積み上げられたパイプ椅子やグリーンシート、入学式の後が残る体育館。業者の片付けが押しているらしい。
「ピアノが気になるのか」
まだまだ掛かりそうだと様子を眺めていると康くんに声を掛けられた。いつもはステージ袖、見えるか見えないかの位置に置かれたピアノが今日はステージの左に出ている。式で使ったのだろう、明日も始業式で校歌斉唱があるため出しっ放しだ。
「……見てた?」
「ずっと見ていたぞ。好きなのか?」
家に行った時もピアノジャズを流していたと続けられ、そうだったなと思い出す。「聴くのは嫌いじゃないよ」「聴くのは」「うん」弾くのはあまり好きでは無い。家にはピアノや沢山の楽譜、ピアノ教室に通っていた痕跡があった。だから弾いてみた。それなりに弾けた。だけどなんだか変な感じがするのだ。胃の辺り、不快感のようなものが渦巻く。きっと前は嫌いだったのだろう。それからは殆ど弾いていない。一曲だけ、気が向いたら稀に弾くくらいだ。
「学祭の時、機会があったら聴きたいと言っていたな」
「うん。生音はやっぱり良いし、康くん上手かったから……私にはあんな音出せない」
「……そうか。どうせ練習開始はまだ先だろ、弾いてやろうか?」
少し得意げな声で言われて、やったーと両手を上げてお願いした。勝手に弾いても……良いよね。ステージの片付けは済んでいるし、体育館内には業者と、空いたスペースに座り込んで談笑する数人の部員しか居ない。
「康くんは今もピアノしてる?」
「去年、高校に入って忙しくなったから辞めた。最初は妹に巻き込まれたんだが……音楽会や合唱コンクールなんかがあるだろ? 俺は歌うのが好きじゃないから、逃げる口実に丁度良かったよ」
「なるほど」
「お前はどうなんだ?」
「……数年前に齧っただけ」
片付ける業者の間を縫ってステージへ上がる。「Stravinskyの『ペトルーシュカ』弾いて。『火の鳥』でも良いよ」「無理難題を言うな」「冗談だよ」むっとした康くんに笑いながら、折角だからと蓋を開けた。
「お前から弾けよ」
「はい?」
椅子を指しながら言われて聞き返す。「冗談でそんなものが上がるなら齧っただけじゃないだろ?」確かにそうだ。ある程度弾いていたり知識が無ければ、作曲家名は出無いし、その曲がとても難しいと解らないだろう。先程の冗談は失敗だったようだ、思わず眉間に皺が寄る。下手だ、弾くのは好きでは無い、そう言ってもなんでも良いからと康くんは譲らなかった。「イーブンだろ。そうだな、ストラヴィンスキーは無理だが弾いてくれるなら出来る限りリクエストに答えよう」「はぁ、そうだね……」諦めて準備する。最後に弾いたのは学祭一日目の夜、康くんの伴奏を聴いて触発された。彼のようには、出来なかったけど。
「下手だし、間違えても笑わないでね」
ペダルに足を、鍵盤に手を置いて一度目を閉じる。やっぱり変な感じだな、溜息を吐いて瞼を上げ一音目を鳴らした。
∇ ∇ ∇
弾くとなったからには真面目にやるらしい、椅子の高さを調節した種田はペダルを確かめ指の運動をしている。
撤収が済んでいないと聞いてゆっくり着替え、今日は少し寒いなと密集する部員がむさ苦しく不快で早々と体育館へ向かうと、入り口で種田が立ち尽くしていた。心ここに在らずといった様子の彼女の視線を辿ると、式典で使われただろうグランドピアノ。好きか問えば、少し眉を寄せ「聴くのは」と答える。前に齧っただけと言っていたし殆ど弾けないのか。だがその考えは「あんな 音 出せない」という言葉に否定された。更に弾いて欲しいと上げた曲は超絶技巧。弾けない、ある程度弾ける、どころか多分かなり弾けるだろう。本当に齧っただけなら音色まで考えないし、冗談でももっと一般的で有名な曲を上げる筈だ。
どれくらい弾けるのか興味が湧いて弾くよう頼むと種田は珍しくかなり嫌がった。それでも押しに弱い彼女は、こちらが引かなければ渋々準備し始める。嫌だ、弾かない、とハッキリ拒絶の言葉を吐けば良いのに出来無いらしい……まぁ例え言われても弾けと言い続けたので結果は同じなのだが。
「下手だし、間違えても笑わないでね」
「あぁ」
準備が終わったらしい。椅子に座る種田の顔は、真剣、と言うより無表情に磨きがかかっている。本当に弾くのは好きでは無いらしい。そっと鍵盤に置かれた手は、身長と性別の割りに大きい。バスケにも向いているが、ピアノにも向いているだろう。
「……どならないで、ぶたないで」
は……?
疑問の言葉も、肯定や否定の返事もする前に種田は弾き始めた。誰に言うでも無いような懇願。雑音にかき消される程小さな声だったが、確かに彼女は言った。体罰の酷いピアノ教室にでも通っていたのだろうか? それで嫌なのか? 指導者が厳し過ぎてそれ自体を嫌いになるのはよくある話だ。しかし……普段花宮に手酷く扱われても平然としているのに。ちらりと先日開けたピアスが見えた。多分、と言うか絶対Mなのにな、お前。それとこれとは別問題だけど。
ぱらぱらと細かい音が鳴り出し、一瞬体育館内が静かになる。振り返ると、作業に戻る業者とこちらに注目する部員が見えた。次第に音が増える、降りそそぐ少し不穏な音の粒の連打。Debussy作曲『雨の庭』。辞める前の発表会、最後だから難易度の高い曲をと講師が幾つか選んだ中、譜読みの段階で俺には無理だと外した曲だ。上手い。齧っただけとよく言えたものだ。しかも数年前にと言っていた、その頃既に弾けていたのだろうか。多分譜面通り、今の所下手でも間違えてもいない。そして、
(恐ろしく機械的だな……まるで自動演奏みたいだ)
適当に弾いている印象は無いが、情景描写や感情表現だとか、そういったモノが一切感じられない。体の揺れも無く、ただ腕と指が動くだけ。無表情はほんの少し眉間に皺を刻んでいる。
俺は別にピアノが特別好きでもなんでも無い、年数が二桁に達したと同時に教室を辞めたアマチュアにも満たない人間だ。聴き比べなんて出来ない。同じ曲でも奏者によって何処か雰囲気が違うな、くらいしか解らない。それでも種田の演奏の特異さは明確に解る。“──私にはあんな音出せない”か。逆に俺も、そしてプロさえも、お前のような音を出すのは難しいと思うぞ。
「上手いな。譜読みした事があるが、覚えている限り正確無比だ」
「はは、それだけだよ。それしかない……機械みたいでしょ」
褒めたつもりの言葉に、種田は苦い顔で力無く声だけで笑い、鳩尾の辺りを押し付けるように撫でる。それ程ピアノを弾くのが嫌いなのだろうか。
「あぁ珍しくて面白い演奏だった。これはこれでアリだろ、少なくとも俺はそう思うけど? 俺にもお前のような音、出そうと思っても出せないだろうな」
「そう……ありがと」
種田は眉を下げて今度こそ少しだけ笑って、ステージの外に足を投げ出すように乱暴に寝転がった。
それにしても。『雨の庭』か。俺はこの曲を初めて聴いた時、庭かどうかは解らなかったが確かに雨を感じた。大きな雨粒が土砂降りになり、曇天を映す水溜まりが次第に広がり激しく揺れる様子を思い浮かべた。
「お前、雨が嫌いなんじゃなかったのか?」
「……苦手だね」
「なら何故この曲なんだ。これしか弾けない、なんて事無いだろう?」
「これは嫌じゃないの、最後は晴れてるから」
「そうだが……なら最初から晴れやかな曲にすれば良いのに」
「あぁ、そう言われてみればそうだね。でもさ、」
態々一度雨を降らせてから晴れる曲を選ぶ辺り、なんとなく種田らしい選択だと思った。ぼーっと天井を見るその表情は気の抜けたものだ。間違えずに済んで、怒鳴られず殴られずに済んで安心しているのかもしれない。椅子の高さを合わせながら耳を傾ける。
「最初も嫌じゃないよ。雨音だけど、この曲は、ピアノの音はもっと綺麗で。最初不安を煽る旋律が続くけど不快じゃない。印象派らしい心地良いアンニュイさ……弾けないけどね」
それは情感豊かに、という意味だろうか。種田はピアノと、もしかしたら自分の演奏を嫌っているのかもしれない。部員が少なくて良かったな。きっと二年や原、山崎なんかが居たら、褒めちぎって知らずその鳩尾を刺していただろう。
「それで。何が良い?」椅子に座ってリクエストを訊けば、種田は逡巡しまごまごと口を開いた。
「亡き王女、の……、」
「Ravelのパヴァーヌか? 弾ける、多分覚えているぞ」
「…………いや、なんでも良いよ」
印象派──ドビュッシーとラヴェルが好きなのだろうか。種田は否定の声を上げたが無視して演奏を開始する。珍しい演奏を聴けた礼に、出来るだけ丁寧に注意深く、情感を込め過ぎないように弾く。俺は種田とは正反対だ。暗い曲は重苦し過ぎる、明るい曲は華やか過ぎるとよく注意された。散々無表情だ能面だと言われるが、声とピアノには感情が強く現れるらしい。“──印象派らしい心地良いアンニュイさ”先の言葉を思い出しながら注意深く。
『亡き王女のためのパヴァーヌ』は男子運動部の部活前に聴くには感傷的過ぎる曲だが、独特な浮遊感と、聴けば単純そうでいて弾くには複雑な進行は、そこのマネージャーである種田によく合っている。寧ろ彼女自身のようだ。なら王女は種田か、なんてバカなことを考えた。
弾き終わって一息吐いて種田を見ると、彼女は腹の上で両手を組んで目を閉じていた。いつもの血の気の無い頬と赤みの少ない唇。照明の消えた薄暗いステージ、白過ぎる肌は発光するようにぼんやり浮かぶ。こうしていると死んでいるみたいだ。亡き、王女。
「死んでいるのか?」
「起きてる」
「……眠くなる程退屈な演奏だったか」
「違う、ちゃんと聴いてたよ。康くんやっぱり上手いね、感情表現豊かで凄く好みの演奏。哀しいけど、柔らかくて優しい。ラヴェルの不安定さは保ってるのに一音一音が丁寧で繊細。ほんと、私が弾くのと違う楽器みたい──……」
べた褒めだな。感想を語る種田は当然生きていたらしい。
「──繊細で丁寧なタッチが少し、真ちゃんに、にてる……ただの、きらきら星なの、に……」
続いた小さな呟き。
「シン?」
「……」
「『シンちゃん』とは誰だ?」
聞き返すと種田は目を開いて、寝転んだままきょとんとこちらを見た。
「? 誰?」
「……お前が言ったんだろ」
「ぅ、え? 言った? 今?」
「言った。今」
「うそ、ほんとに?」
「そんな嘘をついてどうするんだ」
「そ、うだね……そっか…………」
取り乱していた様子だったが、それきりぼーっと遠く上を見上げる種田。視線は天井を突抜け、もっと遠い何処かを見ていそうだ。無意識に口を突いて出たのだろうか。
「結局誰なんだ」
「さぁ……誰なんだろう」
はぐらかすなと言おうとしたが、泣き出しそうな苦笑を浮かべる種田を見て口を閉じる。今の彼女の返答ははぐらかしたのでは無く、本当に覚えていなくて困り果てているのかもしれない。じっとその顔を眺める。初めて見る表情だ。よく言う「迷子のような」とも違う、困惑の中に諦念や失意も混じった複雑なモノ。
(思わず名前が上がるような相手、知らない筈が無いだろ)
心の中で呼びかける。言ってしまって、もっとその混沌に追いつめて突き落としたい気もする。だがなんとなく、もし言ってしまえば夏合宿の後のように不可解な対応をされる気がした。種田は興味深い。突き落としたりこちらから手放すならまだしも、向こうから身を引かれるのは不満だ。そんなのは面白くない。
正直に言えば今も少し面白くはなかった。種田が気を許す、名前を覚えている人間はあだ名や敬称が付いている。「シンちゃん」と呼ばれた奴はそれでも忘れられたようだ。その事はどうでも良い。だがその事は彼女に形容しがたい表情をさせた、それが少し面白くない。
言葉にしない代わりに、少し追いつめてみようか。ピアノに向き直り再びパヴァーヌを弾く。もう一度聴けばまた名前を上げて更に困るのだろうか、なんて。とは言え今度は好きに、情感を抑える事なんて気にしないで弾く。誰かに似ていると言われたのは癪だった。そうやって好きに弾いたパヴァーヌは一回目とは全然違う、繊細でもなんでもない演奏になった。もし講師が聴いていたら哀し過ぎる、儚過ぎると怒ったかもしれない。
弾き終わって種田を見下ろす。今度は死んではいなかった。先程と同じように腹の上で両手を組んでいるが、目は開いたまま。
「康くん」
遠くを見つめたままか細く俺の名前を呼ぶ種田に、立ち上がってごく近くに行き見下ろす。彼女が深呼吸して瞳を閉じると、片方の眦から一雫だけ涙が溢れ耳の上へ消えて行った。見間違いかと思ったが、濡れた軌跡が涙が流れた事実を語っている。きっと気付いたのは何処を探しても俺と彼女しか居ない……彼女自身さえ気付いていないかもしれない。それ程ひっそりした涙だった。どう言葉を掛けようか迷っていると「ありがと」と掠れた声で言った。
「な、にがだ」
「ずっと気になってた……これ、母が好きだった曲だ。葬儀とか全部終わった後、家で父が一人聴いてた」
「……」
「思い出した、ありがと」
ゆっくり目を開いた種田が柔らかく笑う。先程と違いすっきりした表情をしていた。この表情も悪くない。しゃがんで何気なく小さな雨垂れを拭うと、彼女は俺の頭に手を伸ばし、触れるか触れないかの覚束ない手付きで撫でた。
「今日くらい泣いてしまえば良いのに、不器用な人…………だったのかなぁ」
種田はまるでその光景を、父親が一人パヴァーヌを聴く光景を、今正に見ているように話した。俺を撫でる手は、本当は彼女の父親へ伸ばされたものなのかもしれない。それでも父親について話す口ぶりはまるで随分古い、記憶も朧気な程昔の話をしているようだった。
「思い出せた……ありがと」
気が済んだらしい。手を下ろした種田はもう一度目を瞑り、噛み締めるように感謝を述べた。何処か重さのある響きだった。
体育館を見ると先程より少しだけ人が増えていた。撤収は殆ど終わっている。ゆっくり立ち上がった種田はピアノを片付け始めた。結局シンちゃんとやらが誰かは解らないが、そいつには興味が無いから別にいい。あの形容しがたい表情を変えた事に少しだけ満足した。
「またそのうち弾いてよ」
「パヴァーヌを?」
「いや。あれはもう良い」
「母親が好きだった、気になっていた曲なのにか?」
「うん、思い出せたから……少なくともしばらくはいいかな。今度は康くんが好きな曲とか、得意なのが良いな」
「そうか。俺は──……」
そう言えば、種田がリクエストした『亡き王女のためのパヴァーヌ』には逸話がある。
作曲者モーリス・ラヴェルは晩年、記憶障害になったと言われている。作曲活動も出来無くなり、次第に彼の精神状態は悪化した。ある日、とある演奏会で『亡き王女のためのパヴァーヌ』を聴いた彼はこう言ったそうだ。
“美しい曲だ。これは一体、誰が書いたんだろう……?”
自身が生み出した作品さえ忘れてしまった彼は、その曲に強く感動したのだ。
本当の話かは定かでは無い。ただ俺のピアノ講師は、この逸話が例え嘘だとしても『亡き王女のためのパヴァーヌ』の真髄をよく表していると言った。俺も話を聞かされた時は、確かに曲そのもののようなエピソードだと納得した。
本当に、逸話も含めて。種田はこの曲のようだなと思う。先程の誰かを忘れて困り果てたり、思い出したと涙を零す姿は勿論、人の名前を中々覚えられない所も。最近漸く名簿の写しを確認する姿を見なくなった。曲の進行や構成と彼女の印象はそのままだ。死にそうな梅雨の危うさや、不健康そうな肌の色も。
だがまぁやはり王女という柄では全然無いな、なんて考えながら、練習開始の声に急いで部室倉庫へ向かう種田の小さな背中を見た。