憧憬




万屋に買い出しに来ていた山姥切国広は偶然、薄暗い路地裏で同位体と己の本科である山姥切長義が口を重ねている所を見てしまった。それは霊力供給といった様子ではなく、まるで恋仲のようなものだった。今すぐここから離れ、何も見なかったことにしなくてはと、そう、思うのに。国広は何故かその光景から目を離せずにいた。長義のあんな表情を見たことがないからだろうか。布を深くかぶりつつも、目が離せない。心臓が激しく脈打つのが自分でもよく解り、ごくりと唾を呑み込む。
ふいに、長義と目が合った。
ちらりとこちらに視線を向けられ動揺していると、長義がふっと笑った。それは何時もの皮肉げな表情だというのに、酷く、婀娜やかだった。だが直ぐに興味をなくしたように目を逸らされる。ぁ、と声が出たのは無意識だった。
「っ、山姥切……、」
「……は、偽物くんは待ても出来ないのかな。本丸に戻るまで我慢しろ」
軈て名残惜しそうに口を離した同位体が長義へと手を伸ばすが、駄目だとその手を掴まれる。む、と同位体は一瞬不満そうな表情を浮べるもなら早く帰ろう、と手を引き路地裏の奥へと消えていく。彼らの姿が大通りに出て見えなくなるまで、国広はその場に立ち尽くしていた。
その後の記憶は曖昧だ、何時の間にか本丸に帰っていたらしく気がつくと大門の前に佇んでいた。丁度兄弟刀である堀川国広が通りかかりお帰り、と出迎えられる。買い出しは終わった?と訊かれ、あ、と何度目かの声を洩らしながら視線を落とす。――何も持っていない。堀川きょうだいの不思議そうな顔が居た堪れなかった。


***


あれ以来、気がつくと長義を目で追うようになっていた。彼の姿を見掛けるたびあの光景が脳裏に蘇り、あの長義とこの長義は違うと解っているがどうしても重ねてしまう。あの様な表情を長義もするのだろうかと気になって仕方がないのだ。
別に、自分もああいう関係になりたいとは思っていない。いない、筈なのだが。どうにも落ち着かない。長義に対して苦手意識を持っていたというのに、今では姿を見つけるとついじっと見つめてしまう自分がいる。あんな事は早く忘れるべきだと思ってはいるが、それでも忘れられずに目で追っている。きっと、長義はその視線に気づいているだろう。何度か目は合っている、ただ長義が何も云ってこないだけだ。それにほっとしていた、いたのだ。
「――おい、偽物くん」
ある日、内番に組み込まれていた国広は畑へ向かう途中の廊下で呼び止められた。振り返ればそこには不機嫌そうな表情を浮かべた長義がいる。思わずびくりと肩を震わせつつ、写しは偽物とは違う、と返すのが精一杯だった。何か用か、と問う前に長義が不愉快そうに溜め息を吐きながら口を開く。
「いい加減、鬱陶しい。何か言いたいことがあるのならさっさと口にしろ」
「な、ん……っ、……なんの、事だ」
ぐ、と唇を噛み締める。今まで何も云われなかったので油断していた。なるべく平常心を装いつつそう告げると、へぇ?と長義が口の端を吊り上げた。それで誤魔化せるとでも?と言いたげな視線に国広は目を逸らす。そうして長義が折れて何処かに行くのを待っていたが、一向にその気配はない。そろりと目を向けると相変わらず長義はそこに居て、腕を組みながらこちらを見ていた。……どうやら今回は逃がさないつもりらしい。あぁ無理だ、と小さく息を吐き、国広は観念した。
「……この間、見たんだ」
「何を?」
「……他所の……俺とお前が……その、」
その先が云えなくて口籠ると、長義が怪訝そうな表情を浮かべる。早く云え、と促されるが、意を決して開いた口から音は出ない。はくはくと数度口を開閉させ、代わりにじ、と長義を見遣った。何だよ、と居心地が悪そうに長義が呟く。酷く困惑した声にそんな声も出せるのかとぼんやり思いつつも無意識に張り詰めていた気が緩んだのか、ぽつりと言葉が零れた。やっと出た声は震えていて、情けないものだったけれど。
「…………口、吸いを……、……して、いた」
それ以来、お前を見るとあの時のことを思い出して心臓が五月蝿くなるんだ、とは流石に云わなかった。云えなかった。だってそうだろう。それを伝えれば、まるで自分が、
そこまで考えて我に返る。一体、何を思って、と顔が赤く染まりそうになった瞬間、ふ、と長義の雰囲気が変わった。直後、聞こえてきたのは愉快そうな笑い声だった。
「……っはは!たかが口を重ねていただけで恥ずかしがるとは。童貞くん?」
「ど……っ!?」
ばっと顔を上げる。視界に映った長義は、何時もの澄ました表情ではなく、年相応の顔で笑っていた。余程国広の反応が面白かったのだろう、くつくつと楽しそうな声で笑うその姿は、普段の国広なら絶対に見られないものだった。童貞くん、と間近で呼ばれ、漸く国広は我に返る。写しは童貞では、と言い返そうとして、唇に何かが触れた。何が起こったか解らず呆然としていると、再びそれが重ねられる。先程の触れるだけのものではない、深いそれに呼吸の仕方が解らない。苦しい。だが、離れたくない。
けれど無意識に手を伸ばそうとした所で、あっさりと長義は離れていってしまった。
え、と熱に浮かされたような表情で呆然と彼を見遣る。先程の感触を思い出して思わず口元を手で押さえると、ふっと長義が笑う気配がした。
「ほらね、偽物くん。口を重ねただけでこんなにも真っ赤になるなんて、童貞としか言えないだろう?」
「ぁ……、」
用は済んだとばかりに立ち去ろうとする長義に手を伸ばし、待ってくれ、と呼び止める。もっと、と声に出さずとも伝わったのだろう。足を止めてこちらに振り返る長義は、


「――不可だ、偽物くん。あれは恋仲同士がするものだよ」


あの長義と同じ皮肉げな表情で、酷く、婀娜やかだった。