聖域

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《軽罪には軽罰を。極悪人には極刑を》

 赤い血で地面の上に大きく文字が書かれている。
 その横には、また人でなくなった肉の塊が捨てられていた。
 マーゴ川の川べり、フランチェスカが死んでいた場所の目と鼻のさき。現場保持のためバリケードテープで区切られた場所のすぐ隣に男の死体が転がっており、おそらくこの男の血液で地面に文字が書かれていた。
 死体の顔は確認できない。鼻も耳も唇も削がれていたからだ。肉の破片が死体の横にうち捨てられている。傷口の形状から、切れ味の悪い刃物を使って無理矢理引きちぎられたことがわかった。手足も切断されており、こちらの傷口もかなり状態が悪い。ひしゃげたパーツは計二十本の指とともに死体の周りにばらまかれていた。娼婦の死体同様、下腹部を集中的に攻撃されているようだ。性器も無理矢理切り取られ、ゴミのようにうち捨てられている。
 切り刻まれた顔が苦悶の表情を浮かべていることから、こちらも生きたまま切り刻まれたのだろうと推測できた。
 同一犯の犯行か、模倣犯か。
 昨日の娼婦よりも無残な死体を見て、現場に駆けつけたディックは思わず言葉を失った。ゴッサムでそれなりに陰惨な事件にも遭遇していた自分ですら、吐き気がしてくる光景だ。
 周囲にはすでに人だかりが出来ており、先だって到着した仲間が規制線をつくるのにかなり苦労していた。
 行って手伝わなければ。
 一歩踏み出したディックは、しかし背後の野次馬が吐き捨てた言葉を聞き足をとめる。

「レッドタウンの娼人に手ぇ出すからだ」

 娼人。レッドタウンで売春行為を行う男娼や娼婦を総称する言葉だ。
 男はレッドタウンでなんらかのトラブルを起こしたのだろうか。
 話を詳しく聞こうと思っても、野次馬の誰が発言したのかわからず、結局仲間から声をかけられ応援に行かざるを得なかった。
 ロマノフ刑事が現場に到着したのは規制線を張り終わった五分後で、昨日同様彼に呼ばれたディックは跳ぶようにして刑事の元に向かった。

「殺されたのはジョスリン・マクラーレン。ゴッサム住みのチンピラで、一昨日からこの町に来ていたようです。レッドタウンでトラブルを起こしたようなので、聞き込みを」

「いや、この事件の調査は終わりだ。昨日の、フランチェスカの事件も」

 ディックの動きがピタリと止まる。危うく声を荒げそうになったため、喉を押さえて無理矢理自分の音量を調整するハメになった。

「なぜですか?」

 ロマノフがディックに背中を向けて歩き出す。青年は男の後を追いながら、彼の言葉を聞いていた。

「朝早く、警察署に防犯カメラの映像が送られてきた。日付は一昨日の深夜。フランチェスカとこの男が一緒に歩いてる映像が映ってたよ。娼婦の死亡推定時刻の五分前だ。これから念のためDNA鑑定も行うが、まあほぼ確実だろう。娼婦殺人事件は被疑者死亡で書類送検だ」

「でも、それは今回の殺人事件の調査を打ち切る理由にはなりませんよね?」

 刑事が立ち止まり、ゆっくりとディックに顔を向けてきた。なにを考えているか読めない。仕事中の養父を思い出して、ディックはすぐその思考を脳内から追い払った。
 彼の影はまだ自分の中で強すぎて、ふとした瞬間顔を出す。距離を置くべきだと思ったから離れたのに、これではあまり意味がないように思えた。

「それに、その防犯カメラの映像だって本当かどうかわからない。冤罪かもしれない。殺され方はフランチェスカと酷似しています。人を二人も殺した凶悪犯がいる可能性は残ってる。そうでなくても、この男を生きたまま切り刻んだ誰かが、ブルードヘイブンにいるのに」

 ロマノフはしばらく黙っていたが、やがてディックから視線を外してしまった。背中を向けられているため表情はうかがい知れない。彼はただ困惑したように、乱暴に頭を掻いていた。

「お前もコイツもゴッサム出身か。ここの〈ルール〉を知らねぇって点では同じだな」

 〈ルール〉
 このタイミングで持ち出されるそれにおそらくロクなものはない。なぜ殺人犯が野放しになっているのに捜査を打ち切るのか。先ほど野次馬がこぼした「レッドタウンの娼人に手を出すからだ」という言葉がディックの脳内でぐるぐると回っていた。
 ブルードヘイブンに来たばかりのディックが知らない、殺人事件の調査を打ち切ってしまうような〈ルール〉。
 来て最初に説明された、レッドタウンの売春は取り締まれないという〈ルール〉。
 それらすべてがレッドタウンという、町の一部地域に関わっている。
 ロマノフが再びディックを見た。鋭い目つきだ。そうしてその目つきに似合った強い口調で後輩に語りかける。

「コイツみてぇになりたくなきゃ覚えとけ新人。レッドタウンは"聖域"だ。ありゃ娼人どもが作った奴らのための国だよ。文字通りの安息所ヘイブンだ。あそこに手ぇ出すやつは手ひどいしっぺ返しを食らう」

 先輩刑事と野次馬が同じことを言う意味。レッドタウンという地区は、ブルードヘイブンにおいて特別視されているようだ。
 売春がまかり通る犯罪通り。今後変えていかなければならないとは思っていたが、その魔手は思った以上に根深く、ブルードヘイブンの最深部まで食い込んでいるらしい。なにがレッドタウンにそこまでの力を与えてしまったのだろう。マフィアと警察の癒着だけでは、売春街がそこまでの権力を持てるはずもない。ほかになにか理由があるはずだ。
 ロマノフは今日、苛立っていなかった。
 いつも苛立っている彼にしては珍しい。そういえば娼人たちを取り調べた後も、彼は怒っていなかった。
 なぜ?

「ブルードヘイブンで一番強いのは、マフィアでも警官でも政治家でもねぇんだ。"レッドフードと配下のビッチども"……レッドタウンの娼人どもが、この街では一番強ぇのさ」

 答えを見つけられないまま、ディックは男の、警察の敗北宣言とも取れる言葉を聞いていた。

 レッドフード

 ゴッサムに住んでいたディックがまっさきに思い出すのは、街の犯罪者たちが作り上げた架空の怪人だが、この場合は違うだろう。
 昔娼婦が身分を証明するため赤い頭巾を被っていたという話にでも由来しているのかもしれない。
 捜査が打ち切られた事によって帰宅を余儀なくされたディックは、ロマノフの口からでた〈レッドフード〉という言葉を自力で調べることにした。
 ブルードヘイブンで長く暮らす人間にそれとなく訪ね、警察署の資料を検索すると、ものの一時間で一人の男に行き当たる。

 ジェイソン・ピーター・トッド

 彼には一度逮捕歴があり、詳細なパーソナルデータが警察署のデータベース内に保管されていた。すぐに釈放されているのは案の定といったところか。
 〈レッドフード〉は名を出さずに彼を呼称する暗号のようなもので、ジェイソン・トッド自身は逃げも隠れもせず高級男娼として今も客を取っている。
 ゴッサムのクライムアレイで生まれ、犯罪者だった父親が死んだ後、薬物中毒の母親を抱え、盗みなどの犯罪行為をくり返し生き抜いてきた少年。その犯罪行為の中には売春も含まれており、母親が死に十二歳頃活動拠点をブルードヘイブンに移してからは、天才的な頭脳とたぐいまれなカリスマ性で客からさまざまな技術や知識を学び、十五歳になる頃にはブルードヘイブンの売春市場を掌握。この時点で男娼をやめてもよかった筈だが、彼の支配はあくまで娼人たちの権利確保に留まった。
 どの街や国にも言えることだが、通常非合法の売春というのは非常に劣悪な環境下で行われ、時に娼婦や男娼は奴隷以下の扱いを受けることもある。ジェイソン・トッドがブルードヘイブンの売春市場を掌握したのは、おそらく娼人たちの扱いが暴虐を極めたからなのだろう。
 彼はブルードヘイブンの娼人を街の一角に集めて売春街〈レッドタウン〉を形成。娼人による娼人のための自警集団とシステムを構築した。
 この頃から町はレッドタウンを"娼人たちの聖域"とし、FBIですら手出しできない不可侵の領域が誕生したのだと思われる。
 過去にも、娼人を暴行したり殺したりした人間が、大けがを負ったり凄惨な死体となって発見される事件がいくつか起きており、その全てが捜査打ち切りの対応を取られている。すべての現場に《軽罪には軽罰を。極悪人には極刑を》というメッセージが残されていた記録があった。おそらくこれが、捜査をするなという〈レッドタウン〉からの通知なのだろう。
 軍隊のように統率の取れた娼人たちは、現状銃による武装や護身術によって悪質な客や凶悪な犯罪者から身を守り、それでも扱いきれない有事の際にはレッドフードの指揮の下、苛烈な方法でもって反撃し、自分たちの身を守っている。
 その行為を容認しているのが、ブルードヘイブンの権力者たちだ。
 警察・マフィア・政治家の主たる人物もほとんどレッドタウンの娼人と関係を持っており、それ故弱味を握られていると考えて間違いない。ジェイソン・トッドがこれほどの権力を手にしたのも、彼が男娼として権力者たちに近づき弱味を握ったからだ。FBIすらレッドタウンに手を出していないことを考えるに、彼の客はブルードヘイブンに留まらない。
 メトロポリス、ゴッサムシティ、あるいはワシントン――途方もない想像に、ディックは思わず身を震わせた。
 とにかく、ジェイソン・トッドという男の指揮の下、今回の殺人事件が行われたのは間違いないのだ。
 凄惨な男の死体。生きたまま切り刻まれた苦悶の表情。
 いくら娼婦を無残に殺したからといって、犯罪者を殺して良い理由にはならない。
 彼らの過剰防衛は目に余る。人を殺して良い正当な理由などこの世界に存在してはならないのに。
 
 彼と、話をしなければ。

 ジェイソン・ピーター・トッド。
 〈レッドタウン〉という"聖域"を作ってまで娼人たちを守ろうとする、春をひさぐ者たちにとっての王にして英雄。
 同時に、生きたまま男を切り刻む残虐な犯罪者。
 極端な二面性をもつこの男がいつか犯罪者の面に傾倒したならば、ブルードヘイブンはこの世の地獄と化すだろう。
 男娼の現在位置を調べたディックは、おもむろに服を脱ぎ捨て、警察のものとは違う"ユニフォーム"に身を包む。黒字に青いラインを引いたコンバットスーツは、すでにブルードヘイブン内で話題になっているヒーローのものだ。
 ナイトウイングと呼ばれる、町の守護天使。
 現れたのは最近であるものの、活動当初からめざましい活躍を見せた若いヒーローは、警察よりも市民に信頼され始めている。
 その正体が、ディック・グレイソン。
 ゴッサムシティでバットマンのサイドキックを務めていた元ロビン、元ボーイワンダー、元サーカスの花形スター。あらゆる経験を下地に日夜ブルードヘイブンを守らんと尽力する男だ。
 養父のバットマンとは意見の食い違いでコンビを解消しているものの、彼に教えられた戦闘技術や探偵術は、今でもヒーロー活動の基盤となっている。
 いつも通りドミノマスクで顔を隠し、ゴッサム時代から使っているグラップネルガンで空中へ躍り出ると、彼は慣れた様子で屋根から屋根へと飛び移り、目的地へと急いだ。
 レッドタウンの中央には、二百メートルほどの高さを誇る高層ビルが立っている。建設者の名を取ってヘガティ・タワーと呼ばれるそこは、表向きこそホテルであるが、実際にはレッドタウン一の高級娼館である。五つのレストランと二つのストリップバー、二つのカジノを有し、客室は全部で二百三十五室。その全てに男娼、あるいは娼婦がおり、部屋の値段はそのまま一夜あるいは一時の値段を示す。オプションはチェックアウトの際に追加で支払うシステムだ。
 現在のソドムとも言えるこの塔の最上階で、ジェイソン・トッドは客を取っていた。
 部屋の値段は約二万ドル。二百九十メートルもある部屋の値段を一万ドルと考えても、彼自身の値段も一万ドルはする。まさに高級男娼というわけだ。
 その高級男娼の住む部屋は屋上に排気ダクトがあり、配管がスイートルームまで繋がっている。タワーの屋上にたどり着いたナイトウイングは、ダクトのカバーを外して狭い配管の中に滑り込んだ。暗闇の中は埃っぽく、嫌な臭いがする。垂直に二メートルほど下りた後、真横に続く配管を暫く這いずっていくと、真下から光の漏れる場所があった。
 ダイニングルームがナイトウイングの足もとに広がっている。金網のカバーは少し力を入れて蹴り飛ばせば外れそうだったが、それでは音が出てしまう。持って来た工具で内側から留め具を外し、カバーを持ったまま音もなく床へ着地した。
 大きめのテーブルに金網を置く。そばに二つの椅子があり、左側がキッチンへと続いているようだ。真正面に歩いて行くとリビングルームにたどり着く。閑散として人の気配はないが、グランドピアノが部屋の奥に配置され、大きなガラス張りのローテーブルと、上品なワインレッドのソファが二席、間接照明に照らされていた。部屋をワインレッドとオフホワイトで統一しているのだろう。ソファの真横、目に優しい白いテーブルの上に、かすみ草とバラの花束が生けてある。
 この無駄に広いとしか言えないリビングルームを左に抜けるとエントランスだ。升目状に小さな絵画が並んだ壁が、淡い光に照らされている。そのまま通路を右に進んでバスルームを通り過ぎればベッドルーム。
 人の気配がする。
 素早く壁に背中をつけ、すぐに対応できるように背負ったエスクリマスティックに手を掛ける。そっと壁から顔を出して部屋を覗き込むと、その瞬間蕩けるようなバリトンボイスが彼の鼓膜を震わせた。

「予約もなしに男娼の部屋に来るなんざ、ヒーローってのは野暮なことをするんだな。客がいたらどうする気だったんだ」

 身体全体に緊張が走り、汗が噴き出す。石を丸呑みしたような衝撃とともに、ナイトウイングはワインレッドのシーツに沈む男を見た。

「……君が、ジェイソン・トッドか?」

 男は服を纏っていなかった。空調は完璧なため、肌寒さを感じないのだろう。鍛えられた体に、理想的な筋肉がついている。その上、動きにも所作にも隙がない。相当の戦闘訓練をしているはずだ。おそらく実力はナイトウイングと同等。身長も同じくらいに思えたが、相手が座っているため正確なところはわからない。
 体格は相手のほうが恵まれているように思えた。ナイトウイングはアクロバティックな戦い方を得意とするが、おそらくジェイソン・トッドは近接戦闘に長けている。ハードパンチャーのボクサーを思わせる体格だ。
 とても男娼とは思えない体つきだったが、それでも彼が高級男娼だという事実を疑わない自分に、ナイトウイングは今日一番の驚きを味わっていた。
 理想的な形でついた筋肉も高い身長も、太い眉や逞しい首筋すら彼の色香を損なうことはない。黒髪は薄明かりの中でも濡れたように輝き、白い額の上をサラサラと流れていく。太く凜々しい眉の下で、長い睫毛に彩られたアイスブルーの瞳が笑みの形を作っていた。赤い唇は半月型の弧を描き、隙間から真っ白な歯が少しだけ覗いている。
 淫靡な空気を纏うレッドタウンの王者が、赤いシーツの海からナイトウイングを優しげに、気だるげに見据えていた。体格も身長も生来の男らしさもかき消すほどの色香は、おそらくその身に染みついた所作によるところが大きい。しなる指先と穏やかな笑みは否応なく人の視線を引きつける。
 そしてなにより、白い裸体に纏う空気そのものが人の劣情を強く煽っていた。
 なるほど、これならば権力者たちを支配下に置き、弱味を握って傀儡にすることも可能だろう。
 男女や"役割"の別なく相手をするという彼は、その名に違わぬ高級男娼。アメリカ一の売春街を作った夜の王者だ。
 小首を傾げる仕草すら妙に色っぽい。

「俺みたいなのが高級男娼で、意外か?」

「いいや」

 ナイトウイングがゆっくりと首を横に振る。すると男は笑顔のまま

「そうか」

 とだけ短く答えた。突然の侵入者にうろたえる様子も怒る様子も見せず、当然の権利のようにベッドへ腰掛ける姿はまさに王者というに相応しい。
 彼はナイトウイングを前にしてもまったく動じなかったが、かわりにエントランスのドアが乱暴に開き、バタバタと騒がしい足音がした。

「侵入者だ!」「フード! 無事!?」「そこを一歩も動くな!」「動いたら撃つわよ!」

 ナイトウイングが異常に気がついた時には、すでに背後を十人あまりの男女が包囲し、いくつもの銃口がナイトウイングに向けられていた。全員が下着姿なので、ヘガティ・タワーの娼人たちだろう。
 女と見紛う金髪の美青年が、ナイトウイングの後頭部に銃をつきつけた。

「フードに何の用だ、ナイトウイング」

 撃鉄を起こす音。彼らは全員、王に刃向かう男に対して並々ならぬ敵意を抱いているようだ。よく訓練された動きは、おそらく〈レッドフード〉ことジェイソン・トッドの指導によるもの。
 誰にも傷つけられることのないよう、娼人たちが自らの意思で選んだ自己防衛手段。
 静かに両手をあげたナイトウイングは、真正面でベッドに座る裸体の男が、笑みを浮かべたまま片手を上げる様を黙って見ているしかできなかった。
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美しくなんて死ねると思うな