旅立ちの鐘が鳴る

2


 十時間前

 ディックは深夜の街をひた走っていた。背後には黒衣の暗殺者たちがピタリと張り付いて追ってくる。
 ジェイソン・トッドに"絆された"ディックを〈タロン〉の座から引きずり下ろし、冷凍睡眠処理を施す気なのだ。
 思い通りになってたまるかとディックは思った。
 せっかく名前を教えて貰ったのに、せっかく眠る場所を貰ったのに。
 奪われた全てを与えてくれた。なくした全てを見つけてくれた。
 あの男と別れ、冷たい場所で眠りにつき、もう彼のいない時間に再び目覚めるなんて考えたくもない。
 そんなものは死と同義だ。
 また全てを奪われ、全てをなくし、空っぽのまま誰かの傀儡になるのはゴメンだった。
 追っ手のひとりがディックの腕を掴む。急に体を引っ張られた梟は、逆に敵の手を掴み返して体当たりを食らわせると、黒衣の背中を地面に押しつけ、顔面を拳で殴り飛ばした。
 暗殺者の装備していたスローイングナイフを奪って他の敵に投げつけたあと、敵が回復しないうちに距離を取って再び逃げ始める。
 このままではジリ貧だとディックも解っていた。
 相手が多いため、確実に仕留める時間がない。
 
――あともう少し

 マーチ通りにまで追い込まれたディックはしばらく大通りを走っていたが、やがてブランド店の駐車場を突っ切って一本奥の道へと入り込む。
 〈タロン〉たちも屋根を跳び越え、あるいは駐車場を突っ切ってディックを追いかけてきた。屋根伝いに標的を追跡していた黒衣がひとり、とうとうディックに追いついて彼の背中を蹴り飛ばす。

「がっ!」

 若い梟の口から短い悲鳴が飛び出し、体はすぐ横にあったガラス窓を突き破って飲食店の中へと転がり込んだ。パステルカラーでまとめられたテーブルと椅子を巻き込んで、ディックの体が床にたたき付けられる。背中の痛みと、ポップな装飾をされたアイスクリームのメニュー表がひどくミスマッチで、軽い苛立ちすら覚えた。
 うつ伏せの状態で顔だけを動かすと、既に周囲は暗殺者たちに包囲されている。彼らも、この明るい店の内装には驚くほど似つかわしくない。
 ディックの眼前に歩み寄ったウィリアム・カッブが冷たい目で若い梟を見下ろしていた。

「ここまでだ、〈タロン〉……いや、ディック。お前は〈タロン〉失格だ」

「別に悲しくもないけどね。自分から望んで〈タロン〉になったわけじゃない」

 ディックは嘲るように短く息を吐き出し、立ち上がろうとする素振りで右手を体の下にいれた。ベルトにかかったスローイングナイフに指先が触れる。
 ウィリアムが忌々しげに奥歯を噛み締めた。

「減らず口を。眠りについて頭を冷やせ」

「こっちのセリフだよ!」

 ナイフを敵に向けて投げつけ、暗殺者たちが攻撃を防いでいる間に立ち上がる。相手の攻撃を躱しつつ厨房に逃げ込んだディックは、銀色のタンクを発見し、ニヤリと笑ってノズルのキャップを外した。ホースの類は見当たらない。
 自分の膝元くらいまである塊を持ち上げ、追ってくる暗殺者たちに向かって投げつけた。立て続けにナイフを投げ容器に穴をあけると、亀裂から白い煙が液体とともに噴き出す。
 亀裂とノズルから飛び出た液体を頭から被った黒衣ふたりが、体を大きくよろめかせてその場に倒れた。
 周囲にまき散らされたのは液体窒素。
 〈タロン〉の体は、細胞を再生するためにかなりの熱が必要となる。核心温度を下げると身体能力や再生能力は著しく低下し、極端に低温の場合は完全に停止する場合もある。
 故に〈タロン〉は皆、寒さが苦手だ。
 敵が怯んでいる間に液体窒素用のホースを発見したディックは、新しいタンクを引きずって敵の眼前へと現れた。

「まだまだあるからたっぷり食べなよ!」

 超低温の液体を店内にまき散らすと、液体窒素から発生した白い煙がディックの肌も撫でていく。敵がひとり、またひとりと動きを鈍らせている間に、若い梟はわざとらしく自分の体をさすって声をあげた。

「うわー! 僕まで凍えそうだ! 最悪! 他の作戦にすればよかった!」

 液体窒素のタンクをふたつ空にしたディックは動きの鈍った敵に近づき、果物でも収穫するように淡々と首を狩り落としていく。身体活動が低下しているため、どの〈タロン〉も出血は少なめだ。
 最後に残ったウィリアムも、液体窒素を頭から被りすぐにでも活動を停止しそうな状態である。床に膝をつき肩で息をする様は見ていて哀れなほどで、ディックと同じ金の双眸が薄れゆく視界に弟子を収めた。
 瞳孔の奥に怒りが見え隠れしている。

「貴様、なぜ、こんな……」

 すぐにでも首を狩ろうと思っていたディックは、曾祖父の言葉を聞いて気が変わり、すこし相手をしてやろうと思った。どうせ身体能力が低下した状態で、しかもたったひとりで、ディックに敵う筈がない。

「ここの店、液体窒素でアイスクリームを作るんだってさ。神父様が教えてくれた。アンタたちは知らなかっただろ? まあ、僕も知らなかったんだけど。地図を頭に叩き込んで夜中走り回るだけじゃわからないことってたくさんあるんだねー」

 街の昼の顔を、〈タロン〉の誰もが知らない。
 明るい日差しの中のゴッサムは、ジェイソンがディックに与えてくれたもののひとつだ。
 ウィリアムの体がくの字に折れ曲がり、背中を丸めて体力の消耗を防いでいる。大きく上下する背は、彼が呼吸すら困難な状況にあることを告げていた。

「お前も……無事では済まないはずだ……なぜ、平然としていられる……」

 ディックが笑う。
 床につきそうなウィリアムの頭をつま先で軽く持ち上げ、視線をあわせた状態で服を捲って見せた。
 黒衣の下にさらにもう一枚青いシャツを着ており、白い長方形が腹部と胸と両脇腹付近に張りつけられている。

「神父様に"カイロ"ってやつを貰ったんだよ。発熱する防寒グッズ。バカにできないよな。気温の変化くらいはこれで乗り切れるよ。五つもあれば結構快適。文明の利器って奴?」

 ディックは、レイチェルが昼間の一件で死んだなどとは思っていなかった。ビークも体内に特殊な化合物を仕込んでおり、不慮の事故で死んでも〈タロン〉と同じ原理で生き返るようにはなっている。
 ただその状態で長期的な活動を許されるのは〈タロン〉のみであり、だからこそレイチェルは〈タロン〉の座を欲したのだ。ゾンビのような体は、ある意味不老不死と言えなくもない。
 当然、生き返った彼女は〈梟の法廷〉にディックのことを報告するだろう。彼女の証言に基づき、ディックが〈タロン〉失格と判断されれば、処分か、冷凍睡眠処置を施すためかつての〈タロン〉が刺客にとして現れる可能性があった。
 だからディックは刺客として現れた〈タロン〉を確実に仕留めるため、準備をしていたのだ。
 実際、昼のゴッサムを知らない暗殺者たちは面白いほど簡単に、ディックの計略に引っかかってくれた。
 ウィリアムが無理矢理上体を起こす。折れ曲がった背中がディックに向けてまっすぐに伸びるも、膝はやはり床についたまま、青白い唇が呻る様な声を出した。

「私たちを殺したところで、お前が……生き残れるはずがないぞ」

「面白いこというね。僕もアンタたちももう死んでるじゃないか」

 ディックがナイフを逆手に持った。曾祖父の首筋に刃物を突きつけせせら笑う。
 相手は表情一つ変えなかった。

「そうだ。私たちは死体だ。〈梟の法廷〉に全てを捧げる人形。それがなぜ造反する。人形が持ち主に逆らえると思っているのか?」

 表情を変えたのはむしろディックのほうだ。
 嘲笑は消え失せ、目に冷たい輝きが宿る。ウィリアムの首筋に触れた切っ先が男の肌を傷つけ、赤い雫が青白い肌を伝っていった。
 ディックは静かな怒りを振りまきながら、血縁の年老いた梟を睨み付けている。

「解ってる。わかってるよそんなこと。それでも、あの人は僕の名前を呼んでくれたんだ」

「絆されてその気になったか……思った以上にバカだな、貴様は」

「アンタたちがいけないんだ。僕の意思を"産んでくれた"あの人を、僕から取り上げようとした。また僕の意思を奪って冷たい場所で眠らせようとした。もう死んだ僕を、もう一度殺そうとしたんだから」

 ウィリアムの口元に僅かだが嘲笑が浮かぶ。ディックの頭に血が上り、ナイフを持った手が曾祖父の頬を殴りつけた。
 バキリと重い音がして、頬を赤く染めたウィリアムが俯く。それでも口元の笑みは消えず、若い梟は腸が煮えくりかえる思いだった。
 もう誰にも踏みにじられたくないと思うのは、そんなに不自然なことだろうか。
 やはりもう殺そうと思い至ったディックがナイフを構え直すも、ウィリアムの着込んだ黒衣の隙間に紙片を発見して手を止めた。
 見る限りA4サイズの紙が何枚か連なっているようで、それが服の隙間から覗いている。おそらく、殴られた衝撃で飛び出したのだろう。
 彼が紙束に手を伸ばすと、ウィリアムが抵抗するため腕を動かした。
 先ほどの怨恨もあり、躊躇なく邪魔な右腕を切り落とす。

「がぁあああああッ!!」

 曾祖父の悲鳴にも、ディックは眉一つ動かさなかった。

「身体機能がほぼ停止してるんだから大人しくしてなよ」

 切り落とした腕を蹴って部屋の隅に転がした後、紙片に目を落とす。
 やはりというべきか、ウィリアムが担当していた任務の資料だ。

「これ、神父様の資料じゃないか」

 ジェイソン・トッドとブルース・ウェインの身辺調査について、結果が紙片にまとめられていた。目を通していくうち、ディックは内からわき出る喜びと興奮に、思わず飛び上がってしまいたいほどの高揚感を覚える。
 多幸感とともに満面の笑みを浮かべたディックは、今までの苛立ちなど吹き飛んだ様子で片足を軸に軽いターンを決めてみせた。

「すごいな! よりによってジェイソンが! 運命を感じる! これ、どうせアンタはまだ始祖さまに報告してないんだろ? 僕のことを始末して、確証を得てから報告するのがアンタのやり方だ!」

「答える義理はない」

「無駄な足掻きだな」

 ウィリアムの左腕も切り落とされる。使い物にならなくなった肉塊が、再び蹴り飛ばされて部屋の隅に転がった。老人が僅かに油汗を浮かべたが、苦しげな表情をされても、若い梟の心には同情の一変すら浮き上がってくることはない。
 随分とスマートになった老梟の眼前に奪った紙片を振りかざし、ディックは幸せそうな笑みを更に深めた。

「僕がアンタの代わりに報告しといてやるよ。ジェイソン・トッドは昔カルト教団に洗脳されて、そこで"戦闘訓練"を受けただけの普通の神父だって」

 ウィリアムの目が見開かれる。彼の疲弊した体は体力の限界に近づいていたが、それとは別の理由で微かに震えているようだ。
 どうせ反撃などできはしない。歯を食いしばり呻く曾祖父を前にそう判断したディックは、ウィリアムから奪った紙片を目の前で細かく破いてやった。

「大丈夫、手柄の横取りなんかしないさ。ちゃんとアンタの名前で報告しといてやるから安心しなよ」

 老梟が片膝を立て、立ち上がろうとする。腕がないためそれ以上動けず、彼は感情の波に任せたままひ孫に噛みつくような勢いで上体を折り曲げるも、すんでのところで届かず悔し紛れに大きく吠えた。

「貴様ッ! 我々だけでは飽き足らず、始祖さままで殺す気かッ!」

「追っ手を殺しただけじゃどうにもならないって言ったのはそっちじゃないか」

「そんなことをしてもお前の望むものは手に入らんぞ! 貴様は所詮歩く死体だ! いくら生者に焦がれたところで、死者のお前が寄り添えるはずがない!」

 ディックが冷たい視線でウィリアムを射貫く。
 彫刻のように整った顔は感情を排し、闇夜にスローイングナイフが煌めいた。
 氷のような冷たさの声が、薄い唇からこぼれ落ちる。

「うるさいな、わかってるよ」

 銀の一閃。
 ウィリアムの首に赤い切り込みが入り、胴体から顔が滑り落ちた。血が噴き出すことはなく、ベシャリと音を立て地面にぶつかった頭部は、暗がりの中ではスイカかメロンのように見えなくもない。
 ディックはしばらく歪なスイカを見下ろしていたが、やがてつい先ほどまで動いていたバスケットボール大の塊に液体窒素を振りかけて凍らせると、一切の躊躇なく踏みつぶしてしまった。
 何度か嬲るように足を振り下ろし、冷え切った肉塊が細かく割れ砕けるまで執拗に攻撃を加えると、床なのか砕けた頭部なのか、自分でもわからないまま一点を凝視する。

「……それでも僕は、僕を照らしてくれた、あの、暖かい春の日差しのような人が、どうしても……」

 その場には凍った死体が転がるばかりで、なにもディックの言葉に反応を示さない。
 言葉が虚しく闇へ消えていくのを感じ、ディックは意味もなく泣き出したい気分になった。

「どうしても、欲しいんだ」
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美しくなんて死ねると思うな