儿化

 ウィンターカップ開会式にして霧崎の初戦。

「ユーキチャン生きてるー? 吐く? 吐いちゃう? リバース? 古橋がアップしてんよ?」
「任せろ種田」
「外……出る」
「え、ちょ、種田落ち着け、とりあえず吐くなら便所で吐け「外で出すんじゃなくて、外に出るでしょ」
「ヤマ……まずお前が落ち着け。康次郎もだ」

 会場まで霧崎所有のバスで来たのだが酔ってしまった。更に人の多さに追撃を受けグロッキー状態。捻挫はとっくに直ったが、一年の私は残念ながら未だベンチに入れて貰えない、開会式は選手さえいれば良いだろうと皆に頭を下げて外へ出た。
 人の居ない裏口近く、キンと凍る冷たい空気は吐き気を少しずつ治めてくれた。だいぶ楽になり、そろそろ戻ろうかと悩み始めた時だった。

「wo ri ni!(くそっ!)」

 聞き覚えのあるイントネーションに顔を上げると、苛ついた様子の長身の男が居た。菖蒲色と白のジャージは確か全国区の強豪の……ジャージの文字が見える、そうだ陽泉ようせん高校。開会式は良いのだろうかとぼんやり眺めていると、きょろきょろしてもう一度言葉を吐き捨てた。流暢な悪態は、マジバ店長のバスケ仲間にして私の現在の護身術師匠、中国人のサチマが吐くものとそっくりだ。もしかして中国人留学生かな。

「Ni hao. あー……Ni……shuo Riyu えと Yingyu?(こんにちは。君……日本語、英語、話す?)」
「Shi(あぁ)、日本語イケる」
「道に迷いましたか?」
「そうアル」
「そう有る?」
「そうアル、迷子アルよ……多分バス忘れる物探しに来た、迷ったアル」
「迷ったアルか?」
「そうアル」
「アルアル?」
「有るアル?」
「かっ、」
「か?」
「可愛い……!」

 ぽかんとする彼。なんなんだ、語尾全部にアルを付けるのが可愛くて堪らない。すごく背が高くてスッてしてるのにアルアル言ってる、可愛い。はしゃぐ私に対し、バカ日本人、だとかそういう侮辱する呟きを溢す。「美眉メイメイなのにそういう事言っちゃだめ」「それは女を可愛いと言う時に使う言葉アル」無表情にちょんとチョップをされた。なんだか少し康くんに似ている。黒目が大きく、墨色のそれは温度が感じられず冷たい。菖蒲色のユニフォームも似合っている、グレー系とピンク系って相性良いよね。

「アルアルはもうバス行ったアルか?」
「アルアルじゃないアル、劉偉リュウウェイ。バスはまだ行けない」
「りゅーうぇい、陽泉のバスへごーりゅーうぇい!」
「ウーイェイ、みたいなノリで言うな。劉、偉」

 またチョップされる。でもそれはやはり、かなり軽い当てるだけのチョップだ。劉偉は優しいっぽい。

「ノリが良いね、Liu Wei xiansheng(劉偉さん)」
「改まらなくて良いアル。陽泉のバス解るか?」
「じゃぁ劉劉りゅうりゅう? 名前を重ねるんだっけ、偉偉うぇいうぇい? 陽泉のは解んないけど、バスの駐車場は解るアルよ」
「……もうどっちでも良いアル、早く案内アル」
「meng meng da(ほんと可愛い)」

 中国語が解るのかと訊かれて、知り合いに中国人がいると説明する。サチマとは護身術だけでなくストバスもするが、彼はゲームになるとつい悪態やスラングを吐いてしまう。それを少しだけ覚えてしまった。「中国人だからってサチマはないアル」だが名前を中々覚えられないのだ、仕方ない。無いのか有りなのか。ないある。因にサチマは中国のお菓子、もの凄く甘くて美味しいアル。
 歳が同じだと聞いてなんとなく納得するが、彼の方は私は兄の応援に来た妹だと思っていたらしく酷く驚かれた。まぁ身長差凄いもんな。「150cm、劉劉は?」「2mくらいあるアルよ」アルアルよって可愛い。バスケ留学は技術は勿論、身長のお陰だろうか。私も選手だと言うと心底弱そうだと言われてしまった。酷いな、確かにウィンターカップは予選決勝リーグ敗退だったけど。
 劉劉は随分率直で淡々としていて話していて楽だ。「いつか会場一緒だったら観に来てよ」来年の夏男女同じ会場なら、また陽泉が全国に来たら。次の大会は頑張ろう。2mの彼は驚くだろうか? 少し楽しみだ。
 駐車場で無事陽泉のバスを見付けて劉劉が入って行く。戻って来た彼は何も持っていない。

「あった? 大丈夫?」
「……コレ」

 迷った末に見せられたのは小さなお守りだった。不格好なそれは母国で暮らす弟達が作ってくれたそうだ。眩しい気がして目を細めると、バカにしたように見えたのか頭をガシリと強く掴まれる。違うのだと、羨ましいのだと言うと手を離された。「私家族居ないから。似たようなのは居るけど」初対面だからこそ言えるってやつだと思う。「居るけど居ない? 似た? 変アル」そして変だとバッサリ切る劉劉。淡白だ、悪くない。冷たい墨色はその感情を変えなかった。
 開会式が終わったのか会場は人でごった返していた。「じゃぁね劉劉!」ここまで来れば大丈夫だろうと、そろそろ霧崎は試合だと、挨拶もおざなりに控室へ急ぐ。後ろで何か言っていたが雑音でよく聞こえなかった。






 無事に勝って翌日、今日は霧崎は試合が無い。レギュラーは偵察込みの試合観戦、それ以外はマネも含め自由だ。私は実渕さんの試合を久しぶりに観戦しようと着いて来た。
 洛山の試合は本当に驚いた。実渕さんを含め『無冠の五将』が三人も揃っていたのである。そういえば同じ高校だと言っていた気がする。『無冠』は全員一年、洛山は実力で評価する良い監督なんだろう……うちの監督がおかしいだけか。
 実渕さんは今日も美人で可愛いかった。優雅なシュートフォームや身のこなし。3Pのフェイダウェイ、私のようにただただ遠くへ飛び退くのでは無い、絶妙な距離感。あれは彼女の体格を考慮してだから背の低い私は今のままで良いかもしれないが、頂けるモノは頂こうと目を凝らす。金髪猫さんのキレのあるクロスオーバーも良い、足腰もっと鍛えよう。え? マッスル? あぁ足腰鍛える時にマッスルって叫ぶよ、そうする。

「待つアル!」

 洛山戦を見終わり廊下を歩いていると、可愛い叫びと共に肩を叩かれた。アルアルだ。「Ni hao、今日もmei meiアルな」昨日と同じくチョップをかまされていると、急に走るなと心配するような声が飛んで来た。

「Menre si le……zhu tou(暑苦しくて堪らない……おバカ)」
「zhu tou? ……sha zi ma?(おばか? ……馬鹿野郎じゃなくて?)」
「cao! Bi zhe geng zhongyao,(ッ! そんなことより、)」
「ストップストップ、私チャイ語解んないよ」

 チームメイトを罵っていた様子だが親しみはあるのだろう。もっとキツい罵倒はしないのかと茶化せば、図星だったらしいアルアルは決まり悪そうに悪態をつき、スラスラ中国語を話し出した。感情が先走ったのだろうが、残念ながら私にはさっぱり解らない。「汚い言葉は知ってるのにか? ……アル」はっとしたアルアルは後ろ頭を掻く。うん、ごめん。そして付け足したアルが最高に可愛い。可愛いかわいいとはしゃぐ横、殆どの人は横目で通り過ぎたが、大きくゴツい人とはしばみ色の髪の人がぽかんとしているのでジャージを引っ張って劉劉を促す。気にするなと言われた。

「昨日なんで急に走る行ったアルか?」
「開会式の後すぐ試合だったから」
「そうか、驚いたアル。小さいからあんな人混み潰れるアルよ」
「アルアルがおっきいだけで私は小さくないアルよ、これ日本の常識」
「アルアル違う、劉偉。お前忘れるアルか?」
「お前違う、種田結希。りゅーうぇい! 思い出した、劉劉」

 りゅーうぇい! と突き上げた拳はペシリと叩き落とされる。

「種田結希? んー……結希、小……小小シャオシャオで良いアル。名前を重ねるダロ?」


 小(xiao)──小さい、そのままの意味だ。中国の愛称は一文字取って阿や小を付けたり重ねると劉劉は勿論知っているはずなのに、なぜか小を重ねてドヤ顔された。いや違うでしょ。お返しに肩をチョップしているとはっとした榛色の人が来た。「なんだよ劉ナンパ成功か? 余裕かよ」「ナンパ?」首を傾げる劉劉へ滅茶苦茶なナンパの意味を教える彼を制して、代わりに昨日の事を話す。

「アルアルってなんだべ? 可愛い?」
「べ?」

 アルアル言うのが可愛いのだと説明すると、彼はほほぅと顎に手を添えニヤリと笑った。アルを付けるよう嘘を言ったのは彼── 福井フクイ健介ケンスケさんの仕業らしい。「福井さん大義です」ナイスとサムズアップで褒めると、有り難き幸せと返された。なんてか陽泉の人はノリが良い。何故か泣いている大きな人はこちらに話かけようとしていたが「アゴリラキモイ」と劉劉に邪魔されていた。

「てか俺には敬語なんだな」
「先輩っぽい雰囲気ですから」
「おーそう見えるか、大義だ」
「有り難き幸せ」
「はは、劉にはガンガンタメ口なのにな。あいつでけーのに」
「劉劉は同い年」
「は……?」
「ん?」

 目が点になった福井さんに首を傾げていると、陽泉の監督らしき彼らを呼ぶ声が聞こえた。「では失礼します、長々と申し訳有りませんでした」頭を下げて大きな人と戯れる劉劉に手を振る。陽泉のスケジュールはどうなっているだろうか。後で確認しよう、劉劉はバスケ留学だから試合に出るだろうしちょっと見たい。

「結希! 久しぶりね!」
「おぅふ、実渕さん試合お疲れさま」

 控え室の方向から実渕さんが来た。今から試合観戦らしい。仲が良いのか『無冠』の三人が揃っている。「このチビ『死篭』だっけか?」「おいマッスル」取り敢えずマッスルにイラッとくる。実渕さんが私には小さい事も肩書きも禁句だと説明する横、金髪猫さんが興味津々にぴょんぴょん跳ねている。にゃんこ。

「レオ姉の友達?」
「れおねぇ?」
「実渕の事!」

 おぉそれすっごく良いあだ名。
 そういえば実渕さんは友達だと思っていたのだ。実渕さんに私も玲央ねぇと呼ぶと宣言すると彼女はとても喜んでいた。可愛い、マッスルで荒んだ心が癒される。試合を褒めていると「そうだわ、」と彼女は二人を列ばせた。

「洛山のチームメイトよ、同じ、残念だけど『無冠』のね……って事くらいは、結希でも知ってるわよね?」

 金髪猫さんが『雷獣らいじゅう葉山ハヤマ小太郎コタロウ、マッスルは『剛力ごうりき根武谷ネブヤ栄吉エイキチ。獣っていうかにゃんこ。マッスルはもうマッスルで良いよ、玲央ねぇもそう言ったし。彼らを名前で呼ぶ玲央ねぇは本当に仲が良いのだろう、にこにこしている。可愛い。一緒に試合観戦をするかと聞かれるが、先程から携帯のバイブが止まらない。きっとまこちゃんだ。断って、また都合が合えば応援すると言って別れた。






 霧崎は二回戦で負けてしまった。敗因は明らかに監督の人選ミス。インハイ予選程の失敗はしていないが、それでも彼はまこちゃんをフル出場させなかった。秋の予選からずっとそうだ、ハーフタイムでまこちゃんの出番は終わる。まこちゃんは大して心が動かなかったのか、負けるかどうか微妙なラインだったからか、大きなラフプレーもなく先輩達が普通に負けて終わった……大きな、と言うだけで小さなものはあったけど。
 翌日、完全にオフになった私は陽泉の試合を見ようと会場を訪れた。もしアルアルに会えたら差し入れしようとレモンゼリーを少し持って来ている。昨日の試合観戦の消化不良でもやもやしていたし、差し入れ用のレモンが余っていたので作ったのだ。試合前は会えなかった……アドレス聞いておけば良かったな。
 陽泉の試合はかなり迫力があった。背の高い選手が多く守りが固い。バスケ留学のアルアルは勿論スタメン、更に前に話した榛色の髪の人と大きな人もスタメンだった。長身のチームメイトに囲まれ榛色の人が少し小さく見える。相手チームは縦に速攻をかけているが殆ど意味はなしていない。満足そうに見つめる監督は女性だ。彼女も陽泉のスタメンと同じく女性にしては背が高い、黒髪の美しい人……なんか竹刀持ってるけど。

(あ、れ……?)

 何処で見たのか、記憶の片隅にある知らない誰かとダブる。黒いポニーテールを揺らす美人な選手……きっと前の記憶──記憶を無くす前のものだ、喉に小骨が刺さったような違和感があった。

(きもちわるい……)

 監督から目を逸らすと、丁度アルアルがリバウンド勝負になっていた。頑張れ、口の中で呟く。難なくボールを勝ち取り、コートは陽泉オフェンスへと一気に動く。背が高いのでど迫力だ。
 陽泉は大差で勝利した。勝って当然なのか大して喜んでいないチームメイト、首を回しながらとぼとぼベンチへ戻る彼に叫ぶ。

「Gongxi gongxi!(おめでと!)」

 あまり大きな声は出なかったが、チャイ語のそれはちゃんと届いたようだ。驚いている様子のアルアルに手を振って、レモンゼリーの入った箱を掲げて指す。上手く伝わったか解らないが緩く手を振り返してくれた。
 観戦席を立ち、昨日会った廊下の近くのソファーに座る。ここなら会える、かもしれない。じっと待って一試合分と半分くらいか、やはりもう帰ってしまおうかと考えていると菖蒲色と白のジャージ集団が通りがかった。良かった。きょろきょろしているアルアルに声を掛け、物陰から小さく手招きして呼ぶと、ニヤニヤする榛色の人と相変わらず泣いている大きな人も着いて来た。

「アルアル、おめでと」
「謝謝……だから、劉、偉。小小見たアルか?」
「そうだ劉劉アル。うん、劉劉リバウンドに強いね。陽泉は大きい人が多くて迫力ある、空中戦挑むとかなり厳しそう」
「福井は小さいアルよ。小小はどんな相手でも負けるアル」
「おい劉ぶん殴るぞ。いつも言ってっけど俺の身長は日本人の平均だ、平 均 !」
「そんな事言うならこれあげないよ」
「何アルか?」
「レモンゼリー。うちは昨日負けたから腹いせに作った、お裾分け」

 そうそう、榛色の人は福井さん。彼は身長にコンプレックスがありそうだ。これだけ大きなチームメイトに囲まれれば仕方無いだろう。負けそうと言った劉劉に軽くチョップしてレモンゼリーを渡す。「数少ないからこっそり食べて」箱を開けた劉劉の手元を福井さんと大きな人が覗き込む。手作りだが変な物は入れていない、気になるなら毒味すると伝えると、福井さんが微妙な顔をした。「変な物ってなんだ?」モテる友人が毛髪やおまじないのメモ入りチョコを貰った話をすると遠い目をしていた。福井さんも経験が有るのだろうか。因にモテる友人は勿論まこちゃんだ。
 と、ガシリと大きな人が大きな両手で私の両手を掴んだ。

「明日も陽泉は試合なんじゃ! 差し入れしてくれんか!?」
「じゃ? なんで?」
「ウチはマネージャーが居らんから、女子マネの差し入れは憧れなんじゃ〜!」
「アゴリラキモイアル」

 アゴリラと呼ばれた彼は岡村オカムラ健一ケンイチさんと言うらしい。顎+ゴリラでアゴリラ。ゴリラかな、解るような解らないような。もう陽泉の試合は見たから良いんだけど、と思いながらどうしようと劉劉を見ると、彼は既にレモンゼリーに取りかかっていた。福井さんはと言うとこちらを見て考え込んでいる。

「お前岡村にビビんねぇとか肝座ってんな」
「ビビる? なんで?」
「でかいから、顔が。ゴツいから、顔が。まぁ身長もだけんど。怖くねぇの?」
「なんで顔ばっかり!?」
「顔? 怖くない、それより有利そうですよね。大は小を兼ねると言うか、私はパワー勝負が出来ないし簡単に弾かれるのでそういう点では惹かれます」

 プレイスタイルを曲げる気は無いが、荒っぽいスクリーンを掛けられたくらいで押し負けるフィジカルには少し困りものだ。勝敗に興味が無いとは言えがんがん弾かれるのは鬱陶しい。岡村さんは私の答えに喜んだようで、掴んだ手を縦にぶんぶん振る。やめて千切れる。

「そう言やお前高一なんだよな……その身長で。マジで? 中坊じゃなくて?」
「まじで高一です。福井さんは劉劉の先輩なんですよね……その身長で。実は同じ高一だったり、」
「悪かったからやめろ。私はパワー勝負出来ないって、お前もバスケやってんのか?」
「はい」
「言っちゃなんだけんど……弱そうだな」
「酷いな。これでも月バス──……」
「お前ら何チンタラしてやがる!」

 ──載りましたよ。ちょっと悔しくなったのでそう言おうとした時、女性の怒鳴り声が響いた。陽泉の監督さんだ。差し入れを貰っていたと劉劉が説明する。「あの時劉に声を掛けていた子か」どうやら監督さんも聞こえていたらしい。福井さんが開会式に迷子の劉劉を案内した人物だと話している最中、彼女はじっとこちらを見ていた。私もなんだか目が離せず見返す。喉の、小骨……あ、

荒木アラキ、選手……?」

 ぽつりと溢れた言葉に他の三人が一斉にこちらを見る。そうだ。何処で見たのかまでは覚えていないが、彼女は元日本代表の荒木選手だ。「監督って選手だったんか!?」「知らなかったのかよ」岡村さんが大げさに驚くのを福井さんが窘める。劉劉も知っていたのか、彼の興味はすぐレモンゼリーに戻っていった。口に合ったようでなにより。

「やっぱり! もしかして種田さんの娘さんか!?」
「え…………えと、種田……結希です」
「そうか! 結希……あぁそうだ、結希だったな」

 失敗した、懐かしそうにゆるりと細められた目に居心地が悪くなる。

「大きくなったな」
「……は、い」

 どうしよう。前の記憶の知人、しかも私が記憶喪失だと知らない人となると初めてだ。前と違うとなったらこの人は落胆する? 怒る? 悲しむ? どれ? どう対応するのが正解だろう。いつ頃会った、どれくらい話をした、どんな話をした、『種田さん』は父と母どちらを指している、あぁどうすれば良い──……
 自然と下がってゆく視線、彼女の足元を見ていると劉劉が二人とも座ればとソファーの端に寄った。その声に思考の渦から脱する。「福井も岡村も帰れば? ……アル」もしかしたら、家族が居ないと言った事を覚えていたのかもしれない。優しいな。だが彼らとも話の途中だった、なんとか大丈夫とだけ口にする。

「まさか覚えてくれているとはな……本当に大きくなった」

 柔らかな声は忘れていても無理は無いのだと伝えた。ほっとして詰めていた息を、バレないように細く吐く。
 種田さん──私の母は荒木選手が所属していた会社のトレーナーだったらしい。母もバスケをやっていて上手かったそうだ。だが背が低く勝負事が苦手な母は、常々トレーナーが性に合っていると言っていたと。私が小さな頃、職場の保育所に連れて来ていたらしい。母と揃いの色を持った娘。休憩の合間に母が私の様子を見に行くのに、仲の良い荒木選手はたまに着いて行っていたそうだ。

「荒木が言えなくて、選手が名前だと思ってよく呼んでいた。会う度に雅子マサコだと教えて。懐かしいな」
「小小は物覚え悪いアル。劉偉と何度も言ったアル」
「種田さんもそういう所があったな。目元がそっくりだ」

“──荒木だ、荒木雅子。あ ら き ま さ こ だぞ、チビ”

 声が聞こえる。それにつられて映像も。どこかの託児ルーム、柵越しに抱き上げられる。変わらず美しい荒木選手の顔に、黒いポニーテールの少し若い彼女がダブる。知っている、私はこの人を知っている。一切思い出せなかった記憶、その瞬間だけがぶわっと蘇った。

「あーき、ちゃん、せんしゅ……?」
「はは、そうそう……荒木だ、荒木雅子。あ ら き ま さ こ だぞ、チビ」
「あらき、まさこ、さん」

 じゃぁその横、私と同じ髪の色の、穏やかに笑う女性は──……

「──おかーさ、ん」

 小さな小さな呟きが聞こえたのだろう。荒木選手はいつの間にか流れていた一雫の涙をそっと拭って、優しく私の頭を撫でてくれた。眉を下げ儚気に微笑む彼女はきっと知っているのだ、母が既にこの世に居ないと。続いて蘇る、テレビに映るユニフォーム姿の荒木選手を指す母の笑顔。
 位置的に劉劉、福井さんと岡本さんは涙に気付かなかったと思う。「へー知り合いだったのか」「すごい偶然じゃな!」暢気な会話が聞こえる。お前はバスケをやっているのかと聞かれ一応と答える。すると「あ!」と大きな声を上げて岡村さんが私達の前にしゃがんだ。

「そうじゃ差し入れ! 監督! 種田さんに差し入れ頼んでたんです!」
「岡村……種田さんとこのチビの迷惑を考えろ」
「……いやあの、名前で、結希でお願いします」
「はは、すまん。それもそうだな」
「ワタシも頼むアル。旨かった、謝謝」
「お前一人で全部食ったのかよ! 四つあっただろ四つ!」

 ぺろりと平らげた劉劉が後ろからぽんぽんと頭を撫でる。振り向くとその目は心無しかキラキラしていた。作って? ってか。可愛いな。

「良いですよ、劉劉も言ってるし、荒木選手にはご恩も有りますし」
「今は荒木 監 督 だ。恩?」
「大事な事を、思い出せたので……岡村さん、差し入れは何かリクエストとかありますか?」
「やった、有難うな! やはりここは定番のレモンの蜂蜜漬けで頼む!」
「うわぁ岡村、ちょっとキメェわ」

 大事な事……私の家には母の写真が無い。父は全て処分したのだろう。一度探しまわったが遺品は有れど写真は何処にも無かった。絶縁関係だった祖父母が写真を持っている筈も無く、一枚だけ、彼が肌身離さず持っていたと思われる家族写真は、事故の血で汚れてよく解らなかった。だから私は荒木監督のお陰で、初めて母の顔を知る事が出来たのだ。死んでいてもどうでも良いと思っていた、それでも……蘇れば大切な記憶だったと気付いた。
 初めて思い出した、思い出せた。私の、前の記憶。

 荒木監督から交通費を渡された。断って結局握らされた多めのそれは、差し入れの材料費が含まれていると言う。そう言えばバスを待たせていたのだと、はっとした荒木監督に急かされ三人が急ぐ。私はちょっと待ったと劉劉を呼び止めた。アドレスを教えてもらわないと、明日連絡出来無いと困る。だが劉劉はスマホで、赤外線交換が出来なかった。手打ちしている時間はあるだろうかと一瞬悩んだ末に、胸元に刺した万年筆を取り出す。メモ帳くらい持ってくれば良かった。

「手! 劉劉手出して、紙ない!」
「?」

 大きな掌に短い私のアドレスを書く。こしょばいのか指がぷるぷる動くのを我慢してもらい、じゃぁ連絡してねと手を振ると彼は私の頭を一撫でして、

「もう泣くな」

 と走って行った。気付いていたのか、あの時は何も言わなかったのに。その劉劉の優しさに、母の顔を思い出し湧いたない交ぜの感情に、思い出したという事実に、またひっそりと涙が零れかけた。



 ∇ ∇ ∇



「劉おっせーぞ!」
「仕方無いアル」
「種田さんと何話しとったんじゃ!」
「連絡先。知らないと明日困るアル」
「狡いぞ! 脈アリか、脈アリなんか!? 結局顔なんか〜!!!」
「アゴリラ煩ぇよ。まぁ確かに一日二日会った相手に差し入れとはなぁ……にこりとも笑わねかったけんど」
「お前ら騒がしいぞ! ……種田さんの娘なら下心は無いだろう、あの人はそういう事にかなり疎かったからな」
「『腹いせにいっぱい作った』言ったアル。無いアル」
「思い出すな……私達に菓子を作ってきて、ついでと周りに配って。気を持った男性社員に迫られたのを助ければ『荒木ちゃん、彼なんて名前だっけ?』なんてザラにあったな」
「そうか安心した! ワシにビビらん女子なんか滅多に居らんから、貴重な女子が劉に取られんで良かったのぉ」
「例えビビらなくてもアゴリラになんか惚れないから安心しろアル」
「例えビビらなくてもアゴリラになんか惚れる女子は存在しないから安心しろ」
「酷い! なんで同じような事二回も言った!?」
「で、劉は掌熱心に見てどしたんだべ?」
「ッ! 何もないアル!」
「無視!?」
「ほぅ、気になるじゃねぇか。おいコラ隠すな、っ……は? アドレス? 手に書いたのか?」
「紙と時間無いから勝手に書いたアル」
「なんか青春っぽいな……ほら俺にも教えろ」
「断る」
「アル付けろ真顔怖ぇよ、そして教えろ」
「断る!」
「良いだろ、見せろよ! ん? 岡村なんだべ急に黙って」
「い、いや……恋愛小説みたいで……羨ましい……」
「「アゴリラキメェ/キモいアル」」
「劉、種田さんの娘を泣かせたら殺すからな」
「監督は泣かせた癖に、」
「ぁあ゛? 何か言ったかコラ!?」
「イエナニモアリマセン……あ」
「ちょい貸せ……『チャイ語文字解んない。劉劉頑張れアル』だってよ。『結希ちゃんのために頑張るアル』はぁと」
「福井返せアル!」
「岡村パス」
「え!? お、おぉ」
「アゴリラ返せ!」
「劉落ち着けって、走行中に席立つと日本では捕まるべ」
「あっ、返信来たぞ」
「読み上げろ」
「『誰?』じゃと」
「なんでバレたんだ……『結希ちゃんの劉劉アル』って返して」
「任せろ。劉、日頃の恨みここで晴ら……す事になるのか? まぁ良い、ワシはゴリラじゃない!」
「そうアル、ゴリラじゃないアゴリラアル! モミアゴリラ!」
「劉マジ落ち着け、自分のサイズ考えろ。暴れんな」
「『少来』? 中国語か? あとまた『誰?』じゃと」
「『笑わせるなアゴリラお前誰だ携帯返せ』って意味アル!」
「絶対違うだろ。なんでバレんだ? ……そういやお前変な呼び方してたな、なんだっけ」
「『しゃおしゃお』じゃなかったか?」
「シャオって小か? 劉ヒデーな」
「……小小で良いアル」





小小[xiaoxiao]形容詞
(面積・体積・程度・年齢について、時に親しみをこめ可愛がって言う場合の)ごく小さい、ごくわずかである、年行かない
出典:白水社中国語辞典

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