幼い少女の声がした。

「お前ら、なぜ逃げる?」

 瞬間、時が止まったかの様に全員が動きをとめる。逃げだそうとしていたメディナが歪んだ顔に冷や汗を滲ませ、すぐ横へ視線を移した。
 立っていたのは小さな少女。クマのぬいぐるみを抱えた金髪の子供。
 質の良いワンピースを着た彼女が、仮面越しに子供と思えぬ口調と威圧感で、再度問う。

「よもや私がいて、こんな男ひとりに負けると思っているわけではあるまいな?」

 異様な光景だった。
 仮面をつけた大人たちが皆一様に、ひとりの子供に怯えている。
 ぬいぐるみを抱えた少女はその見てくれに似合わず、威厳に満ちた口調で大人たちを詰問していた。
 エステルが血の気の失せた体を微かに震わせ、真っ青になった唇からカチカチと歯の鳴る音がする。

「い、いえ、始祖さま、そのようなことは……」

「安心したよ、エステル」

 少女の右手が、女の薄い腹を刺し貫いた。

「お前がただの臆病者なら、食うのも躊躇われるからな」

 赤い血が噴き出し、エステルが口からも鉄の体液をまき散らして体をくの字に折り曲げる。脱力した腕が少女の仮面にぶつかり、床に落ちた面が硬質な音を立てる。
 金髪の少女はエステルによく似た緑眼を見開き、薄い唇を不気味なほど綺麗に半月型に歪めてニタリと笑う。
 リンダ・ミラー・メディナ
 メディナ夫婦の一人娘に良く似た相貌は、子供らしい面影など微塵も残していなかった。
 先刻の騒ぎが嘘のように静まりかえった場所に、エステルの腹からわき出た赤が円を描いて広がっていく。
 リンダが右手を動かすと、グチュリと水気を帯びた音がして更に血がこぼれ落ちた。多少肉塊が入っているのか、どろりとした赤は床に落ちるたびボタボタと重い音を立てる。少女が腕を引くとともにさらに大量の血がこぼれ落ち、リンダ自身の体も紅に染まったが、彼女は特に気にしていないようだ。
 引き抜かれた手には赤い塊が握られており、まだ微かに脈打っていることが窺えた。
 心臓だ。
 体の中心部を引き抜かれた肉塊が血だまりの中に落ちる。
 リンダは不気味な笑みを浮かべたまま、母であるはずの女から抜き取った肉塊にかぶりつく。ほっそりした幼い輪郭を赤く染めながら、凶悪な動作で筋肉繊維を引きちぎっていった。彼女の顎が動く度グチャグチャと生々しい音がする。

「エステルは我が血をわけた子孫ゆえ食ってやったが、お前たちは全員鳥の餌だ。使えん臆病者どもが」

 仮面たちの中で何人かが「ひ」と短い悲鳴をあげた。誰かがそっとリンダに背を向け、出口に向かって走り出す。後を追うようにして、全員が今度は幼い少女から逃げるため悲鳴を上げたが、それもすぐにかき消えてしまった。
 走り出した仮面たち全員の首が吹き飛んだのだ。
 天井にまで至る赤い噴水がジェイソンの顔にもかかり、醜悪な臭いを振りまく噴水の中央で少女が笑う。

「次はお前の番だぞ、ジェイソン・トッド。せいぜい怯えて泣き叫くが良い」

 神父が顔にベットリとこびりついた赤い鉄を乱暴に拭った。カソックの袖口が濃く変色し、鉄の臭気が漂ってくる。
 ニタリと笑ったまま近づいて来る少女を睨み付け、男が吠えた。

「やはりお前が親玉か、リンダ・ミラー・メディナ……いや、無銘者!」

 赤黒い汚れにまみれた子供が緑の双眸を笑みの形に歪めた。汚れた口元から、幼くも威圧感のある、アンビバレンツな声音が零れる。

「ほう、我が種族のことを知っていたのか。カトリック教会の中でも、我々の存在を知っているのは一部だけだと思っていたが……それでなおこの私に刃向かうとは、良い度胸だ」

 幼く愛らしかった少女の姿が、土色の化物に変容する。体躯もジェイソンと同等まで引き延ばされ、剥き出しになった目玉がギョロリと回転し、ふたつの瞳孔にジェイソンの姿を収めた。
 同時に、ディックがステージと座席を隔てる壁を跳び越え、神父の横に着地する。窪地に残っていた〈タロン〉を全て始末してきたらしく、体のところどころを負傷しているものの、やはりみるみるうちに回復していった。
 若い梟の姿を見て、化物がさも不快だと言わんばかりに顔であろう部分を歪める。

「ウィリアムめ、仕留め損なった上にここまでの勝手を許すとは……どこで遊んでおるのやら……お前もよくウィリアムをまいてここまでこれたものだな、〈タロン〉……いや、ディック」

 もはや人とは言い難い造形の、剣呑な視線を受け止めたディックは、果敢にも顔を背けず、それどころか背後に神父を庇うように一歩進み出た。梟は敵を真正面に見据えたまま、声だけでジェイソンに問う。

「ジェイソン、どうして始祖さまのことを知ってるんだ」

 だが神父が答えるよりも先に、土色の化物が顔らしき部分を歪ませ、嘲笑じみた声を出す。顎と思しき部分を突き出し、見下すように剥き出しの目玉を歪めた化物が、口らしき亀裂からわずかに歯を覗かせた。

「そうか、カトリックのことはウィリアムにしか話しておらんからな。こやつらはかつてオールカーストと共謀して我が種族に戦争を仕掛けたのだよ」

「貴方たちが人を食い、支配しようとしたからでしょう」

 無銘者が神父の言葉を侮り鼻先で笑う。

「力あるものが弱者を従わせてなにが悪い。おまえらは我々を排斥したあと、同族同士で同じことを繰り返したではないか」

 ジェイソンは何も言わない。無言で睨み付けてくる神父に対しさしたる警戒心もないようで、無銘者は赤い水たまりの中をゆっくりと左右に歩き始めた。彼女が歩くたび赤い水が跳ねて土色の足を汚す。敵と距離をつめるでもなくその場で足踏みをするような態度は、おそらくジェイソンとディックにプレッシャーをかける目的があるのだろう。

「ふん、まあいい。ダクラの入れ知恵もあって戦争は長引いたが、お互いに疲弊した我々は休戦協定を結ぶことにした。数で劣る我々は散り散りになり、行動を大幅に制限された」

 無銘者がピタリと歩みを止める。再びディックとジェイソンに向き直った化物は、しかしまだ凶悪な笑みを浮かべたままだ。その形相は自分の優位を確信した狩人であり、余裕と無慈悲が同居した残酷そのものの笑みだった。自分の得意分野での勝負を前に、圧倒的勝利を誓った者が似たような笑い方をする。
 すでに武器をなくしたジェイソンは、本来銃を握るべき腕をだらりと体の横に流し、勇猛にも神父を庇おうとする梟の背中越しに敵を見ていた。

「そうして貴方は今、その休戦協定を破りました」

「なにをいうか。条約にはなにも違反していない。私は人類社会のルールに則って富を得、私に賛同する連中に分配していただけだ」

 ディックの手が、ジェイソンに下がるよう訴えていた。
 土色の化物がふたりに向かって一歩踏み出し、赤い水たまりがピチャリと小さな音を立てる。

「それに、仮に私が協定に反していたとして、お前ひとりで何ができる? 私を倒すのならばオールカーストの戦士を連れてこい。知っているぞ、お前はただの神父だ。昔愚かな終末思想の連中に洗脳されたことがあるただの弱い人間だ」

 ジェイソン、とディックが小さく囁いた。無銘者が近づいて来る。口元に残虐な笑みを浮かべ、目元を楽しそうに歪め、自分に刃向かった愚かな虫けらを屠るためにゆっくりと歩み寄ってくる。

「銅のナイフでも持っているのか? 銅の弾丸でも持っているのか? 貴様ひとりが足掻いたところで、私に食われて終わりだぞ、小僧。あとはオズボーンが上手く処理してくれよう。〈タロン〉、お前もこの小僧と共に始末してやる」

 ディックが新たに取り出したのは、刀身を銅で作った大ぶりのナイフだった。梟の構えた褐色の刃物を見て、無銘者が歩みを止める。
 口元には依然笑みが浮かんでいた。

「ほう、お前も私を殺す気で来たわけか」

「〈法廷〉に喧嘩を売るんだ。当然それなりの準備はするでしょ。ジェイソン、下がって。ここは僕がやる」

 彫刻のような手がジェイソンの体を押した。しかし神父はその場から動かずに、無銘者を見据えて口を開く。

「……ひとつ、質問があります。無銘者」

 ディックが振り向き、ジェイソンを見た。苛立ったようにも驚いたようにも見えるが、真意のほどは定かではない。
 土色の化物はわざとらしく首を傾げて見せた。ジェイソンはそれを了解の意だと判断する。

「"本物"のリンダ・ミラー・メディナは、今どこに?」

 リンダとジェイソンはブルースが襲撃されたパーティで顔を合わせていたが、翌日病院で出会った時少女は初対面のように振る舞った。
 あれは衝撃的な出来事によって記憶が欠落したのではなく、パーティにいたリンダと病院にいたリンダが別人だったからだ。
 同一人物ならば、わざわざ病院で初対面のフリをする意味がない。人を家畜程度にしか思っていない無銘者が、たかが殺人未遂の現場を見た程度で動揺するはずもないし、ショックを受けたフリをするならもっと手軽な方法がいくらでもあるからだ。
 おそらく無銘者が、ブルースの暗殺を見届けるためリンダになりすましパーティに参加したのだろう。
 司祭館にあったメディナ家の写真はどれもリンダに良く似た少女が映っていた。目の前の無銘者がメディナ家の血族として長らく子供の立場に居続けたことは想像に難くないが、人間として一生を偽装するよりも、人としての姿を変えて実在する人間に化けていたほうが勝手は良いに違いない。人に接触する際は人のフリをすればいいし、必要のない時は無銘者として地下にこもり、〈梟の法廷〉を従えていればいいのだから。
 尋ねられた化物は嘲笑をさらに深め、首を傾げたままジェイソンを見据えた。

「おかしなことを聞く。恐怖で頭がイカれたか? あの子供はまだ〈法廷〉に属する資格など持っていない」

「そうですか。それを聞いて安心しました。リンダ……いえ、サギア」

 無銘者の顔から嘲笑が消え失せる。
 ジェイソンは努めて無表情のまま、薄氷色の眸子で敵を見据えた。

「まさか最初に出会う無銘者が、話に聞いていた"最も警戒すべき無銘者"だとは驚きましたよ。"相手を油断させるために子供の姿を取る、闇の種族の中でも最も残酷で残忍な女"」

 その場の空気が一気に冷え込み、プレッシャーがジェイソンとディックの肩にのし掛かる。もっともそれは、サギアとて同じはずだ。
 現に彼女は笑みの消え失せた顔に今度は僅かながら焦燥の色を浮かべ、不審そうにジェイソンを睨み付けている。

「貴様、それをどこで……いや、なぜ一介の神父が私の名前を知っている? なぜ無銘者の存在だけでなく、私の情報まで、貴様のような小僧が知っているのだ」

「まだ解りませんか」

 異変に気づいたディックが再度ジェイソンに視線を投げかけるも、神父は身構える彫刻の肩に軽く手を置いて、自分を庇おうとしてくれる梟の前に進み出た。

「教会とオールカーストが無銘者に課した条件は 一、人類全体への敵対行為 二、カトリック教会への敵対行為 三、オールカーストへの敵対行為 このうちいずれかを確認した時点ですぐさま対象の無銘者は排除される」

 神父が腕を大きく広げ、手に何かを握る素振りをしてみせた。
 途端、なにもない中空に赤がね色の双剣が姿を現し、神父の腕に収まる。強い輝きを放つ刃物が空を切り、刀身がサギアの焦りに満ちた顔を映した。
 オールブレードは、魔法にのみ効力を発揮する剣だ。無銘者を滅ぼせる退魔の剣。原動力は使用者の魂。
 ジェイソンは眉一つ動かさず、赤い水たまりの中に一歩足を踏み入れた。

「私は教会の命により、オールカーストの戦士として訓練を積んできた。よって貴方の今の行為は、三、オールカーストへの敵対行為 であり、私がカトリック教会の任じた戦士である以上、二、カトリック教会への敵対行為 であり、このふたつの条件に反した以上、一、人類全体への敵対行為 にあたると判断できる。休戦協定違反及び大量虐殺の現行犯として、早急に排除を行います」

 褐色の刀身が自分に向けられるのを見て、サギアが初めて一歩後退した。

「バカな! ウィリアムの報告では、確かにお前はただの神父だと……!」

「随分"ウィリアム"を信用しているんですね。報告が間違っていたのではないですか? ここにその方はいらっしゃらないようですが」

 オールブレードが数回サギアに襲いかかったが、無銘者も黙ってやられる気はないらしく、全ての攻撃を腕で防ぎきりジェイソンから距離を取る。
 無銘者が首の取れた死体の上に着地すると、衝撃で肉塊がひしゃげ赤い花が咲いた。サギアは自分の足もとでミンチになった手駒のことなどさして気にしていないらしく、オールブレードを振りかざして向かってくるジェイソンを前に不在の男に対し苛立ちを露わにする。

「くそっ、ウィリアムめ、とんだ失態をしおって! 奴は今どこにっ」

 神父の攻撃をサギアが跳んで避けた。彼女の着地地点を予想したジェイソンが更に間合いをつめ、中空にいる無銘者に対してさらに斬撃を加える。土色の化物は片足を切り捨てることでなんとか致命傷を避けた。

「そうだ、ウィリアムがっ、なぜ、なぜあいつがこれだけの騒ぎになってまだ戻ってこないっ!」

 片足を失ったせいで無銘者のバランス感覚が狂い、着地に失敗した彼女が片手を地面につく。
 体勢を立て直せないままジェイソンの振りかざしたオールブレードを防ごうとしたサギアは、防御態勢が間に合わず足に続いて片腕を失うことになった。

「ギャァアアアアアアアッ!!」

 化物の咆吼が空気をビリビリと震わせる。
 赤い血だまりに無銘者の体液が混ざった。
 ジェイソンが腕を引き、サギアの体にオールブレードの切っ先を突き立てる瞬間、女が憎しみに顔を歪め、断末魔のような怒号を吐き出す。

「謀ったな小僧ぉおおおぉッ!!」

 それが無銘者サギア最後の言葉だった。
 土色の化物が息絶え、徐々に人の姿へ戻っていく。事切れた少女は左足と右手が千切れ飛んでおり、真っ赤に染まった体は無残というほかないが、周囲に折り重なる死体の山を築いたのは他ならぬ彼女なのである。
 赤く染まった《コート》の中で、生きているのはジェイソンとディックだけだった。
 ジェイソンの手からオールブレードが消え去る。煙のように溶けた剣を見送る神父の元に、我に返った様子のディックが駆け寄ってくる。随分混乱した様子で、青白い頬を僅かばかり朱色に染めた彼は、肩で息をしながら興奮したようすで捲し立てる。

「ジェイソン! なんだよ、その武器なんなんだ! オールカーストってなんだよ! っていうか、貴方隠し事が多すぎるだろ! 元カルト教団員とかカトリック教会公認の人殺しとか、その上今度は秘密結社の戦士!? 属性盛りすぎだろ、もうちょっと整理しなよ!」

「整理するべきなのは貴方のその言葉のような気がしますが」

 ジェイソンの手が動く。袖の下に手を滑らせた彼は、ディックに体を向けるや否や隠し持っていたレミントン・デリンジャーを梟の青白い額に突きつけた。

「まずはなぜこんなことをしたのか、整理して、説明してもらいましょうか。リチャード」

 見開かれた金の目がさ迷い揺れる。薄い唇が震えていた。今にも泣き出しそうに、梟の表情が歪む。

「なにを言ってるの、トッド神父」

 それでもジェイソンは迷子のような顔をした彫刻を睨み付け、一歩も動く気はなかった。

「これは貴方が仕組んだことでしょう。私を利用して、〈梟の法廷〉を壊滅させる。そして、もっているナイフで私を殺す気ですか?」

 ディックの手は両方とも背後に回されていた。
 途方にくれたような梟の表情が一瞬にして吹き飛び、青白い唇が半月型の弧を描く。
 楽しげに歪んだ眦がジェイソンを見据え、まるで彼の笑顔が引き金であるかのように、その場に轟音が響いた。

「そうだよ、神父様。よくわかったね」

 建物自体が大きく揺れ、天井にピシリピシリと亀裂が走る。コンクリートの破片が砂のように頭上から落ちてきた。
 一瞬、視線を頭上へ動かしたジェイソンは、信じられないほど穏やかで、信じられないほど幸せに満ちた、艶めかしい梟の声を聞く。

「建物の支柱全部に、爆弾を仕掛けたんだ。ここはもうすぐ崩れる。もちろん、逃げられないよ」

 まとわりつくような声が神父の肌を撫でていった。絡みつくような視線がジェイソンの肢体を下から上へ舐め上げる。

「僕と一緒に、貴方も死んでよ」

 遠くで爆発のような音がした。
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美しくなんて死ねると思うな