誓約(ディック・グレイソン曰く)「俺にかまうんじゃねぇよ」 「生憎、そういうわけにはいかないんだ。悪いな、ジェイソン」 薄暗い路地裏は、生ゴミとアルコールが混ざったような、不快な匂いが漂っている。古いアパートにへばりついた非常階段が、ビル風に軋んで甲高い音を立てていた。 アパートとアパートの隙間、闇の蹲る饐えた空間にふたりの男が立っている。 ひとりはブルードヘイブンの守護者、ナイトウイング。彼に電流の流れるエスクリマ・スティックを突きつけられているのは、赤いフルフェイスマスクを被った男、レッドフードだ。顔全体を隠しているため表情はうかがい知れない。多少ナイトウイングより高い位置から、黒髪の男を見下ろしていた。 「お前の墓の前で話したけど、当然お前は覚えてないんだろうな。聞こえていたかも怪しいし、もう一度話しておくよ」 「何をだよ」 不機嫌そうな低い声。 見下ろされ、恫喝のような言葉を投げつけられたナイトウイングだったが、彼は目元のみをドミノマスクで覆い隠し、口元に笑みを浮かべていた。 目の前にレッドフードが、ジェイソン・トッドがいる。 それだけで彼の心は浮き足立つ。 獅子のうめく様な声でさえも、夜こっそり飲んだホットチョコレートのように、ひどく甘美な味がした。 「ジョーカーのこと。お前があいつを殺そうとしたって聞いた時はヒヤヒヤしたよ。僕の獲物だ。手を出すな」 「笑える冗談だな」 ジェイソンが微かに肩を揺らす。マスク越しに発せられる怒気がディックの肌をチリチリと焼いた。 弟が怒りという感情を抱いている。 感情を抱いているということは、生きているということ。 そして、彼の頭の中には今、自分がいる。 昔はなんとも思わなかったことが、震えるほど幸せだと思う。 今までさんざん、ジェイソンはディックの頭の中に居座ってきた。 綺麗な思い出、悔恨、愛しさ、憎しみ、哀しみ、欲望。あらゆるものと密接に結びついて、そのどれとも切り離せないほど強大で、深い場所に住み着いてきた。 少しくらい彼の心にディックが入り込んだって罰は当たらないだろう。 それどころか、このくらいで喜んでいるのだから、彼の願望は控えめで可愛らしいくらいだ。ディックの脳内に居座る、ジェイソンの大きさに比べたら。 弟がマスクの奥で鼻を鳴らす。刺々しい嘲笑がディックの耳を嬲った。 「今までのうのうと生かしといて、お前の"獲物"? これまでにあいつが何人殺したかわかってんのか? 獲物だっつーんなら今すぐとっ捕まえてブチ殺せよ。それともやっぱり怖くて殺せないか? 俺がもう一度殺されたって、テメェはジョーカーを殺したりしねぇんだろ」 ジョーカー。殺された。俺がもう一度。 耳障りな単語が、甘美な声音で紡がれる。 途端に今までの、歌い出したくなるような気持ちが一気に弾けて消えてしまった。 ディックの口元に浮かんでいた笑みが消える。 大通りから聞こえる、車の走る音が耳障りだ。ビル風がディックの足もとにビニール袋を飛ばしてきた。カサカサという音も、纏わり付くような感触も不愉快だ。 なによりも不愉快なのは、脳裏に過ぎった忌まわしい記憶と、憎たらしい事実。 「そんなことさせない。ジェイソン、お前はもう死なせない」 絞り出した声は思った以上に冷たかった。感情を無理矢理押し殺しているのだから、声色までコントロールできなくて当然かもしれない。 リトルウイングが驚いたらいやだな。 彼の不安とは裏腹に、ジェイソンは兄から視線を逸らさなかった。 どうやら驚いてはいないらしい。 足もとに絡みついてきたビニール袋を蹴飛ばして、ディックが再び笑みを浮かべる。 目の前にジェイソンがいるだけで腹の底から痺れのような歓喜がわき上がってきた。 春の風を吸い込んだ時のような気持ちだ。 当然だろう。目の前の男は、大切なひとなのだから。 自分より大きくなっても、目的が違ってしまっても、大切な弟なのだから。 「なあ、わかるだろ? 僕やお前がジョーカーを殺したところで罰になんかならない。バットマンが"負けた"って言って笑うだけだ。もちろんバットマンがあいつを殺したってあいつは喜ぶ。僕やお前が殺すよりもっとずっと喜ぶだろうな。完全な"バットマンの敗北"だ。僕はあいつを喜ばせる気も楽しませる気もない。お前だってそれは本意じゃないだろう?」 言い聞かせる様にゆっくりと喋る。昔と変わらない口調。こういう時、大抵ジェイソンは反抗的だった。 今回もやはり不服なようで、見えないはずの表情が目に浮かぶ。きっと鋭い薄氷色の双眸が、ディックを睨み付けているのだろう。 ヴィジランテが、絞り出すように低く唸った。 「じゃあどうすんだよ? アーカムにぶち込んでおくってか? そんなもん、捕まえたら逃げ出すの繰り返しじゃねぇか。おまえらが決断しない間にまた人が死ぬ」 「なあジェイ、逃げ出されなきゃいいんだよ」 「だからそれが無理なんだっつってんだろ!」 ジェイソンの腕が、背後のレンガを乱暴に叩いた。重い音がして、近くの非常階段からサビがパラパラと落ちてくる。 ディックの弟は、昔から激情型だった。すぐに頭に血が上る。そのわりに腹芸には長けているから、周囲はいつも振り回されるのだ。 根幹にあるのは強い正義感。理不尽に怒る心と、弱者を見捨てたくない優しさ。そのどれもが、ガラスケースに入れてしまいたいほどに尊くていじらしい。 小さく息を吐いたディックを見据え、ジェイソンの腕が微かに震えた。 「100%はない! お前らが1番よくわかってるはずだ! あいつら生きてる限り同じ事をするぞ! "死刑"がないならぶち込まれるぐらい安いもんだと思ってる! 似たような奴をお前は何人捕まえた? 同じ犯罪者を何回アーカムにぶち込んだ? ブラックゲートはどうだ? どこもかしこも、再犯と脱獄囚で溢れてやがる! あいつらが逃げ出す度にまた被害者が出る! わからねぇなら教えてやる。あいつらはな、死ななきゃやめねぇんだよ!」 レッドフードの言葉は正論だ。それはディックもよく知っている。クライムファイターのジレンマ。不殺を掲げる以上、どうしても向き合わなければいけない問題だ。 ディックだって考えなかったわけではない。 だからこそ、既に答えを見つけている。 ジェイソンとは違う答えだけれど、ディックにとってこの答えは真理だった。 「ああ、ジェイ。一度一線を越えたら限度がなくなる。僕らは融通が利かないくらいでいないと、いつか冤罪が生まれるぞ。罪を裁くのは司法の仕事だ。正式な手続きと正式な検証がなければ、断罪はただの暴力になる。"わかりきっているから手続きは必要ない"じゃ、いつか絶対に、不確定要素があっても正式な手順を省略する奴が出てくるだろう。それに、話が食い違ってる。僕はあいつの犯罪を止める話をしてるんじゃないんだ」 ジェイソンの喉元に突きつけたエスクリマ・スティックに電流を流す。 ジェイソンを傷つけるつもりではない。一瞬だけ、青白い光で彼の目をくらますだけだ。 だって、大切な人に醜い表情は見られたくない。 いつでも余裕のある表情で向かい合いたい。格好いいと、思って貰える人間でありたい。 見て欲しくないのだ。 怒りと憎しみと殺意にまみれた自分の姿など。 「僕は レッドフードの動きが硬直する。しばらくして、探るように、しかし確かな怒りを滲ませた声がディックの耳に飛び込んできた。 「復讐? なに言ってんだお前」 信じがたい、疑わしい、そんな感情がありありと見える声だ。 まだ彼がロビンだった頃にも何度か聞いたことがある。ジェイソンは存外疑り深い性格で、よくディックの話を聞いて似たような声を出していた。 目を瞑らなくても思い出せる、大切な思い出。 あの頃は標準より小さかったのに、可愛いリトルウイングは、今やディックの身長を抜いている。 愛しい弟の静かな怒声で、彼は現実に引き戻された。 「テメェ、俺の注意を逸らしたくてそんなこと言ってんなら本当に撃ち殺すぞ」 「失礼だな。本気で言ってるんだ。考えても見ろよ。あいつが1番嫌なのはなんだと思う?」 思い出を反芻したお陰で、ディックの精神はかなり安定している。お陰で、不機嫌そうなジェイソンを見据え微笑んでいられた。 弟の喉元にエスクリマ・スティックをつきつけたままではあったが、やっと生きているジェイソンに、ジョーカーへの復讐を誓うことができるのだ。 「殺されることでも投獄されることでもない。あいつはあいつの世界が壊れることを1番嫌う。あいつの世界の全て――あいつの理想の"バットマン"」 愛しい弟の、赤いフルフェイスマスクに手を伸ばす。ヘルメットの開閉スイッチを押すと、逞しく成長した弟の顔が現れた。 目元には赤いドミノマスクをつけていたが、僅かばかり幼い頃の面影があった。けれど、頬も、首すじも、思い出の姿とは随分と違ってしまっている。 精悍な頬を指で撫でると、ジェイソンはひどく混乱しているようだった。 彼の肌を、グローブ越しでしか触れないのが恨めしい。本当なら弟が生きている証を、成長した証を、直接感じたいのに。 彼がこうなる空白を共に過ごせていればどんなによかったか。 本来なら自然とそうなるはずだった未来が、憎たらしい道化によって奪われた。 ああ憎らしい。憎らしい憎らしい憎らしい。 だからディックは復讐するのだ。かつてジェイソンの墓の前で誓った。 今また、生きている弟の前で誓うため、大切な秘密を打ち明けるように、ジェイソンの耳元でそっと囁く。 「あの道化が嫌悪するのは、"王が王で無くなること"だ」 弟の太い首をグローブ越しに擽ったディックは、次に鎖骨へ指を走らせた。 背筋がゾクゾクと愉悦に粟立つ。 今目の前でリトルウインが生きていて、自分の指で触れていることが叫び出したくなるほど嬉しい。 だからこそ、ナイトウイングはあの道化を許す気がなかった。 「あいつが夢見る"孤高の王"が、"家族と仲間に囲まれた正義のヒーロー"になった時、孤高の王は無残に殺される。僕があいつの王を奪ってやる。あいつの1番大切なものを叩き潰して、王にとってかわる正義のヒーローをあの道化の前につきつけてやるんだ。僕からお前を奪ったあいつの、1番大切なものを僕が奪ってやる」 復讐してやる。絶対に。あいつが一番苦しむ方法で、死ぬよりも辛いやり方で、どうか殺してくれと懇願するまでとことん苦しませてやる。 ディックの腹には、ジェイソンが死んだ時からずっと黒い炎が燻っていた。 殺気と憎悪が入り混じった炎。 けれども彼は弟の手前、仮面のような笑顔を張りつけている。怖がらせるのは本意ではない。そんな負の感情に支配された自分をジェイソンに見て欲しくない。 だから彼は自分を灼き続ける炎をおくびにもださず、笑顔と、優しい声で愛しい弟に語りかけた。 「そのために準備だってしてるんだ。あいつにはただ死ぬなんて生ぬるい。いくら殴ったって切り刻んだって足りやしない。僕からお前を奪ったあいつは、誰もこない暗闇の中で人に忘れ去られて、『ジョーカー? そんな奴いたね』なんて言われるようになった頃、ようやく年老いて寂しく死んでいくくらいじゃないと ディックの人差し指が、ジェイソンの首を愛撫する。 可愛いリトルウイングのためなら、愛しい弟を奪ったあの道化を苦しめるためなら、彼はなんだってするつもりだ。 誰も来ない暗闇。ジョーカーを閉じ込めるための檻は、もう完成しようとしていた。 アーカム・アサイラムの警備見直し計画。監視システムのオート化。地下の特殊独房建設計画。 すべて、ディック・グレイソンの名前もナイトウイングの名前も出さないまま、ことは順調に進んでいる。 ジェイソンも思い当たる節があったらしく、ざらついたレンガに拳を押しつけていた。 「……てめぇ……」 努めて優しく接しているはずなのに、弟は怯えているようだった。 「ジョーカーにイヤガラセするためにブルースまで利用するつもりか?」 「そういう言い方はよしてくれ。僕は元から、ブルースには仲間と家族が必要だと思ってた。だからロビンにだってなったし、今まで彼に協力してきた。彼のためなら死ねるっていうのも本気だし、それはずっと変わらない」 強化素材のグローブに包まれた兄の手が、赤いヘルメットに手をかける。 レッドフードの逞しく成長した腕が、ディックの手を振り払おうとした。 手首のあたりを素早く掴んで、顔を思い切り近づける。 遠い昔の、幼い顔立ちとは随分違ってしまった顔。薄氷色の目が恐怖に小さく震えている。 力強い顔立ちと、揺らぐ瞳がアンバランスでひどく美しい。 いっそ泣いてくれたら、その涙を舐めてしまえるのに。 「僕は彼の為なら死ねる。だけど」 いっそ抵抗してくれたなら、体を壁におしつけて、二度と逃げ出さないように捕まえてしまえるのに。 「だけどな、ジェイソン」 いっそもう二度と死なないように、首輪を付けて檻に入れて、一生大切にその命尽きるまで愛で殺してしまおうか。 「僕はお前のためならヒーローをやめたっていい」 大切な弟を奪った、憎たらしい道化の顔を苦悶に歪めるためなら、どんなことだってしてやる。 そのためにヒーロー失格だと言われても良い。 愛しい人間ひとり守れないなら、ヒーローなんて肩書きに意味はないのだ。 「僕がアイツに、『最低』だって言われたとき、どんな気分だったと思う? バットマンの偽物の中でも最低だってあいつは僕に吐き捨てた。『王を軟弱者に変えた元凶』だとさ」 思い出すだけで笑みがこみ上げてくる。ジェイソンの目が水面のように揺らいでいた。 この麗しい瞳を、なにも映さないガラス玉にしてしまった男がいる。 汚らわしい爆風で未だ幼い体も、艶やかな目も、強く優しい心も、すべて吹き飛ばしてしまった男がいる。 またディックの腹の底から憎しみが沸き上がってきた。 「笑いを堪えるのに必死だったよ! これで僕があいつを捕らえれば――バットマンを差し置いて、王を堕落させた反逆者があいつを捕らえたら、そのせいであいつが"王"の興味を失えば、あの道化、どれだけ悔しがると思う? どんなに絶望すると思う? それが、あいつの残りの人生分ずっと続くんだ!」 捕らえられ、ただの囚人となった道化に"王"が執着することはなくなるだろう。 しかもその原因になったのが、道化にとって一番憎い『王を軟弱者に変えた元凶』だったとしたら、あの男の屈辱はどれほどのものだろうか。 あの男の大切なものすべてを奪うのは、バットマンではなくディックだ。 道化が嫌悪する『諸悪の根源』が、再びあの男に牙を剥いて、あの男から王も、王の道化に対する興味も、狂人が大切にしているものを全て完膚なきまでに徹底的に奪って壊して汚して叩き潰してやる。 他ならぬ、この僕が!! 「僕はお前の墓の前で誓ったんだ。あいつに、あいつが1番嫌悪する方法で復讐してやるって。僕からお前を奪ったあの道化の大切なものを永遠に奪い去ってやるって」 グローブ越しにジェイソンの鎖骨を擽り、首を愛撫して頬に手を這わせる。レッドフードはもう抵抗しなかった。戸惑っているようにも、迷っているようにも、受け入れているようにも見える。 受けて入れてくれるなら、こんなに嬉しいことはない。 幸福と恍惚で体がバラバラになりそうだ。 「だからもう一度、生きてるお前に誓うよ。あいつに、あついが1番嫌悪する方法で復讐してやる。あの道化の大切なものを、僕が永遠に全て奪い去ってやる」 ジェイソンの目が揺れた。麗しい。澄んだ冬の湖のように透明な水色。 息苦しいほどに冴え冴えとした青が、今ディックだけを見ている。 ああ、嬉しくて死んでしまいたい! 「待ってて、僕のLittle Wing」 必ず、お前を奪ったあの道化に復讐してやるから。 そうしたらお前は、もう二度と、どこにもいかないだろう? 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