「ふぅ……ふぅ……。結構歩いたかしら……」
 前々から胸に秘めていた車の窓から眺めるだけの通学路を歩いてみたい欲がついに抑え切れなくなり、運転手に無理を言って途中で降ろしてもらったのだがそうそうに根を上げてしまった。
 ふらふらのスピリアはベンチに腰掛けほのかに香水の香りがする質の良いハンカチで頬の汗を拭く何気ない動作も様になっていて通行人の目を惹いていた。喉が渇いたが一人で飲食店はおろかコンビニにも入った経験すらないスピリアは自販機の使い方もわからずどうしたものかと小首を傾げる。
 スピリアは道行く人々を眺めながら楽しそうに並んで歩いてる女子高生のグループに目を止める。学園の友達とお互いの家で遊んだり学園のカフェテリアで談笑したりすることはあってもああいう風に街中を歩いたことはない。それが悪いことだとは思わないけれど少しだけどうしようもない寂しさを覚えてしまう。
 
 ぼんやり往来を眺めているとふとスピリアを包み込むように影ができ、ゆっくり顔を上げるとキツい西陽を遮るようにして立つラクが不思議そうに見下ろしていた。
「お、やっぱりスピちゃんだ。こんなところでどうしたの?」
 ラクは座っているスピリアと目線を合わせるため地面に膝をつき彼女の顔を覗き込む。彼女の顔色を窺い気付かれないように素早く怪我や服に汚れがないか確認し終えると短く安堵の息を吐きやわらかい笑みを浮かべる。一分の隙もない王子様のような仕草に思わず見惚れていたスピリアは優しい眼差しに促され、ぽつりぽつりと語り出す。
「その……少し街を歩いてみようと思いまして、でもその、お恥ずかしながら途中で疲れてしまって……」
 話しているうちに羞恥心が大きくなってスピリアはさっとラクから視線を外して整備の行き届いた街路樹へ目を泳がせた。運転手が気を利かせてくれ自宅までほんの1q程度しかないのにそんな僅かな距離も満足に歩けないなんて周りの学生たちとは住む世界が違うのだと鼻先に銃を突きつけられているような気持ちになって、何より心地よいぬくもりをくれるラクと自分の間にはっきりと引かれた線を見るのが怖かった。
「歩きなれていないから足が疲れちゃったんだね。ねえスピちゃん。スピちゃんが普段車移動なのはご両親の愛情の証だしスピちゃんが人より少しだけ疲れやすいのも悪いことじゃない。慣れないことをするのは誰だって最初は上手くいかないよ」
 自分と目を合わせようとしない彼女が怯えていることを察したラクはスピリアの白魚のような手を軽く握りそっと甲を撫でた。
「スピちゃーん!」
 スピリアが落ち着いたタイミングを見計らってそばを離れていたラクが数分後自転車を押して戻ってきた。
「一人にしてごめんね。大丈夫だった?」
「はい…。あの、ラクさんその自転車はどうなさったんですか?」
「ああ、レンタルサービスだよ。お金を払ったら誰でも借りられて好きな場所に返せるんだ。スピちゃん立てそうだったら一緒に帰ろっか」
 スピリアがシェアサイクルの便利さに感心していると、くすくす微笑むラクがキザったらしいウインクをして自転車に乗る経験も荷台に乗った経験もないスピリアはラクの手を借りて自転車の荷台に乗ることに成功した。
「この部分って人が乗ってもいいところでしたのね…。あっ、でも私が乗るとラクさんが大変になるんじゃ」
「スピちゃんは軽いから平気だよ。危ないからしっかり掴まっててね」
 安全のために言われているとわかっていても異性に触れた経験がないスピリアは妙に緊張してしまい、恐る恐る両腕を回した腰の太さや間近で見る背中が女の子のように端正な顔つきのラクの男らしさを強調していて、急に胸がそわそわして落ち着かない気持ちになる。ゆっくり走り出した自転車が切る風が火照る頬を冷ますにはちょうどよかった。
「おっあのカフェ苺フェアやってる!ねえスピちゃん今度一緒に食べにいこうよ」
「あら、カフェなんてありましたっけ。掴まることに集中していて見逃してしまいましたわ…!どっどのお店ですの」
 スピリアは通り過ぎたカフェを探してきょろきょろと首を振る。
「ははっスピちゃんはあんまりはしゃぐと危ないよ。じゃあ約束な」
 自転車を漕いでいるラクが楽しそうに笑った。さっきまではまるでドラマの中の街にいるような感覚がしていたのにラクと一緒だと驚くほど身近に感じられた。別世界の住人のように見えた女子高生たちもスピリアもただ自分の日常を過ごしているだけで根本的なことは何も変わらないように思えた。
 そのことに気付かせてくれた愛おしい背中に頬を寄せて、ありがとう、と囁いた声はおだやかな日常に紛れ夕陽に溶けていった。