ぬくもり





――油断した、としか言いようがなかった。
何時もの見回りの最中、見慣れない秘境を見つけたので入ってみればこれだ。秘境内の魔物は全て倒し終わっていて後は帰るだけとなった時にそれは唐突に起こったのだ。足元が揺れ次の瞬間ぐにゃりと世界が歪んだかと思うと視界が一気に低くなった。戸惑っている間に外に放り出されていて背後を振り向いても、そこにあった秘境は跡形もなく消え去っている。慌てて近くの水場に駆け込んで水面を見れば一匹の小さな白い子犬がいた。
「わふっ!?」
え!?と呟いた筈なのに口から出たのは犬の甲高い鳴き声だった。そんな莫迦なと思いながら試しに口を開いて声を出そうとしたけれど出てくる音はどれもこれもただの犬の声だ。どうしよう、と水面に映る自分を見ていると感情を表すように耳がへたりと垂れる。
こんな姿を誰かに見られるわけにはいかないし何より恥ずかしい。どうすればいいかは解らないが兎に角誰かに見つかる前にここから離れなくてはと思った、その瞬間だった。
「――おや、こんな所に犬、ですか……」
「きゃんっ!?」
背後から見知った人物の声と共に草を踏み分ける音が聞えてきて思わず躯が跳ねる。振り返ると想像通りフリンズが其処に立っていた。珍しいですね、と小さく呟きつつ困った様な表情を浮かべている。……彼になら事情を説明してもいいかもしれない。そう思いフリンズさん!と声を上げようとして、けれど果たして彼は自分だと気づいてくれるのだろうかと考え直す。何せ今の己は人の言葉を喋れないのだ。もし逆の立場だったら犬になっているだなんて考えもしないだろう。結局、こちらをじっと見下ろすフリンズに気づいてくれないだろうかと思いつつ見つめ返すことしか出来なかった。
暫く見つめ合う中、ふむ、とフリンズが手を顎に当てながら呟く。
「よく見ると……何だか坊ちゃまに似ていますね」
「わんっ……!」
本人です!と彼の足元まで駆け寄るとそう訴えるように見上げる。困ったように眉を下げながら貴方は僕を怖がらないのですね、なんて呟くものだから怖くなんてないですよと答えた。といっても口から出るのは言葉にならないただの鳴き声だけれど。
「おや……まるで僕の言葉を理解しているようで」
「わん!」
「……まさかとは思いますが、本当に僕の言葉がお解りになるので……?」
「わうっ!」
半信半疑といった様子で見つめてくるフリンズに解りますよと返事をする。お願いです、気づいて下さい……!と訴えかけるように見つめていると、再び新たな足音が聴こえてきた。咄嗟にフリンズの後ろに隠れる。
「――フリンズ!隊長を見なかったか?」
「イルーガ坊ちゃまを?いえ、見ていません。……どうかされたのですか?」
どうやら足音の主は隊員の一人だったらしい。焦った様子で尋ねてくる彼に何かあったのですかとフリンズが聞き返す。普段ならもう帰ってきているのに見回りから戻ってこないんだと呟くのを聞いて、自分の意志とは別に耳と尻尾がぴんっと立つのを感じた。まずい、皆に心配されている。けれど今の姿だとフリンズのように解っては貰えないだろうしどうすれば……、
「成程……解りました。こちらでも捜してみます」
「頼む!何かあったらクリフサイドキャンプに連絡してくれよ」
じゃ俺はあっちを捜してみるから!と言い残して走っていく隊員の背を見送り、その姿が完全に見えなくなるとフリンズがこちらを振り返る。何か考えるように手を顎に当てたかと思うとぽつりと小さく呟いた。
「……貴方、もしかして坊ちゃまですか?」
「わん!!」
そうだとばかりに必死に頷く。やっと解ってくれたんですね、と安堵した瞬間いきなりひょいと持ち上げられて、目が合った。
「ふふ……随分可愛らしくなってしまわれましたね、坊ちゃま」
「きゅぅん……」
「おやおや、何を云っているのかさっぱり解りません。心配しなくとも大丈夫ですよ。恐らく地脈異常が起きてこうなってしまっているのでしょう、暫く経てば元に戻ります。……戻るまで僕が面倒をみますよ」
嗚呼でもその前に坊ちゃまが見つかったと報告しないといけませんね、と抱きかかえられて歩き出す。皆にこの姿を見られるのは羞恥を感じるが、心配をかけてしまっている以上仕方がない。
そうして彼の腕の中に揺られていると次第に恥ずかしさよりも一定の振動による心地良さが勝ってくる。眠らないように意識を集中させようとするも、温かい腕の中でゆらゆらと揺れる感覚が眠気を誘って段々と瞼が重くなっていく。
「……坊ちゃま、お疲れでしょう。お休みになって構いませんよ」
「わふ……」
己の様子に気づいたらしいフリンズがそっと声を掛けくる。寝かしつけるように背中を撫でられると意識がどんどん遠のいていって、深く沈んでいった。


***


次に目を開くとそこは見慣れた天井があった。ふと手を手をかざしてみればそこにあるのは人間の手でほっと胸を撫で下ろす。躯を起こした拍子にするりと毛布が滑り落ちた。どうやらソファに寝かされていたようだ。起きたことに気づいたのか、目が覚めたようですねと近くで椅子に座って本を読んでいたらしいフリンズが顔を上げた。
「フリンズさん。……すみません、御迷惑をお掛けして」
「いえ、お気になさらず。可愛い坊ちゃまの姿も見られましたしね」
からかわないで下さい、と恥ずかしさから頬を赤く染めて抗議する。するとですが事実ですので、と返された。
「寝ている子犬姿の坊ちゃまに皆さん釘づけでした。愛らしすぎて中には写真機で撮ってらっしゃった方もいたようですし」
「そ、それは困ります……!」
ふふ、と何処か楽しそうに告げてくるフリンズに慌てて声を上げる。何というか、複雑な気分だ。
まあ写真の方は後でどうにかするとして。兎に角、元の姿に戻れて良かったと安堵する。……それにしても、
「おや坊ちゃま、どうかなさいましたか」
「え?……い、いえ、何でもありません」
感じたそれを云えるわけもなく曖昧に誤魔化すように笑う。きっと気のせいだろうと納得させるも、彼から向けられる視線がそれを赦してくれない。坊ちゃま?と再度呼ばれて促される。
「……その、ずっと抱きかかえられていた所為で君の腕の温もりを覚えてしまったようで……だから、……少し寂しく感じてしまって」
羞恥心からまともに彼の顔を見ることが出来ず視線を逸らしながらも何とか告白する。成程、と呟く声が聞こえ、それから彼がこちらに歩み寄ってきて隣に座る気配がした。ちらりとそちらを窺うように見ると思いの外近くに彼の顔があって驚きつつも目を離せないでいると、ふいに手が伸びてきて頬を撫でられた。では、とフリンズが口を開く。
「今日は僕も一緒に休みますので傍に居ましょう。これで寂しくはないですよね」
「……子供扱いしてませんか、君」
じろりと見遣ればおや心外です、と返された。そっと顔を耳元へと近づけられ、囁くように告げる。



「――恋しい相手に触れていたいという純粋な想いからですよ」