悪戯は程々に。
「えっと……フリンズさん、なんですか?」
ふわふわの毛並みをした猫とそれを抱き抱える旅人を交互に見ながら困惑気味に呟けば、そうですよとでも云うかのように目の前の猫がにゃぁと鳴いてみせた。
「信じられないかもだけど、うん。フリンズに秘境探索を手伝って貰ってたんだけど……秘境に入って少しして突然こうなったんだ」
「成程……それで暫くフリンズさんを見ていて欲しいと」
「俺の所為でこうなっちゃったんだから俺が面倒みるべきなんだけど……緊急の依頼が入っちゃってさ」
だから依頼が完了するまでお願いしたいんだ、と申し訳なさそうに謝る旅人に構いませんよと頷けば、ほっとしたように表情が緩んだ。じゃあお願い、と腕を差し出してきたので抱き上げると、にゃあと小さく鳴いた後すりすりと頭を擦り付けてくる。可愛いですね、と思わず撫でてしまいそうになるのをぐっと堪えた。
「精神まで猫になってるのか解らなかったけど……その様子だと中身まで猫になってるっぽい?」
「多分……。……でも、こうなってしまっては仕方ありませんね。フリンズさんには提出して頂きたい報告書があったのですが……」
「え、そうなの?今日は休みだから手が空いてるって云ってたのに……」
事情を話して提出期限の延長を申し出るしかないでしょう、と大人しく抱かれているフリンズに視線を向ければ、彼は何の話ですか?とでも云いたげに短く鳴き首を傾げる。
「……って、御免そろそろ行かないと。依頼が終わったらまた様子を見に来るよ」
「はい、お気をつけて」
慌ただしく踵を返して去っていく旅人を見送って、その姿が完全に見えなくなると預かった猫――もとい、フリンズを抱え直し自宅に向かって足早に歩き出した。報告書を提出しなければならないのはフリンズだけではないのだ。尤も、彼とは違い自分のはまだ期限内に余裕を持って仕上げられる量だが。
ふと空を見上げれば雲が空を厚く覆っており、今にも雨粒を落としそうな雰囲気だった。これは急いだほうがよさそうだな、と思いながら歩く速度を上げると、それに合わせてフリンズの尻尾が揺れ動く。……可愛い。――いや、そうじゃなくて。
「……早く元に戻るといいですね」
「にゃぁ」
ぽつりと洩らした言葉に答えるように、フリンズが小さく鳴き声を上げた。
***
「フリンズさん。大人しくしていてくださいね」
雨が降り出す前に無事に帰宅すると、リビングへ向かいソファへそっとフリンズを下ろす。じっとこちらを見上げていたが、その後直ぐに丸くなった。時折耳が動いているので眠ってはいないのだろう。耳の動きに合わせて揺れる尻尾が何とも可愛らしい。触りたい。うずうずする手を何とか抑え込みながら報告書を作成するべく机に向かう。ある程度書き溜めてはあるのでそんなに時間は掛からないだろう、ペンを取って紙の上に滑らせていく。
「みゃあ」
「あ、駄目ですフリンズさん!」
無心でペンを走らせていると何時の間にか机の上に乗り上げたらしいフリンズがぺしぺしとペンを持つ手にじゃれついてきた。そんなものより僕を構って下さい、とでも云いたげににゃーにゃーと鳴いたかと思えば、今度はぐいぐいと頭を押し付けてきた。柔らかな毛並みの感触はとても気持ちが良い。ふわふわとしたそれに思う存分触れてみたいと思うが、触れたら最後夢中になってしまうだろう。まだやるべきことがある以上、それは出来ない。だからそっと彼を抱き上げて床へと下ろした。そうしてペンを持った所で、再び机に飛び乗ってきたフリンズがまた手に擦り寄ってくる。
「フリンズさん、大人しくしていて下さい」
「にゃッ!」
これでは報告書が書けません、と彼を持ち上げれば、嫌です!と云わんばかりに短く鳴かれた。するりと腕の中から抜け出し、机の上に陣取るとそのまま躯を丸めてしまう。これでもう何もできませんよね、と満足げな表情をして再度鳴く。はぁ、と深く溜め息を吐いて彼のご希望通り取り敢えず頭を撫でれば気持ちよさそうに目を細める。暫く撫でた後、机の上から退かそうと抱き上げるも、不満げに鳴きながら抜け出して再び机の上に戻ると先程と同じように丸くなってしまう。
「フリンズさん……」
「にゃぁお」
何か問題でもあるんですか?とでも云うようにフリンズが鳴いてこちらを見上げる。これで最後ですよ、と顎の下を撫でてやるとごろごろと喉を鳴らして目を細めた。気持ち良さそうだなぁとそれを眺めつつ、ひとしきり撫で彼が満足した頃を見計らって手を離す。然し直ぐに躯を起こして抗議するように鳴きだした。
「駄目です、終わったら遊んであげますから……」
ですから下りて下さい、と声を掛けても、報告書など後でもいいではありませんかと云いたげに不服そうに鳴いて尻尾を机の上に叩きつける。こちらを見上げ何度も鳴いては催促してくるフリンズに溜め息を吐いた。……仕方がない、最終手段を使うしかなさそうだ。
そっと手を伸ばし、顎の下――ではなく、尻尾の付け根を軽く叩く。すると一瞬驚いたような表情をしてびくりと大きく躯を震わせた後、何が起こったか解らない様子でこちらを見てきた。それを無視して、とんとんと一定のリズムを保ちつつ叩いていけば次第にその瞳がとろりと蕩けていき、ごろごろと喉を鳴らす音が聞こえ始める。お尻を高く上げ甘える様な声で鳴いたかと思うと尻尾をぴんと立て、軅てだらりと力を抜いてその場に伏せてしまった。……後で怒られるかな、これ。
まあいいか、幾ら云っても全く聞き入れてくれないのだから仕方ない。兎も角、ここまでくればこちらのものだ。素早くフリンズを持ち上げ、ソファに寝かすと報告書に取り掛かることにした。
***
それから何時間経っただろうか。最後の一文字を書き終え、漸く終わったとばかりに凝り固まった背を伸ばす。さてフリンズさんは、とソファの方を見ようとしてそれより先にどうやら終わったようですね、と背後から声が掛けられた。フリンズさん?と驚いて振り返ればそこには見慣れた姿があり、良かった、戻れたんですね、とほっと息を吐いた。
「……坊ちゃま」
「はい?なんでしょうか」
じ、と見下ろしてくるフリンズを訝しげに思いながら見返せば、すっと彼の手が伸びてきて抱き上げられてしまった。え、と声を上げる間もなくそのまま歩き出されソファに下ろされる。流れるように肩を押され押し倒されてしまえば逃げられなくなってしまった。
「……あの、フリンズさん?どういう……」
「いえ、先程は坊ちゃまに散々
仕返しというものをやってみようかと思いまして、と頬に触れられ軽く撫でられる。何の話ですか、と云い返そうとして、自分がやったことを思い出した。……思った通り、フリンズは根に持ったようだ。
「あれはフリンズさんが悪いですよ!何度云っても云う事を聞いてくれなくて……」
「言い訳とは見苦しいですよ、坊ちゃま」
――大人しく『悪戯』されて下さい。
にこりと微笑みながら告げられた言葉にひくりと頬が引き攣った気がした。言い訳ではなく……!と反論しようとして、けれどそれよりも先に口を塞がれてしまい声にはならなかった。