旅立ちの鐘が鳴る

3


 崩壊し始めた建物の中で、ジェイソンはディックと対峙していた。青白い肌の梟は、蝋の顔に幸せそうな笑みを浮かべている。

「いつ、僕のことを怪しいと思ったの?」

「私の部屋に無銘者の存在を示す写真が置かれていた時です。サギアが〈梟の法廷〉のリーダーで、私の正体を知っていたのなら、私を殺そうとはしないはずだ。だから〈法廷〉は私の正体を知らない。けれど、私が無銘者に対抗できると知っていて、なおかつ〈梟の法廷〉のリーダーは無銘者だと知っている誰かが、私にサギアの存在を教えた。どちらの情報も知り得る立場にあり、なおかつ彼女が倒されて得をするのは、〈法廷〉に命を狙われた〈法廷〉関係者……リチャード、貴方だけなんですよ」

 半円形のステージに石の高まりが落ち、倒れていた〈タロン〉が一体潰された。ディックは焦った様子もなく、目を細めて小首を傾げる。

「なのに僕と一緒に〈法廷〉の拠点まで来てくれたんだ?」

 彼に、逃げる気などないのだろう。そうしてジェイソンを逃がす気もない。
 どうしてなのか、神父には理解できなかった。

「最初は、私に〈梟の法廷〉と無銘者を倒して欲しいだけなのかと思っていましたから。私と目的が一致したのなら、利用されるのも悪くないと思いました。貴方の命も救うことができる」

「やっぱり貴方は優しいね。こんな死体に、まだ"命"があると思ってくれてる」

「リチャード、なぜ私まで殺そうとするのですか? いえ、〈法廷〉も無銘者も私も殺すというのなら、自分を知っているものの一切を消してやり直したいのだろうと、納得することもできました。なぜ、貴方は自分まで死のうとするのですか?」

 ディックの笑顔がすこしだけ、悲しげなものに変わった。

「ねえ、僕はもう死んでるんだ。もう死体なんだよ。〈梟の法廷〉がなくなったって、僕の人生が始まるわけじゃない。僕の人生はもう終わってる」

「リチャード、そんなことは」

「いいや、終わってるんだよ」

 青白い指が、黒衣に包まれたディックの胸部に触れる。蝋のような肌には見る限り生気のようなものは感じられない。顔立ちが整っているのもあって、大理石の彫刻と言われたほうが納得できるだろう。

「この体はただの歩く伝導体で、電気を通して妙な化合物が細胞を再活性化させてるにすぎない。文字通りゾンビ、噂通りの化物だ。こんな死体がさ、自分の意思なんて持ったところで、なんになるっていうんだ?」

 微かに震えた声は、すべてを諦めてしまったかのように虚ろだった。けれどもそれは朗々と、ジェイソンの耳に届く。
 建物が崩壊しかけ、そこかしこで轟音がする空間でも、ディックの言葉ははっきりと聞こえた。

「だけど貴方は、そんな僕の名前を呼んでくれた。いくらでも、僕が満足するまで名前を呼ぶって言ってくれた。食事を作ってくれた時もそう。僕が望む通りにしたらいいって。そんなこと言われたのは初めてだったんだよ。"本当に生きてた時"のことはもうまともに覚えてないけど、僕はずっと誰かに命令され続けてきた。自分の意思なんて持たせて貰えなかった。許してくれたのは貴方が初めてだったんだ」

 また、どこかで天井が落ちた。足もとの揺れが酷くなっている。

「……リチャード、無銘者はウィリアム・カッブが私を調べていたと言っていました。そして彼は、この場に来ていない」

「うん。貴方がオールカーストとやらの戦士だっていうのを探り当てて、〈法廷〉に報告する前に僕のところに来たんだ。僕は貴方に絆されたから、〈タロン〉失格で、だから引退させるって」

「貴方、彼をどうしたんですか?」

「アイツとアイツのつれてきた〈タロン〉なら殺したよ。まあ、もともと死体だから殺すもなにもないんだけど。リンカーン通りのアイスクリームショップあっただろ? あそこで粉々になってる。ゴメン、貴方の好きな店を汚したかったわけじゃないんだけど、僕らの体、細胞の活性化にたくさんエネルギーを使うから、体を冷やされると弱いんだ。液体窒素があれば簡単に倒せるから、あの店におびき寄せた。簡単に全員殺せたよ。僕は〈タロン〉失格だけど、それでも"歴代随一の〈タロン〉"って肩書きは間違いじゃなかったわけだ。まあ、大部分は貴方がくれた"カイロ"のお陰なんだけど。あれのお陰で僕まで冷えなくてすんだよ。ありがとう」

「お役に立てたようでなによりです」

「顔が怖いよ、神父様」

 ディックはジェイソンが自分を救ってくれたと言ったが、そんなことはない。
 彼は全てをとりあげられ、代わりに計り知れないほどの闇をその身に詰め込まれてしまった。
 ただ手を差し伸べただけで癒やせるような傷ではない。だから彼は今、ジェイソンとともに死のうとしているのだ。
 まだ救えていない。
 まだ目の前の迷子は迷ったままだ。
 諦めてたまるかとジェイソンは強く思った。

「それで、貴方は貴方の曾祖父を殺して、〈梟の法廷〉に虚偽の情報を流したわけですね?」

「そう。アイツの持ってた資料を読んで、貴方に〈法廷〉を潰してもらおうって思ったんだ。だからリーダーの正体がわかるように写真を貴方の部屋に置いておいた。〈法廷〉には、貴方はただ過去に戦闘訓練を受けたことのある神父だって報告しておいた。襲われたのは真夜中だったから、準備の時間は充分にあったよ。貴方に会いに行く前に襲われた傷が治ったのはちょっと困ったかな。命からがら逃げてきたように見せるのに、自分でまた傷を作ったんだ」

「そうまでして、すべて壊したかったんですか。貴方は」

「〈梟の法廷〉は僕から貴方を取り上げようとしたんだ。許せるわけないだろ? こいつらは、僕が最初で最後、唯一欲しいと思ったものまで取り上げようとしたんだ。今までなにも選べなかった僕が、最後に選びたいと思ったものまで否定した。僕は貴方が欲しかったんだ。だけど僕はもう死んでいて、僕の人生はもう終わってる。なにをしたって、終わったものはもう一度始まらない。いくら生者に憧れたところで、死者は生者に寄り添えない」

 金色の瞳孔が大きく揺らいだ。水面に石を投げ入れたような波紋とともに、黄金が溶け出して青白い頬の上を滑る。
 睫毛の下から雨が降るように、音もなく小さな水滴が滑らかな頬を滑り落ちていった。
 迷子の口元に浮かんだ笑みがひどく痛々しい。

「だったら最後のワガママくらい、叶えてもらったっていいだろ? 神様だってそのくらいのワガママ、許してくれるだろ?」

 細い手がジェイソンの頬に触れる。ナイフを握り、人を傷つけてきたはずの手が、ジェイソンを殺そうとしているはずの手が、ひどく優しかった。
 ガラス細工に触れるような繊細さで神父の肌に触れた指先が、すがりつくように男の唇をなぞる。
 ディックの声は相変わらず震えていて、金色の目からはらはらと涙が伝っていた。

「ねえ、神父様……僕と一緒に死んでよ。僕のものになってよ。僕なにも持ってないんだ。最後にひとつくらい、手に入れたっていいだろ?」

 ジェイソンの手がディックの手の上に重なる。頬に触れた青白い手を包むようにすると、迷子の梟は少なからず安堵したようだった。
 けれどジェイソンは、この梟の要望に応えてやることはできない。それは彼のためにもならない。

「リチャード……私はまだ死ねません。貴方も、まだ死ぬべきじゃない」

 ディックの表情が凍り付く。
 裏切られたと言いたげな表情で痛みに耐えるよう眉を顰めた梟は、すぐさま神父の手を振りほどき、三歩後退した。

「だから! 僕はもう死んでるって言ってるだろ!」

「いいえ、リチャード! それは違います!」

 中空をさ迷うディックの手を、ジェイソンが掴む。それ以上後退できなくなった梟は否応なく神父と目を合わせ、全てが崩壊する轟音は遙か彼方に遠のいた。生きているふたりだけが静寂に捨て置かれる。

「死とは、全ての停止です。肉体も思考も時間も心も魂も全て停止することを死と言います。貴方は今私と話している。思考は動いている。思考が動いているなら心は動いている。心が動いているなら、魂も動いている。魂が動いているなら貴方は生きている!」

 ディックの体がビクリと揺れた。目を逸らそうとする迷子の顔に手を添えて視線を合わせたジェイソンは、言葉と思いが梟の傷の奥に届きますようにと心の底から祈る。
 救いたいと願ったのだ。諦めたくはない。心がそう望んだのだから。

「生きている限り、人は自由です! 何度だってやり直せる! 自分の望むものを、自由に、自分で選ぶことが出来るんです!! だから貴方は、もう死んでいるとか、やり直せないとか、そんな言い訳をやめて、自分の心に素直になってください!」

 涙を流せる人間が、死んでいるなどという道理はない。全て奪われたからといって諦める必要はない。
 そんな理屈がまかり通るなら、ジェイソンはカルト教団に洗脳された時とっくに死んで、それきりだ。
 ジェイソンがやり直せたのだから、ディックだってやり直せる。
 それを彼が望むなら。

「貴方はただ、貴方の心にだけ従えば良い。ここで死にたいのか、生きたいのか。生きたいのなら、私は貴方を手助けすることができる。死にたいのなら、私は貴方を見送り、祈りましょう」

 少時沈黙があった。
 ディックは涙に頬を濡らしたまま、惚けたような様相で神父を凝視していたが、やがて泣き顔に笑みを浮かべ、呆れたような、けれど幸せそうな声音で小さく笑う。

「ねえ神父様、僕の話、ちゃんと聞いてた?」

 ジェイソンの人差し指が梟の涙を拭う。彫刻の様に洗練された手が神父の手を包み込み、迷子だった梟は、やっと巣を見つけたかのように安堵しきった様子を見せた。

「僕は……僕の心は……貴方の傍にいられるなら、生きようが死のうが、なんだっていいんだ」

 それだけが自分にとって大切なのだと梟は言う。
 ジェイソンがディックに笑いかけると、迷子だった子供は照れくさそうに顎を引き、上目遣いで首を傾げた。

「でも神父様、生きるっていったって、この建物はもう壊れるよ。どうやって脱出するんだよ。たぶん、どの出入り口ももう塞がってる。まっさきに逃げ場がなくなるように爆弾を仕掛けたから」

 ディックが持っていたナイフを投げ捨てた。神父は思わず声をあげて笑ってしまう。

「貴方、やたら用意周到ですね。怖いくらいです」

「ごめん」

「かまいませんよ。ここに来る途中、噴水がありましたね」

「うん」

「あそこだけ大理石ではなく、白大理石が使われていました。他の大理石よりも柔らかく脆い性質のものです。爆発で簡単に壊れる。そして、ハーバーハウスの一階から入って歩いてきた距離と方向を考えると、あの噴水は河の近くにある」

 ジェイソンがカソックのボタンを三つ外し、内側に手を入れる。彼が取り出したのはつるりとした黒い球体。
 手榴弾だ。

「そしてここに丁度、最後のひとつになった火薬があります」

 梟が「ははっ」と笑い声をあげた。
 周囲にはまだ轟音が響いていて、死体がいくつか、すでに落下してきた天井の下敷きになっている。
 急がなければいけなかった。

「僕がやたら用意周到だって? それ、貴方のことでしょ。呆れるなぁ、もう」

 ジェイソンは笑顔のまま答えない。代わりに、ディックに対してそっと手を差し出した。

「少し苦しいですけど、大丈夫ですよ。一緒に帰りましょう、リチャード」

 彫刻が自分の手を重ねる。はぐれないように。もう迷子にならないように。

「うん、帰ろう」

 そうして彼は、天を見上げた。 
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美しくなんて死ねると思うな