眼福


「雨だな」

「そうだね」

 コン=エルが薄いねずみ色の空を凝視したまま呟いたのはその日の午前十時頃で、彼の隣に立っていたティム・ドレイクも窓ガラスに体当たりしてくる水滴を見つめ目を細めていた。
 空に広がる薄い雨雲は太陽の光を内包し、わずかだが輝いているようにも見える。雨粒が地面にぶつかる音と、その水滴が集まって流れていく音が混じり合い、晴れの日なら聞こえてくる他の音をかき消してしまっていた。音は絶えず聞こえているのに、雨音は全てが停止した静寂によく似ている。
 窓を開ければ他の音も聞こえるはずだ。
 突如意味もなく不安になったコンが窓を開けると、隣にいたティムが怪訝そうな顔をする。

「なにやってるんだよ、濡れるだろ」

「いや」

 聞こえてくるのは雨の音。道路を車が走る音。人が雨の中を歩く音。傘を開く音。むしろ晴れの日よりハッキリと、弾けて流れて反射する水がある分音の種類は多いはずなのに、やはり不思議なほど静かに感じた。
 それから予想外に鼻腔をくすぐる、土の匂い。
 
「雨の日は不思議な匂いがするな」

 スン、と鼻を動かしてみると、ティムが可笑しそうに目を細める。

「そうだね」

「結構好きだ。土の匂い」

「僕も好きだよ」

 ティムが窓に手をかけ、ゆっくりとしめた。また音が遮断され、土の匂いも消えてしまう。コンの服に雨の染みが残った。床にいくつか水滴がついている。

「雨の日独特の匂いは化学物質が由来でね。ペトリコールとゲオスミン。コンの言う土の匂いはゲオスミンが原因だね。土壌細菌によって放出される化学物質だ」

「へえ」

「下水道から発生するカビ臭い匂いと同じ成分だよ」

「なんでそれを今言うんだ!?」

「好きって言ってたから」

「好きって言ってたから黙ってるという気遣いは!?」

「ないね」

「うわぁ」

 ティムがまた楽しそうに笑った。コンは少し口を尖らせ、恨めしそうに小柄な少年を睨む。

「……その豆知識、おれの今後の人生に必要か?」

「必要ないね」

「うわぁ」

 再度、「じゃあなんで言ったんだ」と呟くコンがティムに視線をやる。夜とは違う、雨の日独特の薄暗い空間で、彼は静かに窓の外を見ていた。

「だけど、その必要のない知識のほうが、思い出と強く結びついてたりするんだよ」

 彼の横顔はまるで別人のようだった。きっと部屋が薄暗いせいだと思う。全てが止まったような雨音の静寂と、水気を帯びたねずみ色の暗がりが彼を別人に見せているのだろう。

「……そうなのか」

 短い返答しかできずにいると、ティムが「そうだよ」と小さく笑った。
 それが本当なら、そういう思い出や必要のない知識を抱えて、守れる人間でありたいと、流れる雨粒を見てとりとめもなく思うのだ。
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美しくなんて死ねると思うな