海の匣


※人魚パロ



海には人魚が棲んでいる。
海を操る『力』と、見目麗しい姿に美しい声。だが彼らはただ美しいだけではなく、時には人間を惑わせ、海へと引き摺り込む事もあるのだ。海底に誘い込まれた人間が地上に戻って来る事はない。だからこそ、船乗り達は祈るのだ。人魚に逢わぬようにと。
それでも人間はその美しさを求めて人魚を捕獲し、人魚は人間を海に沈める。人間と人魚はそんな関係だった。


***


嬉々として演説する男を尻目に、山姥切長義は溜息を吐いた。くしゃりと髪を掻き上げ、ちらりとでかでかと置かれた水槽に目を向ける。
あちらこちらに並べられた水槽の中で、人魚が漂っていた。どれもこちらに対して敵意を剥き出しにしていたり、虚ろな目を向けている。
人魚の蒐集はお金持ちの道楽では珍しくもない。如何に数多くの人魚を所持しているか。そしてそれをお披露目会という名のパーティーとして招待状を送りあうのだ。多ければ多いほど周囲の羨望を集める。現に長義の冷めた内心とは裏腹に会場は大いに盛り上がっていた。この船上パーティーは大成功と云っていいだろう。
そもそも長義が此処にいるのは体調を崩した父の代わりだ。人魚に興味はない長義にとって、この会場は苦痛で仕方がなかった。水槽から目を逸らすと、会場から抜け出す事にした。向かうのはキャビンではなくデッキだ。
「……あぁ、お前か」
涼しさを求めてデッキに来たのはいいが、先客がいた。見覚えのあるその人物に思わず眉を顰めると、こちらの気配に気づいたのか背を向けていた男が振り返った。目が合うと感情が読めない顔で一言洩らし、再び前を向く。だから長義も何事もなかった様に距離を開けて夜の海を眺めた。
山姥切国広。長義の従兄弟だ。どうやら彼らもこのパーティーに招待されたらしい。そういえば主催者に挨拶しに行った時、彼の父の姿を見かけたような気がする。
暫く互いに無言で海を眺めていると、国広がぽつりと呟いた。
「……、……意外だな」
「……何がだ」
「お前もこんな所に来るんだな。人魚には興味ないと云っていなかったか?」
「父の代理だ。でなければこんな所には来ない」
「あぁ、成程。……、」
国広が口籠る。会話の内容を探しているその様子に、長義はふと疑問を抱いた。普段は口数が少なく会話をしようとしない癖に、今日に限ってどうしたというのか。
「……お前、人魚について噂を知っているか」
「今日は随分お喋りだな?……まぁ、いい。それで、噂だって?あの眉唾な話の事か?」
人魚の肉を食せば不老不死になるという、何とも下らない内容だ。だが実際、その話を信じて人魚の肉を食している者もいるとか。
そして噂はこれだけではない。人魚の涙は宝石になる、というものだ。が、どうやらこちらは作り話の様で、人魚を買い取った人間が涙を流させようと散々痛めつけてもその涙が宝石になる事はなかったらしい。
「いや、違う。……人間が人魚になれるという噂だ」
「は?」
国広が口に出した言葉に、長義は耳を疑った。人間が人魚に?有り得ない。
実際、長義の態度は表に出ていたようだ。俺も詳しくは知らない、と国広は云った。
「知り合いからそんな噂があるらしいと聞いただけだからな。……お前は詳しく知っているかと思っただけだ」
「へえ?……生憎だが、俺も知らないな。お前から初めて聞いたよ」
「……そうか」
興味がなくても、噂は自然と耳に流れ込んでくる。だから国広は己に訊いたのだろう。口を閉ざした国広を長義は横目で観察した。……矢張り、国広はよく似ている。
「ッ!何だ、急に……!?」
その時だった。ぐらり、と何かが傾いた感覚。いや、何かがとは正しくはない。何が傾いたかなど、ここでは一つしかないのだから。急に大きく波打った海に、船体が揺れたのだ。落ちないよう、長義は目の前の手摺にしがみ付いた。少しでも気を緩めれば持っていかれそうだった。
然し、何故急に荒れだしたのだろう。先程まで海面は穏やかだったというのに。
「くそっ、戻れそうにないな……」
ガタン、と一際大きく船体が揺れた。
そして突然の浮遊感と共に。気が付けば、長義は海へと投げ出されていた。
「――」
声が出ない。長義!と驚く国広の声だけが聞こえて、それから。長義の躯は水底へと深く沈んでいく。
嗚呼――くそ。
こんな所で、俺は死ぬのか。
海へと投げ出されてからあっという間だった。国広の声は既に遠い。水面に浮かび上がろうと足掻いても、荒れ狂う波に邪魔をされる。ゆっくりと沈んでいく躯に酸素が足りなくなって、段々と意識が途切れていく。視界が白く滲み始める、そんな中だった。水中からこちらを見つめる視線を感じ、長義は最後の力を振り絞ってそちらを見遣る。人魚だ、あの時の。それを最後に、長義の意識は途切れた。


***


――昔、人魚に助けられた覚えがある。
長義がまだ幼い子供の頃だった。従兄弟の国広と父が所有する別荘に遊びに行った日の事。その日足を滑らせて、長義は崖から落ちて海に転落してしまったのだ。陸地へと目指しながらもこのまま死んでしまうのかと僅かながら不安を抱く中、長義は人魚と出逢った。
国広によく似た、人魚だった。
最初は国広が助けに来たのかと思った。だが直ぐに違うと解った。何故ならその『国広』は脚がなく、代わりに尾びれがあったのだ。『国広』は己を見て驚いた様子をみせた後、沈みそうな長義の腕を掴んで泳ぎ始め、海岸まで送り届けてくれたのだ。長義が意識を取り戻した時には既に『国広』の姿はなく、お礼を云えなかった。だから代わりに、あの人魚が人間に捕まることなく無事に生きられる様に祈った。それが長義に出来る精一杯の礼だと思ったから。
命の恩人を見世物のように扱う気にはなれない。その日から長義は人魚に対して無関心を装った。父も己の態度を見て人魚の話題を振ることもなく、そうやって今日まで人魚と無縁の生活を送ってきたのに。こんなことならば何かと理由をつけて断っておけば良かった。
「……、……!」
「……?」
ぱちん、と弾けるかの如く。長義の意識は浮上した。酸素がなくて苦しい筈なのにそれさえもない。ふと、声が聞こえた気がする。地上に戻って来たのだろうかと微睡む意識の中周囲を見回して、ここがまだ海の中だと理解した。なら、誰が自分に声を掛けてきたのだろう。そう思っていると、己を見つめる人物に気が付いた。
「う……、……国広……?」
「嗚呼、良かった。成功したんだな」
国広がここまで潜ってきたのかと思った。だがよく見れば違った。脚の代わりに尾びれがあるのだ。昔逢った時より成長しているが、間違いない。あの時助けてくれた『国広』だ。完全に意識を取り戻した長義に、嬉しそうに人魚くにひろが笑った。
「……済まない、お前を助けるためにはこうするしかなかった。どこか具合が悪い所はあるか?」
「悪くはない……が」
先程とは一転、『国広』が不安そうな表情を浮かべる。寧ろ調子はいい。何故か水中でも呼吸が出来るのだから。まるで人魚にでもなった様な気分だ。……人魚?
ハッとなって躯を見下ろしてみる。ある筈の脚。それがなかった。あるのは――尾びれだ。長義は国広が云っていた噂を思い出す。
「……噂は本当だったと云うわけか」
「?何だ、陸ではそんな事が話題になっているのか?」
自分の身に起こってしまった以上、噂は本当だったと思うしかない。困惑する長義を見た『国広』は、世間話をするような口ぶりで噂の真相を教えてくれた。
「昔、人間に恋をした人魚がいた。だが棲む世界が違う以上共に暮らせない。人魚の同胞達は別れるべきだと諭した。それでも諦めきれず、人魚は悲しんだ。悩んで、そして思いついたんだ。相手が自分と同じ種族になればいいのだと。人魚はそれを実行した。そしてそれは叶った」
「……」
「それ以来、人魚の間でこの、恋を叶える魔法が広がったわけだ。だがこの方法は必ず成功するとは限らない。大体の人間が肉体の変化に耐えられず死んでしまう。それでも、諦めきれない人魚達はその方法に賭けて人間を海に引き込む」
だからお前が成功して良かった、と『国広』が云う。縋るような目つきで背中に腕を回され、抱きしめられる。
「本当に済まなかったと思っている。だが見つけるのが遅すぎた。それでもお前を死なせたくなかったんだ。だから、俺と共に生きて欲しい――死ぬまでずっと」
「……………随分と重い告白だな」
熱烈な告白だ、と何処か他人事のように思った。
死にたくはなかった。だが、それでも。人間を止めてまで生きたいとは思っていなかった。だから例え善意からだったとしても、その方法でなければ助からなかったというならば。そのまま死なせて欲しかったと思っていたのに。
……けれどこうなってしまった以上、もう、どうしようもない。何を云おうが終わってしまった事は変えられないのだ。だから、ただ静かに受け入れることにした。









「――嗚呼、やっと手に入った」