私事

 体育館入り口で、スカーフと同じ色の花を胸元に飾られる。高校生にして生まれて初めての入学式に少しそわそわする。今迄の、小中学校の入学式を欠席したからという訳では無い……もしかしたら本当にそうかもしれないけど。まぁとにかく、私が記憶している限り初めての入学式だ。記憶している限り、では。

 私、種田結希には幸か不幸か記憶が無い。生まれてから中学一年の六月迄の一切を覚えていない。

 因みにその空白を知る手立てはほぼ零に等しい。何故なら両親は既に他界しているからだ。
 母は私が幼い頃交通事故で亡くなった。共に事故に遭った時に負ったという、私の背中、肩甲骨の辺りの一対の傷痕の理由からそれを聞いた。その後父は一人きりで私を育てたようだ。
 ある早朝、私は学校で頭から血を流し倒れていたそうだ。朝練の生徒が発見し、運ばれた保健室で目を覚ますが嘔吐、すぐに救急車が呼ばれ病院へ搬送された。結果はただの脳震盪だったが、体中に新しいものから古いものまで沢山の怪我があり、事件や事故に巻き込まれた、あるいは虐待の可能性が浮かんだ。病院に父を呼ぼうにも連絡はつかず、やっと繋がったのは日付も変わった真夜中……だが彼は急ぐあまり、皮肉にも交通事故を起こして亡くなった。

 そして次の日、目覚めた私の記憶は消えていた。

 医師は脳震盪による外傷性となんらかのショックによる心因性、両方が原因ではないかと診断した。学力や知識は問題無く同世代と変わらないが、自分に関するエピソードは何も思い出せなかった。「私は誰、ここは……病院?」である。
 焦る周囲に反して、私自身は驚く程落ち着いていた。自分の状況を受け入れた、というより自分という実感が無かった。告げられた両親の死も他人事で、現実味が無く何も感じない。感情が動かなかった。そちらも記憶同様消えてしまったのかもしれない。それに思ったのだ。忘れた事なら、たぶん、忘れたい事なのだと。私は病院が提案する催眠療法や、記憶を取り戻す訓練を拒んだ。
 だが本当に全てを忘れたままで良いのだろうかと、小さなしこりはあった。忘れたままで良い、いやだめかもしれない、忘れていたい、大丈夫なのだろうか、大丈夫だから忘れたんだろう? そんなうっすらとした中途半端な葛藤。すると医師は「今まで通りの生活を続けるうち、ふとちょっとした事を思い出したり、なんだか知っていると思ったりする事もあるんだよ。焦らず無理せず、ゆったり構えてみるのも良いんじゃないかな」と優しく言ってくれた。だから学校も家も変えなかった。父の友人という後見人もなんとか了承してくれた。
 絶縁状態だったという父方の祖父母が現れ、初めて会う孫に戸惑いながらも養子縁組と同居を持ちかけてくれた。しかし私には彼らを受け入れ、共に生活する事が出来そうに無かった。結局話は流れたが、彼らは家を引き払い、電車とバスで片道三十分程度の所へ引っ越してきてくれた。いつでも頼ってくれと。
 下手に記憶喪失の要因を突いてパニックやショックを与えてはいけないと、細かい事情は私には伏せられたが、警察は色々と捜査をしてくれたらしい。だが私が何故倒れていたか、何故体中に怪我があったのかは未だに解らないようだ。もしかしたら……解っていても伝えていないのかもしれないけど。






 そうして私は記憶と感情を失ったまま中学校に通い続けた。
 生活は安定していた。両親の遺産は将来さえ不安を感じ無い程あり不自由は無かったし、父の教育がしっかりしていたのか家事は一人でこなせ非行に走る事も無かった。最初の一年で体中の怪我は、昔からあったという肩甲骨の傷痕以外全て綺麗に直った。感情も亀の歩みより遅くだが、動くようになった。
 しかし記憶は何一つ戻っていない。更に、私が倒れ怪我をしていた理由への憶測や噂、両親の他界、記憶喪失に、周囲からは卒業する最後まで一線引かれていた。友人だったという者達は、以前の私との違いに落胆し背を向けた。それ以外の者達は、憶測や噂を聞き遠巻きに同情の目を向けるか、形ばかりの心配で包んだ好奇な目で悪戯に質問を繰返しては記憶喪失を確かめるだけだった。
 私の方も、その一線をどうにかしようと思わなかった。彼らに興味を持てなかったし、やはり現実味が無かったのだ。
 ただ三人だけ違う人達がいた。

『新入生宣誓、花宮真君』
「はい」

 モノローグに浸っていると壇上にまこちゃんが上がった。少しだけざわつく体育館。「あの人格好良くない?」「新入生代表って事は主席だよね」少ない女子達が色めき立つ。
 宣誓書を殆ど見ずに堂々と前を向き、すらすら話すまこちゃん。初めて会った時より幾分も低くなった声だが、落ち着く響きは変わらないなと思う。

 倒れていた私を発見し運んでくれた朝練の生徒、それが今吉翔一と花宮真だ。

 保健室で一度目を覚ました時、既に私の記憶は死んでいた。私の世界の始まりは、吐き気と頭痛、遠くで聞こえる救急車を呼ぶ声。そして体を支えたり背中を撫でながら「大丈夫か? 気分悪いん?」「吐くなら吐いちまえ」とこちらを覗き込む彼らだ。
 雛の刷り込みだろうか。その顔を、声を、手を、しっかりと覚えていた。
 教員に聞けば二人ともバスケ部で、いつも遅くまで自主練していると言う。揃っているなら丁度良い。あの朝はお世話になったと、お礼を言いに体育館にお邪魔した。ぽかんとした後、思わずもれたらしい小さな声は酷いものだった。

“悪い遊びやなぁ、覚えとるんか?”
“記憶喪失は嘘か。構ってチャンかよ”

 その後取り繕うように花宮真が優しく声をかけて来たが、先の言葉で耳には入らない。戸惑いでも落胆でも同情でも心配に包んだ好奇でも無い、皮肉。それは少ない記憶の中で初めてで、何故か妙に現実味があった。
 だからかも知れない。それとも本当に雛の刷り込みなのかもしれない。解って欲しい、二人があの痛く苦しい世界の始まりに、どれだけ安堵をもたらしたか。見捨てないで欲しい。初めて感情が動いた。初めて泣いた。支離滅裂に必死に説明する私に、以前の私でも噂の可哀想な子でも記憶喪失という症状でも無い、私自身に興味持ったらしい。それから二人はとても仲良くしてくれた。
 そしてもう一人、田辺つかさ。小学校からの腐れ縁を名乗る彼女は、二、三質問した後に言った。

“んじゃ新しい友達って事で。初めまして、これから宜しく!”

 宣言通り、彼女は初対面のようにゆっくりと距離を詰めて接してくれた。
 腐れ縁という事で中途半端な記憶への葛藤を話し、何か少しだけ以前の私を種明かししてくれないかと頼むと、

“バスケしなよ! 毎日バスケするくらい超好きだったし、今まで通りの生活って言うなら絶対必要だわ。ユーキ元々バスケ部だし、今吉さんと花宮もしてるし話題あるっしょ?”

 と笑った。残念ながらバスケをしても楽しさも興味さえも湧かなかったが、体は覚えていたし知識も残っていた。
 習慣だからと、記憶のための手段だからと、何の感情も無く惰性で続けたバスケの才能は進化し続けた。期待の新人と言われ既にレギュラー入りしていた私は、部活復帰後少しして先輩を押しのけスタメンに選ばれた。その年、女バスは初めての関東大会出場とベスト4入り、全国大会出場を修める。無名のダークホースとなったうちの女バスは、エースである私を中心に注目を浴びた。その後物好きで心強く……灰汁も強い後輩が入り、徐々に成績を上げながら最後の全中3位まで全国大会に出場し続ける。
 私はもて囃され、雑誌から取材が来たり、沢山の人に褒められたり、頑張れと声援を送られたり、逆に恨み事も言われたり、ファンだと握手やサインを求める物好きが現れたり、変な名前をつけられたりした。それでもバスケへの感情なんて湧かなかった。ただの習慣、好きでも嫌いでも無い。それは今でも変わらない。

(あぁ……でも、)
『──ようお願い申し上げます。新入生代表、花宮真』

 宣誓を終え、綺麗に礼をしたまこちゃんへ大きな拍手が送られる。

(今は少しだけ、変わったかな)

 自分がバスケをする事に対しては、何も変わってはいないけど。
 拍手を忘れてぼーっとまこちゃんを見る。後ろの女子が拍手の音をこれ幸いに「やばい格好良い」「オーラが違う」と興奮を隠しきれない様子で騒いだ。解ってないな。確かにいつもよりキリリと引き締めた表情は格好良いだろう。でもバスケをしている時はもっと格好良くて、オーラというか空気だって全然違って、キラキラドロドロしてて──……

(私がコートに立ちたいって思えるくらい、ほんと、すっごく素敵なんだよ)

 思い出して目を細める。
 一人拍手をしない私は目立ったのだろうか。国旗へ礼をして振りったまこちゃんと目があった気がした。一瞬、少し目を見開いて足を止めかけた彼は、何故か満足そうに目を細めて壇上を降りていった。その微笑みにも満たない表情についに黄色い声が上がって。自分だって今の彼の表情の理由が解らない癖に、そんな女子達にやはり解ってないなと思った。

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