TOP
2 ウェイクミーアップ そのA

 少年は、腕を治療した帽子の男が去ったのを確認すると、小さく呟いた。

「エンドルフィンマシーン」

 全体が緑色をしていて、頭が彼岸花のような形をしている人間のような何かが少年の背後に現れた。『エンドルフィンマシーン』と呼ばれたそれは、触診をするように倒れた男たちの体にそっと触れた。すると、飛び散った血の飛沫が吸い込まれるように切り傷に戻って切り口が塞がり、青あざが収束するように消え、殴られた衝撃で吹き飛ばされた歯が元に戻った。
 まるで最初から怪我などしていなかったかのように回復した男たちは、間もなく目を覚ました。

「なんだ? 妙に頭がすっきりしてやがる。もう酒が抜けたか?」
「あ、あレぇ? 顔を殴られて歯が抜けたような気がしたが……?」

 ゆっくりと起き上がった男たちは自分たちに怪我がないことを不思議がりながら、目の前に少年がいることを認めると顔をしかめた。

「なんだおめー、見てたのか。ちったあ加勢しやがれ」
「こんな子供に頼るなよ。それよりどうだったの? あの女の腿の付け根に人の顔のタトゥー、あったの?」
「ああ、ああ、確かにあったぜ。ちらっとだったが確かに見た。ピカソのムンクみたいな顔のタトゥーだった。お前の勝ちだ、クソッタレ」

 急かしたような少年の物言いにうんざりしながら、痩せ型の男の方が投げやりに言った。
 遡ること少し前、バールの外で靴磨きのバイトをしていたこの少年に賭けを持ちかけられていた。飲みに来ていた客の女の太ももに、人の顔をしたあざがあるかどうか、賭けるか。なんでも、最近アメリカではそういうのが流行っているらしく、あの女はアメリカっぽい発音の英語を話しているから、きっと入っているという話だった。
 男たちは信じなかったが、少年は入れている方に賭けた。勝てるに決まっている、とたかをくくった男たちの予想は見事に外れた。

「ちぇっ、そんな気味の悪いもん、女は彫らねぇと思ったのによォ。アメ公の考えてることはわからねぇ」
「お前は女の考えてることがわからねぇだけだろうが」
「はいはい、それよりおれに払うもの払ってくださいね。一人10万リラだぜ、10万リラ」

 男たちは互いに顔を見合わせ、そしてイラついた様子で少年に詰め寄った。

「てめーのようなガキによォ、本当に払うと思ってたのかこの間抜けッ! さっきの相手は喧嘩慣れした男だったが、一回りも小さいクソガキに遅れは取らねぇよ」
「大体、あの女とグルだったんじゃあねぇのか? 適当なこと言って、俺たちから金を巻き上げようって腹積りだったんじゃあねーのか? ああ、よく考えたらそうだぜ。いきなり、『あの女の太ももの付け根に人間のタトゥーがあるか賭けようぜ』なんて話、おかしいよな?」
「そうだ! お前頭いいな! そうだぜ、どう考えてもそうとしか考えられねぇ! ええ? おい、ガキ。そうなんだろ? コケにしやがって、計画が頓挫してざまぁみろってんだ!」

 喚き立てる二人に対して、少年はひどく冷たい眼差しで男たちを見つめていた。男たちが人の気配に敏感であったなら、あるいは男が落とした折りたたみ式のナイフを少年が持っていたことに気付けたかもしれないが、残念ながら彼らのうちどちらもそれには気がつけなかった。
 少年は突然ナイフを小太りな男の腹に突き立てた。ぎゃああああっと悲鳴を上げて男は地面に倒れこんだ。腹の分厚い肉のお陰で内臓までは達していなかったが、当然痛みはあるし、血も流れた。気絶していないのが不思議なくらいだった。

「あーららぁ、素直に払おうとしてれば財布は返してやろうと思ってたし、痛い思いもしなくて済んだのになぁ」

 少年は、声色は穏やかながら目は未だ冷たいままで、倒れた男を見下ろした。 

「お前らが気絶してる間に財布なんかとっくに盗ってるんだぜ。その方が効率的だしな。それでもお前らを起こしたのは、お前らの誠実さを見たかったからだ。払うものを払おうとする姿勢を見せてくれれば、口頭注意だけにしといてやろうと思ってたんだぜ」

 少年は、懐から男たちの財布を取り出すと、中に入っていた札をすべて抜き取り、空になった財布を投げ捨てた。

「それに、財布に金が入ってないのに賭けに乗るもんじゃあないな。10万リラで賭けに乗ったんだから、絶対勝てるって確信がたとえあったとしても、金は用意しとくべきだ。払う用意ができてねぇなら賭けは受けるもんじゃあない。当然のことだ。いいな? レッテリオ」
「ど、どうして、俺の名前を……」
「何だって知ってるぜ。お前の営んでるピッツェリア(ピザ屋)が軌道に乗ってること。売り上げを低く見積もってみかじめ料をごまかした上、それを滞納してること。お前の奥さんが今妊娠して3ヶ月目だってこともな。ああ、そうだ。おれはまだ子供だから詳しく知らねぇけど、赤ん坊ってそのへんにできるんだろ? ちょうど、今、お前の腹の、ナイフが刺さってる位置に?」

 そう言いながら、少年は男の腹に刺さったナイフの柄の先を人差し指で軽くなぞるように触った。
 ただでさえ真っ青になっていた男の顔からさらに血の気が引いた。

「バカでもわかるように言ってやると、だ。賭け事に使わず金を払え。お前の女房と子供がこうなる前にな」
「なっ、何を……ぎゃああああああっっ! あああ、あっ……あ?」

 少年はナイフを掴むと、それを一気に引き抜いた。男の悲鳴と同時に、ナイフによって塞がれていた傷口から勢いよく血が吹き出した。と、見えたのもつかの間のことで、次の瞬間には男の体は健康な肥満体に戻っていた。
 幻覚でも見ていたかのように体はまったく無事そのもので、ナイフにも血はついていなかった。だが男は感じた痛みは本物だと確信していた。事実傷口などどこにもないのに、腹の中はまだ焼けるように痛んでいた。

「お前も、わかってるな? イザッコ。ローマに住んでるマンマを大事にしろよ」

 少年は、ビクッと肩を震わせた痩せの男に相方のナイフを返すと、そのまま溶けるように夜の闇に消えていった。

「……い、今の、あいつは、まさかパッショーネの、」
「そ……そういえば聞いたことあるぜ。まだ中学に通ってるような年の子供だが、上の連中に……幹部だかボスだかに気に入られてるギャングがいるってよ……あいつが?」