A Whole New World


 小さい子供を抱えた男女が、潰れた貸倉庫の前に倒れている。シャッターには赤いスプレーで下品な落書きがされていた。屋根の配管が破れて水が漏れている。ポタリポタリと落ちる雨水が、三人から流れ出る赤を下水に流していった。
 赤いフルフェイスマスクを脱いだジェイソンは、既に事切れた家族を見つめてなにかに耐えるよう強く目を瞑る。一歩離れた場所で、Sの紋章を掲げたサイキッカーの青年――ジョナサン・レーン・ケントがその様子を見つめていた。未来からやってきたサン・オブ・スーパーマン。父と母の名を受け継ぎ、未来の戦争においてメタヒューマンのほとんどを殺し尽くした鋼鉄の少年だ。
 その目に、事切れた家族はどんなふうに映るのだろう。
 死んだ男は盗みで日銭を稼ぐような男だったが、3日前レッドフードに銃口を突きつけられた時は、妻と子供のために真面目に生きると言っていた。彼の鍵開け技術に目を付けた悪党が、家族を人質にして仕事をさせようとしなければ、今頃家族でネブラスカ州にいたはずだ。
 いや、そうでなくても、せめてジェイソンがもっとこの事態に早く気づいていれば、明日には家族でネブラスカ州に発てたかもしれない。
 助けられなかったという悔恨だけが彼の足に重たく絡みついていた。ホルスターに収めた二丁拳銃がとても重い。

「……仕事は終わりだ。あとは警察に任せる。行こうぜ、ジョン」

「ああ」

 死体に背を向けて歩き出したジェイソンの前に、ジョンの手が差し出される。顔を上げると、いつも通り自信に満ちあふれた笑顔の青年がいた。大通りの灯りを背中に受け、静かな声色で語りかけてくる。

「帰ろう。俺がつれていったほうが早い。手を」

「いや、目立つからいいよ。歩いて帰る」

「大丈夫だ」

「相変わらず人の話聞かねぇな」

 思えばジョンは出会った時から人の話を聞かなかった。常に自信に溢れていて、己の考えを曲げない。時折無性に好ましいと思えるそれは、今も確かにひどく眩しいのだかれど、いささか眩しすぎるように思える。
 ジェイソンが可否を口に出す前に手を掴まれていた。ジョンの目がうっすらと赤に染まり、周囲に赤い閃光が走る。彼がテレキネシスを使う兆候だ。
 ふわりと体が浮かび上がる。重力から開放されたような不思議な感覚とともに、ジェイソンは気がつけばゴッサムのはるか上空に浮いていた。
 風が冷たい、と思ったのは一瞬のことで、冷え切った強風はすぐになりをひそめた。おそらくジョンがテレキネシスで障壁を作ってくれたのだろう。人の話を聞かないわりに、妙なところで気の回る男だ。
 おそらくこうして空を飛んでくれたことだって、彼なりに気を遣ってくれた結果なのだろう。
 足もとに夜景が広がっている。オレンジ色と、白と、緑と、青。たくさんの光が地面からあふれ出していた。ビロードのような闇をうっすらと照らし、まるで頭上と足もと両方に宇宙が広がっているようだ。
 ジョンはジェイソンの手を掴んだまま足もとの夜景を見下ろしている。道路を通る自動車までもが流れ星のように見えた。ジェイソンも彼に習ってゴッサムの夜景を見下ろす。
 すぐ近くでジョンの声がした。

「お前の世界は綺麗だ」

 ジェイソンの脳裏に先ほどの死体が浮かんだ。思わず眉を顰める。たしかに外面は美しいかもしれないが、中身はドロドロに腐った生ゴミの塊だ。

「俺は、そうは思えねぇな」

「綺麗さ」

 やはりジョンは、人の話を聞かない。呆れたような視線を向けると、なぜか笑みを返された。相変わらず優しげで、強くて、揺るぎない笑み。

「空も、街も、空気も、人も、みんな綺麗だ」

 足もとを光が流れている。ジョンはジェイソンの目を見て微笑んだまま、ハッキリとした声を出した。

「だからきっと、まだ間に合う世界なんだろう。俺のいた世界に、こんな綺麗な場所はなかった」

 彼の世界は戦争をしていた。初めて出会った時、空気も空も綺麗だと言った彼は、きっともっと酷い世界を見てきたのだろう。彼にとってこのゴッサムはまだ綺麗で、まだ間に合う世界だ。
 少なくとも戦争に明け暮れ、空が常に灰色で、人々が全員絶望しきったような世界ではない。

「許されるなら、俺は今度こそ、この世界のためになることがしたい」

 足もとにも頭上にも、光の奔流がある。そのはざまの闇に浮かぶジョンとジェイソンはまるで世界に置いていかれたようで、まるで世界を見守っているようで、不思議な気分になった。
 ジョンの黒髪が闇に溶けそうだ。ふわりと漂う赤い閃光がジェイソンの視界を掠めていく。攻撃的なはずの光は、なぜかひどく優しかった。

「幸せをもたらしてみろと言われたことがある。俺は、救った人間の数より殺した人間のほうが多い。あの頃はそれが正しいと信じていた。やり直せるなら、今度こそ人に幸せを与えたい」

 願わくば誰もが当たり前に明日を享受できるように。願わくば、誰もが当たり前に幸せを感じられるように。
 ヒーローと呼ばれる人間はみな似たようなことを願っている。人をたくさん殺してきたこの男も、同じ事を願っているのだろう。
 自分なりの正義を信じて戦い、敵にも味方にも恐れられていると知った時、彼はどんな気持ちだったのだろう。
 育ての親に教え込まれた正義が間違っていると感じた時、彼はどんな気持ちだったのだろう。
 不安定な遺伝子にむしばまれた体を引きずって、正義のために戦っていた筈が、全て間違っていると思い知らされた時、彼はどんな気持ちだったのだろう。
 ジェイソンが思わず声を漏らす。
 
「ジョン」

 続く言葉は見つからない。自分に何か、彼のための言葉が言えるとは思えない。
 名前を呼ばれた青年が目を細めた。青い目の奥に赤い光がちらついている。夕暮れの始まりを思わせる不思議な色合いが、ジェイソンをまっすぐに見つめていた。

「やり直せるなら、今度こそお前を幸せにしたい」

 それはきっと、ジェイソンを"人"という大きなくくりの代表として扱ったにすぎないのだろう。特に深い意味はない。特別な意味はない。もしかしたら元気づけるという意味合いも多少あるのかもしれないが、それ以上では決してない。

「……おう」

 自分で思ったより消え入りそうな声が出た。ジョンは少しだけ不思議そうに首を傾げたが、すぐにまた笑う。赤い奔流がジェイソンの視界を掠め、手を引かれるまま体が動いた。

「このままだと体が冷えるな」

「大丈夫だよ。お前のおかげで風こねぇし」

 視線を下に動かすと、ゴッサムの夜景がキラキラと輝いていた。未来の人間に『まだ間に合う』と言われた背徳の街。ジョンの言葉を聞いてからだと、まったく違った景色に見えるから不思議だ。視点を変えるだけで世界はまったく新しいものに変わっていく。
 ジェイソンが俯いたまま小さく口を動かした。

「もうしばらくここにいる」

「……そうか」

 あと五分もすれば、きっとこの頬の熱も引くだろう。
 星空の狭間にふたりきり、取り残されたように浮かんだまま、ジェイソンは顔に集まった熱を冷ますため、しばらく地上の星空を見つめていた。
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美しくなんて死ねると思うな