結局、練習が終わるまで結希も青峰も体育館に現れなかった。元々青峰は「面白いものが見れるかも」という餌に釣られて来ただけだから、ハナから練習に出る気は無かっただろう。
二人を迎えに屋上へ行く。着いて来ようとした桃井には、入れ違いになった時のためにと言い包めて待機させた。さぁ二人はどんな科学反応を起こしただろうか?
「あー……なんか釈然とせんわ」
揃って昼寝中の青峰と結希が目に入り、思わず拗ねたような声が出た。自分で引き合わせておいて何を、と内心自嘲する。彼女が帰って来ない時点で予想はついていた。距離こそ近くないものの、結希はスヤスヤ眠っている──青峰に気を許したのだ。
結希を起こすと寝ぼけながらワシが目の前に居る事に驚いた。ジャージを着せていたから、昔のように自分の膝に座っているつもりにでもなっていたのか。途端簡単に回復した機嫌に我ながら苦笑が漏れた。「ほら、起きんと風邪引くで」「ん、起き、る」言いながらもガクンと揺れる頭。
「うぉっ!? つーか寒っ!」
「おー青峰はちゃんと起きたか」
結希を起こしてる間に青峰が起きた。ワシに驚いてから寒いさむいと身震いしている。四月の下旬、暖かくなってきたとは言え夕方は冷える。練習終わりの体にはじんわりと気持ちの良い気候だが、昼寝するには寒過ぎるだろう。
唸りながら幼児が甘えるようにこちらへ手を伸ばす結希。まだ起きそうにないし青峰に話を聞きたかった。手に応え、彼女を抱きかかえて座る。
「なんの話しとったん? 疲れて寝る程ぎょーさん話したんやろ?」
「あー……おっぱいでかいバスケ選手の可能性とマイちゃんの良さについて? あとはマナイタの便利さとか」
「なんやねんそれ! って、そうゆう意味やないんやけど?」
面倒臭そうに顔をしかめる青峰。逆もそうなのだ。追い返していない時点で、彼が試合を見て結希に興味を持ち気を許した事も解っている。大きく溜息をついた彼は、後頭部をガシガシ掻いた。
「来て早々、オレと自分は全然違ェって言いながら文句言われた。アンタの一番の後輩もオレじゃなくて自分だってな、拗ねてねーっつって拗ねてた」
「はは、可愛い事言うてくれるやん」
掻い摘まんでだろう、語られる二人の会話。青峰は表情こそいつもの退屈そうなものだが、饒舌な辺り充実した時間を過ごしたらしい。結希曰く二人は「全然違うが少し似ている」だそうだ。確かに根本的な部分が違い過ぎる。バスケへの想い、それが。
「勝てって言われた」
「は……?」
「明日もしコーテキシュ? が現れても、今年一年は勝ってくれってな」
「ッ! あーもー……結希にはほんま敵わんで」
「だから負けるなら来年にしろだと」
「……来年は好きにせぇやなくて?」
「あぁ、もしオレが負けてーんなら……『負けても良いから』だってよ」
すぐ気付いた、今年一年の意味はワシが居るから。そして負けて良いと言った結希に驚く。青峰に文句を言ったそうだが、なんだかんだ気に入ったようだ。
負けて良いか……青峰をスカウトした時、ワシは彼が負ける事など誰も望んでいないと言った。だが結希は彼の敗北を許容したのだ。それが強過ぎる故に孤独を強いられる彼に、どんな影響を与えたか想像は出来無い。ただ彼が彼女を見るその顔は凪いでいた。
「そうかぁ……えらい気に入られたな青峰、良かったやん」
「あ?」
「せやなかったら来年は好きにせぇ言うで。手に入ると良いなんて言わんし願わん、『ふぅん』で終わりやな」
「……そーかよ」
「もうほんま、ウチの部員をどないする気ぃや。青峰まで手懐けよってから、とんだハニートラップ仕掛けられた気分やで」
「手懐けられてられてねーよ! つーかコイツ、他の奴にもなんかしたのか」
めっちゃ図星やん。先の幾分か柔らかな表情の自覚は無いのだろうか。
チームジャージの話をすると、案の定青峰は心底理解出来ないと言う顔をした。結希のような考え方をする人間は少ないだろう。特に、多過ぎる弱者に嫌気が差して、強者を求める最強の彼には無理だ。たかがジャージ一つ。だがレギュラーしか手に出来ないチームなら、結希の言う通りそれは特権であり解り易い象徴だ。自分はチームに思い入れなど無い、寧ろ今は嫌悪している癖に末端の事さえ考える、無意識に考えられる。彼女は自分を優しくないと言うが、それが優しさかどうか判断するのは受け取るこちら側だ。
「そーいやアンタら付き合ってねーんだよな」
「うん?」
「ソイツはそーゆーの解んねーっつってたけど、アンタは惚れてんのかよ?」
「なん、気になるか〜?」
「別に。ただ……アンタがジャージ預けて、買い物付き合ってバッシュの色選んでやるくれーだからな。大事にしてんだろ? 他の、アンタがツマミ食いした女と比べもんになんねーくらい」
何故入部間も無い青峰までそんな事を言うのか。大して遊んでいないのに、そういうキャラの立ち位置にしないで欲しいものだ。諏佐が下世話な話でもしたんかなぁ。ワシは人当たりが良いし、決して他を蔑ろにしていない。結希には表面上少し甘いだけだ。なのにこの数分と二つの理由だけで「比べ物にならない程」と言う青峰の勘の良さに苦笑する。
「つまみ食いやなんて青峰まで人聞き悪いわ。ま、娘か妹ってとこやな。自分手ぇ出すんやったら、ワシにちゃんとご挨拶してや〜」
「ねーよ。家族ゴッコとか……やっぱアンタ変わってんな」
「わはは! ただの印象の話やん」
青峰の言葉に声を上げて自嘲する。あぁそうだ。赤の他人との『家族ゴッコ』など変わっているどころか、酔狂、いや、素っ頓狂なものだ。得意げに結希を娘や妹と表すのは、その代わりにするのは大間抜けだ。
だってそれは己の弱さの比喩だから。
小学生の時、母が入院した。日々焦り哀しむ父を前に気丈に振る舞い、寂しがる歳の離れた妹の面倒を見た。時折行く見舞いでは父と妹を優先して。文字通り、心身共に家族を支えた。
感情を隠すのはすぐに上手くなった。特に、本来なら一番安心して胸中を見せられる筈の家族に対しては。感情を覚らせれば相手は不安になる。全て笑顔に隠して元気にふざけていれば、父も妹もつられるように明るくなった。自分がしっかりしなければこの家は崩れる、そんな漠然とした危機感があった。
周りの大人達は「偉いね」「強いね」と「今吉さんの所は頼りになるお兄ちゃんが居るから安心ですね」と無責任に笑い通り過ぎていく。本当はこっそり母の病室に行っては、いつも頑張ってくれて有難うと、ここでは無理に笑わなくて良いのだと、柔らかく抱え込むように頭を撫でて労られ、その短い時間存分に甘えていた。それが酷く落ち着いて。だから頑張れていただけなのだけれど。
そして母は病死した。静かに冷たく横たわる母は別人のようで、泣く父を見て涙を堪え、困惑する妹を安心させようと今日から自分が兄で母だと笑いかけた。危機感は一層強くなり、一度思わず覗いた母の病室は誰も居なかったのに一層頑張った。前と変わらず家族を支える姿に、周りの大人達は「強いね」と言った。そんなもの強さじゃなく弱さだ。母の死を受け入れられず、哀しみもぶちまけられず、他の役割へと逃げる、ただの弱さ。そんな弱い自分を隠す内、腹芸せずに人と接する事は出来なくなった。
きっと今でも。根っこの部分は弱いまま、病室で母に甘える少年のままだ。
だから結希にだけは幾分か素直になれたのだろう。彼女は記憶もだが、その原因の影響か感情も死んでいた。何も無いから。言い方は悪いが人形相手に腹芸なんて不要だ。感情を覚らせても弱さを見せても、彼女は不安を返さない。そもそも何を打っても返って来ない、空っぽだから全ては彼女の中へ落ちていった。今だって腹黒いなんて言う割りに疑いはしない。いつか、騙されても良いとまで言った。
中三になり妹が母と同じ病で倒れた。勉強部活委員会と忙しい三年、頻繁に見舞いに行けず慣れない入院生活は妹を不安にさせた。仕事の都合がついた父は、見舞いの事などを考え大阪へ帰り祖父母と暮らすと決めた。既に桐皇からスカウトが来ていた事で、寮があるから、ずっと自分達の面倒を見させ苦労を掛けたから自由に好きな事をさせたいと、父はワシに東京に残るよう勧めてきた。
悩んだ。バスケは好きだ、桐皇にも興味がある、今から新しい学校に慣れ受験を考えるのは大変だ──……そこで気付く。大阪へ帰っても一人残っても、役割が無くなる。家族を支えるのは自分の役割でだから強いと言われて逃げ道で……それが、無くなる? もう母は居ないのに、弱い少年はどうなる? 変わらず続く漠然とした危機感、問題点と頑張る理由は完全にすり替わっていて。兎に角父は東京に残る事を望んでいるからと、いつもの笑顔で頷いた。仲の良いご近所さんへ預けられ、そこから半年間中学に通った末、桐皇へ入学した。
あの半年間は結希にべったりだった。完全に妹代わりにして世話を焼いて。感情の起伏が訪れるようになっても、不安を返さない彼女に安心していたのもあった。不思議そうにしつつも、黙って身を任せ委ねるお人形。事情も心情も知らない筈の花宮が、たまに心配そうな複雑な表情でこちらを見ていたか。
だから去年結希が『お母さん』と表した時、また逃げ道が出来たと安堵する半面「お前はやはり弱い、強くはなれないのだ」と改めて示された気がした。同時、唯一幾分か素直になれる彼女に対しても、これからは父と妹にしていたように全て隠して接しなければならないのかと考え目眩がした。
“──じゃぁ私も先輩のお母さんになったげる……そのままだと先輩が甘えらんないから?”
そんな考えは杞憂だと、すぐに否定されたけど。
そして皮肉か、救いか。甘えられないからとその役を選んだ結希に、弱いままでも良いのだと肯定された気がした。
「ふ……はは!」
「あ?」
「ぅー……む……」
「いやな、逆もやな思て」
「逆?」
「結希としてもワシの『お母さん』みたいなもんらしいで。やから変わっとんなら結希もやな」
「……アンタらアホじゃねーの」
「ま、手ぇ出すんやったらワシも付いて来るから宜しゅうな、お義父さん?」
「だから。オレはおっぱいでかい子が良いからねーって。つーかやめろよ『お義父さん』とか……鳥肌たった」
「それは胸デカイ結希ならアリっちゅう事か!」
「いやマナイタじゃねーコイツとか想像できねーわ」
諏佐や青峰の言う通り女に苦労した事は無いが、本気になった相手は一人として居ない。誰かと関係を持っても長続きしなかった。それらの女達を結希より大事に思い、優先出来無かったからだ。彼女に対して恋愛感情は抱いていない。だが今のところ、恋人という言わば『肉親以外での一番の異性』、彼女はそれより上に存在している。
雛の刷り込みかワシを信じ込んで後を付いて回る結希、そんな彼女に安堵し世話を焼くワシ。恋情は絡めずに、関係を家族と称して、無条件に互いを甘やかして甘えて。あぁそうさ、確かに赤の他人との『家族ゴッコ』とは酔狂で素っ頓狂なものだ。“──後輩と娘やねんから全然ちゃうわ”そう言ったワシと、それに機嫌を直した彼女。この戯れをより悦んでいるのはどちらだろうか。
「ごめん、ちょっと先輩に用件があるから。とても、大事な」
駅まで送ると言ったワシの腕を掴み上げ、四人で帰ろうと提案した桃井に断った結希。青峰は残念そうな桃井に謝る彼女をじっと見据えてから「さつき、置いてくぞ」と投げやりに言って歩き出す。そうすれば当然桃井は「待ってよ青峰君!」と慌てて、また、と手を振り走って行った。
「どないしたん? 青峰の事?」
「違います……ふふ、先輩こっち」
笑って結希は近くの花壇の淵に飛び乗る。何か企んでいるらしいが意図は解らない。手招きされて花壇の上の彼女をいつもとは逆に見上げる。「もっと近く」寄るとワシの眼鏡をスッと奪った。それを掛けてパチパチ目を瞬かせる。
「目ぇ良いのに掛けたら──……」
──逆に悪くなんで。と続く筈の言葉は強制的に飲み込まされた。胸元の辺りへ緩く押し付けるように、頭を抱き込まれる。
「これでやっと格好付く。ね、しょーいち君」
敬称がいつもと違って『家族ゴッコ』なのだと気付いた。髪を梳く手。こんなに優しく頭を撫でられたのは何年振りだろうか。不意に鼻の奥がツンとして、あぁどうしてこの子は、と恨めしく思った。花壇から漂う香りが、病室に飾られた花を思い出させた。死んだ母がいつかしたように、柔らかく抱え込むようにして、優しい手付きで頭を撫でる。薄れた記憶が一緒だと訴えている。知らない癖に、これはただのオママゴトだろうに、簡単に過去をなぞる。
「『お母さんみたいなもん』って遠くで聞こえて」
「あぁ……あん時唸っとったなぁ……」
「去年、私は背が低いから格好付かないって思ったの思い出した」
「やから……この体勢なん?」
「ん。あと心音」
「心音?」
「そう、心臓の音を聴かなきゃだから。そういうもの」
それきり結希は黙ってしまった。
頭の冷静な部分が、もうすぐ完全下校時刻だ、誰かに見られたら面倒かもしれない、休日の学校で一体何をしているんだろう、と雑音のような思考を続ける。桐皇のジャージを脱いでも自分のジャージを着なかったのはこのためだったのか。結希の母親像は、子供より背が高く、心音を聞かせ、頭を撫でるものらしい。なら今はただ心音に集中しようと目を閉じた。
トク、トク、と音が聴こえる。撫でる手と、頬に触れる結希の体はほんのり暖かい。手持ち無沙汰に相手をした女達はもっと速く煩いリズムを刻んでいて、火傷しそうな暴力的な熱を持っていたっけ。それとは全く違う緩やかで穏やかなもの。そうだ、母は幼いワシより背が高く、小さな落ち着く音がして、サラリと冷えた患者衣越しに控えめに感じる暖かさを持っていた。だから静かに冷たく横たわる母を別人だと思ったのだ。本当はただ……死んでいただけなのに。
「なぁ……ワシ、頑張っとるよ」
これはただのオママゴトだから、重ねている訳じゃない。ただ結希が始めたお遊びに乗っかっただけだから、この言葉に意味なんて無い。
「頑張っとる、頑張れとるやんな? ちゃんとやれとるやんな?」
「うん、きっとちゃんとやれてるよ。しょーいちせ……しょーいち君は頑張ってる、頑張り過ぎてないか心配なくらい」
「……ちゃんと笑えとる? 上手く笑えとるやろか? 出来とるやろか?」
「いつも上手く笑えてる……でも、上手く笑えなくても良いんだよ」
「……無理に笑わんでもええか?」
「無理になんか笑わなくて良い、少なくとも私にはしなくて大丈夫。今ここには誰も居ない、皆帰ったよ。私としょーいち君二人ぼっち。だから大丈夫」
「……ん」
心音を邪魔しない小さな声。これに意味なんて無いけれど、なぞらせるように、質問をして、確認をして。
(随分歪んで滑稽やな)
ニヤニヤした自分自身がワシを嘲笑う。今だけ、今だけだから、ただの戯れだからと、それを振り払うように彼女の体に腕を回しもう一度耳を澄ました。
どれくらいそうしていただろう。一分かもしれないし、一時間かもしれない。誘う眠気にそろそろ手放さなければと思い始めた頃、完全下校時刻のチャイムが鳴り響いた。最後に一度強く抱きしめて、そのまま抱えて結希を地面に降ろす。
「しょーいち先輩、帰ろう」
戻った敬称がオママゴトの終わりを告げる。『お母さん』として格好付けられたからか、結希は満足げにこちらを見上げて言った。
「ほな行くか」眼鏡を返せと手を出すが、結希はその手を取った。「桐皇の寮見てみたいから、先輩送ったげます」そうじゃないと返さないとでも言うように、ズレた眼鏡を直して言う。仕方無く応じるフリをしながら安堵する。なんとなく、彼女を送ってから独り寮へ帰るのは嫌だった。
目は悪いが、一歩も踏み出せない程では無い。それに丸二年歩いた通学路だ。裸眼でも心配無かったが「結希酔わんか?」「うー……大丈夫」大丈夫では無さそうな姿に、ちゃんと寮まで案内するからと返すように言う。しかし彼女は頑なだった。
「今は眼鏡掛けてるから見えませんよ」
「んん?」
「それに、どっちかって言うと、だけど。私は笑ってない方が好きです。だからなんの不都合も無い。私が『お母さん』じゃなくても、無理に、上手く笑わなくて大丈夫」
「……なんで好きなん?」
「なんか年相応な気がするし、腑が見える気がするから」
「はは、ワシの腑は黒いんやなかったん? ドス黒うてめっちゃ汚いやも知らんで。それでも見えた方が良いん?」
「それは何か企んでる時の話です。まぁ例え汚くても構わない、腑なんてきっと皆そういうもの」
「そういうもんか」
「そういうもん。だから無理強いはしないけど……先輩も無理しなくて大丈夫」
あぁ、やはり結希には胸中を隠す必要なんてない。腹黒いと言いながら、その内を見せる事を赦し求めてくれる。オママゴトなんてしなくても、なぞらせなくても、欲しい言葉と反応をくれる。ほんま、敵わんなぁ……。
足を止めて手を引き、こちらを振り返った結希の顔から眼鏡を取り返す。
「眼鏡、」
「好きなんやったら、よう見えた方が良いやろ?」
張り付いた笑みを剥がし話し掛ける。
「ふふ……やっぱりしょーいち先輩には敵わない」
柔らかく笑って手を伸ばしワシの頭を撫でる結希に、ワシの台詞や、と自然に笑みが溢れた。