瞬間はじけて、少年の身体を包む。
自分のからだが自分の物で無いように曖昧になっていく。輪郭が朧気になる。意識が消える。少年は少年であることを忘れ、水底に沈む。
つきのいし しろくかがやく ひかりのいし しろい あおい ひかり つよい もえる あか くろ ゆめ――ほうせき
怖い? ――どこからか声が聞こえる。
さみしい? ――どこからか声が聞こえる。
さみしくないよ けれどつめたい なにもない ここは 思い出せない つめたいばしょ
怖い? ――どこからか声が聞こえる。
さみしい? ――どこからか声が聞こえる。
うつくしい けれどつめたい なにもない ここは 思い出せない つめたいばしょ
怖い? ――どこからか声が聞こえる。
さみしい? ――どこからか声が聞こえる。
「この夢は、ぼくの幼馴染みしかまだしらないんだけどね」
とじる
さめる
なくす
ひかる
きえる
つよく
しろい
つきのひかり
そう ここは みずのそこ
「ぼく、宝石鑑定士になりたいんだ」
すばらしいね すてきだね かなうよ きっとかなうよ かなえようね ぼくの 僕の わたしの 私の
ひかる あれはなに あの ひかり なに どこ ここ みなそこ
ああ つきが ひかってる
はじまり
おしまい
えいえん
ゆうげん
暗転
「え?」
単純な驚きの声。黒塗りの受話器を耳に押し当てる自分の母親に、ミチは黒い目を向ける。ざわりと空気がゆらぐ。笑顔だった母の顔は固まり、ゆっくりとほぐれていく。瞳が真っ直ぐ壁を見ていて、口元が僅かに震えている。嫌な予感がする。胸の中で虫が羽を動かしているような、ざわざわとした嫌悪感。自然な仕草で口元に持って行かれた右手が、頼りない。
何事か、とミチが立ち上がると、びくりと肩が跳ねる。おかあさま。ミチはつとめて柔らかい声で母に話しかける。彼女の母は少々感情的なところがある。そして心が壊れ物のように繊細なのだ。母が動揺しているとき、必ずミチは穏やかに笑って話しかける。そうすることで、母の内側から感情を高ぶらせるきっかけとなったことを、上手に引き出す。おかあさま。ミチがもう一度彼女をよぶと、ミチと同じ髪色をした母ははっとしたように電話を耳に当て直す。手短に二言話して、受話器を丁寧に置く。
「ミチ、貴女、今日は誰と一緒に帰ってきたの」
「いつもどおり、キルとフーと一緒に帰ってきたわ」
「フー、というのはオフィーリア・スミスコラスくんで間違いないわね?」
「ええ……そうだけれど……おかあさま、どうしたの」
ためらうように黒の瞳が揺れる。薄い紅色の唇が、形作る言葉。
感覚が一つずつ、機能しなくなる。まず最初に機能しなくなったのは口だった。少しだけ開いたまま、固定される。ひゅう、という喉の音さえ聞こえない。自分の心臓の音も聞こえなくなる。耳が機能しなくなる。呼吸が出来なくなる。心臓がつめたくなって、床に転がったようだった。自分が内側から石になっていく。母の口から生まれた言葉一つで、魔法に掛けられたように。全身が自分の物で無くなる。置物のように固まって、動かない。けれども頭の中は、何よりもつめたく鋭く素早く機能していた。
窓の外はもう紫色に染まっている。白い星が光る。それがどんな意味を示すのか、この世界に生きる人間ならわからないはずがなかった。ここから先、人間に自由は無い。境界線はとうにこえている。ここから先に自由は無い。自由を与えられているのは、魔女だけ。
今すぐこの足を動かしたい気持ちを、彼女の母の視線が床に縫い付けていた。時が経てば立つほど一針、一針、靴の裏と地面が縫い付けられる。この靴を脱いで飛び出せば良いのに、ミチにはそれができない。広い庭を走ることが出来ても、その先の門を開けて外に出ることは出来ない。してしまえるほどの思いは、ミチに存在した。けれども、ミチの母は注意深くミチを見ていたのだ。ミチという人間をミチ以上に知っている彼女は、ミチのそんな思いが見えているかのように、一秒たりともミチから目を離さなかった。フォークで口に食べ物を運ぶ動作も、お風呂場に向かって階段を上る足も、見逃さない。おやすみなさいのキスをして、彼女が部屋に籠もった後も、ドアの外から圧力を感じるほどだった。
魔女。人間。ふたつの種族が生きるこの世界に、もうひとつ。存在するもの。
ぼんやりと発光し空気にほんのすこし浮いている生き物。人型から逸脱した半透明の奇怪な姿。佇まいははっきりとせず、浮かぶ表情の得体は知れない。彼らは何も話さず、何も食べない。けれども彼は、手を伸ばす。街角から。湖の畔から。海の砂のきらめきから。植物のすきまから。彼らは人間を求める。人間に触れる。そして触れられた人間は、何かを失う。
彼らが呼吸をしているのか、していないのか。言葉というコミュニケーション能力をもっているのか、もっていないのか。何も知られていない。なぜなら、彼らに触れられたものはすべて、触れられた場所から少しずつ、人間の輪郭を失っていくからだ。
魔女、人間。ふたつの種族は彼らに触れられたとき、もう魔女でも人間でもなくなってしまう。そのひとを作り上げていた物が、少しずつ綻んでいく。外側から、内側から。それは少しずつだけれど、決して遅いスピードでは無い。
一度失えば、元に戻ることは無い。こわれたものは、もとにはもどらない。失うスピードを遅めることはできても、完全に進行を止めることは難しい。無理に失った物を元に戻そうとすれば、さらに消失の速度は加速していく。手の施しようが無い先まで。
――ひとびとは、この消失を「呪い」とよぶ。
防ぐことの出来ない、暴力的なもの。そういう意味を込めて、呪いとよぶ。まがまがしい物として。
亡霊から身を守る術を、人間は持たない。亡霊に抗う力を持つのは、魔女だけだ。
魔法を使うことの出来ない人間に、夜の自由は無い。亡霊に抗うことの出来ない人間に、夜は歩けない。幸い、亡霊は家に入ることは出来ない。どうして入ることが出来ないのかはまだ解明されていないけれど、人間は唯一安全な家の中に籠もり、夜明けを待つ。もう何百年も、人間はそうして生きてきたと言う。
人を傷つける魔法が使えない魔女。亡霊だけ傷つけるが出来る魔法。亡霊に抗う力を持ち、類い希なるうつくしい力を持つ彼らは、けれども人間に虐げられている。差別されている。人間は彼らを、気持ちが悪いと遠ざける。畏怖の念を抱く。魔法が使えない人間は、「魔法」という異分子に拒絶反応をみせる。魔法という便利なものに生かされていることをなおざりにして、彼らを批判する。そうすることで人間は、夜という特権を得た彼らから昼を奪う。彼らを夜のくらやみのなかにとじこめる。自分たちが彼らよりも劣っていると、少しでも思いたくないから。
おろかしいことだとミチは思う。可哀想なのはわたしたちだと、思う。
誰かを差別することでしか、誰かを自分よりも低い存在であると思わないと立っていられない。そんな優越感は、まがいものだ。
いえばいいのに。夜の自由が欲しいのだと。魔法というふしぎなちからがうらやましいのだと。空をとんで、みたいのだと。
亡霊におびえない生活が欲しいのだと。亡霊に大事な物をうばわれるかもしれないという恐怖から、脱したいのだと。口にすれば良いのだ。
ミチは思う。脳内に描く、優しい碧の髪。干し草の色をしている、おだやかな茶色の瞳に。
いますぐこの屋敷を飛び出して、探しに行きたい。どこかにいるのでしょう。どこかしずかなばしょで、とても安全なところで、あたたかいふとんでねむりについていて。心から願う。ほんのりばらいろに色づくそのほっぺを、清潔なシーツにくっつけて。どうか瞳を閉じていて。そしてあさになったら、あさになったら、なにもなかったみたいに。
――『オフィーリアくん、お家に帰っていないらしいの』
出窓の棚の部分に座って、閉じられた硝子の窓越しに外を見る。広い庭は夜の闇に染められている。ミチの瞳は庭の草花の緑色を捕らえることは出来なかった。お気に入りの茶葉のにおいもここまでは届かない。窓を開けようとしたとき、小指のつめほどの石が硝子にあたった。こつん、という音をたてて、石が下に落下していく。思わず窓を開けて石に手を伸ばすと、つめたい手に二の腕の辺りを強く掴まれた。
「この高さで落ちて、無事で居られる自信でもあるの」
ささやくような声は、それでもたしかに怒気が混じっていて、ミチはちいさくごめんと返した。黒いとんがり帽子に、綺麗な赤毛が隠れている。きれいなかたちの瞳も、大きすぎるとんがり帽子のせいで何も見えなかった。黒い長いローブのはしっこが、ミチの足に少しだけ掛かる。つきのひかりが彼の背中を強く照らしている。黒いシルエットがミチの部屋に刻まれる。人間が、魔女に義務付けた衣装。魔女であるしるし。風で彼の黒いローブの襟が揺れるたび、植物と土と、みずのにおいが広がった。僅かに上下してる肩。乱れた息が、彼が急いでいろんな場所をとびまわっていたことを無言でミチに伝える。キルのこの姿を見るのは、二回目だった。
「キル、また庭を出て。お母様に怒られてしまわない?」
「よく言うよ。この間箒に乗せろって大騒ぎしたのは誰」
「あれはしらなかったの、まじょが庭の外に出るのがいけないことだって。空には亡霊が居ないから大丈夫だと思っていて……危ない目に遭わせてごめんなさい、キル」
「別に謝れとはいってないだろ。――そんなことより」
キルはそこで一度言葉を切った。ミチは黙ってキルの言葉の続きを待った。お互いに何を言いたいかはわかっていた。キルは箒に器用に腰掛けたまま、窓の高さで静止する。ミチは出窓の部分に膝を抱えて三角座りをしたまま、キルを見ていた。
「地面には流石に下りてないけど、いきそうなところは全部一通り飛んできた。――でも居なかった」
どこかの民家に保護されているか、誰か友人のところに泊まっているか。あるいは。そこで口を閉ざす。キルのにごした言葉の先を理解することはしなかった。ミチは何も聞こえなかったように振るまった。そんな彼女に、キルは僅かに眉を寄せる。でも深く追求はせず、「一箇所だけ探してないところがある」と呟いた。ミチが顔を上げる。黒い夜の目のなかに、まあるい月が浮かび上がる。キルが少しだけ目を細めた。
「みずたまり。――あそこは林におおわれているから、箒で近づくのは無理よね」
「そう。あそこだけ、探していない。でも、もしあそこにいたとしたら」
ミチはまた何事も無いような表情をする。キルは掴んだままのミチの二の腕をもう一度引っ張った。僅かにバランスを崩したミチが、そろえた足首の前で結んでいた手をほどいて、おしりの後ろにつく。キルの燃えるような瞳が、夜の色に覆われてむらさきいろのようにひかる。どうしたの、とミチが言う。どうしたのキル。それに、キルがなにかをいいかけて、やめる。悔しそうに舌打ちをして、顔を逸らす。ミチはその様子をふしぎそうに見つめる。ねえどうしたのキル、その言葉に、なんでもない、とキルがこぼす。
「明日、もし学校にスミスが来なかったら、僕は探しに行く」
「……」
「お前は来るなよ」
どうして、と言おうとした瞬間強く風が吹いた。勢いよく窓が閉まる。目を強く閉じて、開いたときには、もうキルの姿は何処にも見当たらなかった。
風によってまいあがった、白いカーテンが元の位置に戻る。窓の鍵をしめるか迷って、開けたままにする。ベットにそっと足を入れて、ふとんをあたまのさきまでひっぱりあげた。暗闇に包まれて、目を閉じる。シーツの冷たさが、足に染みた。
空白。ぽっかりと穴が開いたような空白。今日に限って、欠席が一人も居ない。彼の幼馴染み、アルバルトは昼休みから登校するという連絡があった。空白は目立った。オフィーリアとアルバルトを抜いた全ての生徒がクラスに揃っていた。どうやらオフィーリアのことを知っているのはミチとキル以外に誰も居ないようだった。多くの生徒は彼が今どういう状態なのか知らないようで、教室の雰囲気はほとんどいつも通りだった。
ねえどうしたんだろうね。風邪じゃないかな。そんな柔い質問が飛び交う。オフィーリアと仲の良いミチとキルの元に何人かが「オフィーリアはどうしたの?」とやってきた。話しかけられるのはほとんどミチで、キルはずっとミチの隣の席で黙って開いても居ない教科書とにらめっこをしていた。
アルバルトが居ないせいか、余計に質問はふたりに集中した。仲の良い彼らなら知っているのではないか。その言葉には重い雰囲気はまったくなくて、キルの神経をだからこそ逆撫でする。ただ空白に気付いてしまったから、その理由が知りたいという単純な好奇心しかない。軽い言葉。不機嫌そうな仕草を隠そうとしないキルとは反対に、ミチはそのどれにも丁寧に受け答えした。いつも通りの笑顔で、いつも通りに返す。わたしにもわからないのだけれど、心配よね。当たり障りの無い言葉で、遠ざける。その横顔を見て、キルはさらに不機嫌そうに顔を顰めた。
「クラウディア」
昼休みだった。ミチの席にやって来たのは、アルバルトだった。通院は終わったの、という質問をするまえに、ミチとキルは彼の頬にべたりと貼られた白の湿布に驚く。彼の片頬は目の下まで酷く腫れていて、顔色はいつもより悪かった。けれども彼はしっかりとミチをみていた。瞳の縁は仄かに赤い。
「聞きたいことがある。一緒に来てくれないか」
わかった、と静かにミチが答えて、そっと立ち上がる。アルバルトの頬の湿布に何人もの視線が集中していたけれど、話しかけようという人間は居なかった。椅子を引いてたちあがり、教室を出ようとするミチをみて、キルは行こうか行くまいか考えあぐねる。けれどもその瞬間、アルバルトの瞳が"キルを映した"。
「きみにも来て欲しい。キル=キルリエイズ」
目を丸くした。呼吸を止めた。それはキルだけでなく、ミチも、会話を聞いていたクラスメイトも。アルバルト・マリエントは魔女が見えない。魔女を見ない、一族の息子。
そのアルバルトが、ほのおの魔女キル=キルリエイズを"視た"。
言葉は必要なかった。それからは余計なことを話さず、すみやかに教室を出た。
誰も居ない教室に誰も着いてきていないか確認してからすばやく入る。一気に騒がしさは遠ざかった。クリーム色のカーテンが閉められていて、教室の中はオレンジのひかりに包まれている。
深いブラウンの瞳。オフィーリアよりも深い茶色の目が揺れていた。ぎゅう、と丸められた手に力が入っている。それを視界に入れて、ミチは彼の名前を呼んだ。アルバルト。澄んだ声に、アルバルトが顔を上げる。
「オフィーリアの事は聞いているな」
「聞いてるわ」
「きみたち、心当たりは無いか。あいつがいきそうなところに」
アルバルトの声は震えていた。
「僕も僕なりに探してみたんだ。だが、どこにもいない。あいつはそんなに交友関係が広くない。もし誰かの家に行くなら、僕の所か、幼馴染みの所か、きみたちのところしか考えられないんだ」
絞り出すように、ぽつりぽつりとアルバルトが言葉を漏らす。きみたち、あいつが行きそうな場所に心当たりは無いか。アルバルトの瞳にきらりとひかるものがみえる。一縷の望みをかけるような視線。その目はたしかに、キルのこともミチのことも捉えている。
ずっとドアの近くで黙っていたキルが口を開こうとする。けれどもそれよりもはやく、ミチが口を開いた。
「わたしたちも、探せるところは全部探したの。でも……アルバルト、あなたと同じ」
ああ、とアルバルトの唇から嗚咽にも似た言葉が漏れた。キルは目を丸くしてミチをみる。ミチはキルに背を向けている。表情は見えなかった。耐えられないというように顔を覆って背中を丸めるアルバルトの肩にそっと手を置く。何事かをささやくミチに、アルバルトが震えながら数度頷いた。ハンカチで目元を拭いたアルバルトが、ぼんやりとした瞳で顔を上げる。ミチが僅かに微笑むと、ゆっくりと最後にもう一度、頷いた。ゆっくりとブラウンの瞳にはっきりとした芯のようなものがもどって、一歩一歩教室の外へ踏み出すうちに背筋はぴんとのびていった。唇は震え、目は赤くなっているけれども、彼は必死に自分を立て直そうとしていた。いつものアルバルト・マリエントに。
ドアをくぐるその瞬間、彼はキルの方をちらりとみて、聞こえるか聞こえないかくらいの声で「ありがとう」と呟いた。キルが何かを返す前に、彼はもう教室へと戻っていった。
頬に貼られた白の湿布。消毒液の匂い。その理由を、ミチもキルも知らない。けれども彼は彼の理由がきっとある。
ミチはキルに背を向けたままだった。静かになった教室の中で、時間のずれた時計だけが騒いでいる。どうして嘘をついたの。キルがミチの背中に声を掛けると「嘘なんてついてないわ」と言う。だってあの場所は、夜なんかにいてはいけないところだもの。あんなところに、オフィーリアがいるわけないでしょう?ミチがおだやかな声で言う。だってあの場所は、外なのよ。安全では無い、亡霊の居る、にんげんのいきられない場所なのよ。
「ずっと思ってたんだ。なんで君、ずっといつも通りなの?」
ミチが少しだけ此方を振り向く。ふたつにむすばれた黒い髪。緑色のリボンが揺れる。肌色の耳がキルと向かい合う。長い睫。ねえ、なんでなにもかもいつも通りなの。どうしてアルバルトみたいに、震えたり、泣いたり、怒ったり、感情をむき出しにしないの。こんなときまで、どうしてお前はミチ=クラウディアなの。キルの言葉が教室に満ちる。あのゆめみたいだとキルは思う。自分が魔法を使ったとき。あのときの夜にみたゆめ。彼女はあの時も、こうして自分に背を向けていた。こわくないの。そういうキルの方を振り返って、こわくないと微笑んでみせる。でもあのときとは、違う。キルは思う。あの時とはなにかが違うのだ。違うけれど、違うはずなのに、ミチは何一つ違わない。それが、違うのだ。
ミチが振り返る。キルは彼女を見つめる。ミチはやはりいつも通りだった。読めない表情で、真っ直ぐにキルを見る。
チャイムが鳴った。
ミチの様子が変わったのは午後からだった。
五時間目まではいつも通りに隣で勉強していたはずなのに、休み時間にトイレに行ったきり帰ってこない。六時間目がはじまる寸前になっても、ミチはキルの隣の席に戻ってこなかった。開始一分前になったとき、キルは溜まらず教室を飛び出す。もしかして、と考えることさえ必要 なかった。彼女が行く場所は一つしか無い。
『みずたまり。――あそこは林におおわれているから、箒で近づくのは無理よね』
『そう。あそこだけ、探していない。でも、もしあそこにいたとしたら』
もしあそこにいたとしたら?
ずっと思ってたんだ。なんで君、ずっといつも通りなの?
本当は気付いていた。どうしてミチがあそこまでいつもの自分で居られるのか。決して、ネガティブな考えを口にしないのか。どうして怖がること無く、涙を流すこと無く、怒ることなく立っていられるのか。
そんなの誰よりも、怖がっているからだ。もしもの可能性を自分の内側からはじいてしまわないと、自分で居られないくらいに、怖がっているからだ。誰よりも最悪の展開を、鮮やかに描いているからだ。
授業開始のチャイムが鳴る。太陽がまだひかる外に飛び出す。夜になるまで、箒は使えない。今頃何処をミチは走っているのか。固いローファーが、砂の上でずるりと滑る。素早く足を入れ替えて、校庭をまっすぐに突っ切った。
「ねえフー、あなたの好きな宝石ってなあに?」
ミチの質問に、「え?」と正面を向いていたフーが首を向ける。黒いかばんを背負っているキルもミチの方へ目を向けた。歩くたびにバックの中に入っている教科書や筆箱ががこがこ、と音を立てる。好きな宝石。ミチの質問をもう一度オフィーリアが繰り返す。二回、三回と繰り返して満面の笑顔を向ける。
「つきのいしかな」
「つきのいし……?つきのいしってあれよね、あかりとかに使われる……?」
フーの口からどんな珍しいいしの名前が出て来るのか、と思っていたミチは驚きで目を丸くした。てっきり彼の口からは今はもう無いといわれる古代の宝石の名前や、ミチのしらないような見たことも無いいしの名前が出て来ると思っていたのに。驚くミチの顔をみて、「へんなかおしてるよ」とフーが吹き出す。
「全然めずらしくないじゃん。僕たちにとってはそこらじゅうに転がってるいしだよ?」
突然聞こえた声に、ミチとオフィーリアが声の方向へ身体を向ける。キルだった。どうやら驚いたのはミチだけではなかったみたいだった。さっきまでずっと黙っていたのにするりと会話に入ってきたキルは、なんでつきのいしなのか、とオフィーリアに迫る。石造りの橋を渡りながら、オフィーリアは「そうだね、たしかにめずらしくはないんだけどね」と穏やかに笑う。丸い硝子の眼鏡の縁が、オレンジ色にひかる。川の水の音が、じゃぶじゃぶと三人の足音を消した。
「でも、ぼくはこのいしが一番好き。産出量もどんな宝石よりも一番多くて、貴重度も1。だけど何よりも固いこのいしが好きなんだ。ねえ――夜につきのいしをみたことはある?」
「ええっと、部屋でって事かしら? それとも外で?」
「外で」
ミチが首を振る。キルはみたことある? オフィーリアが首を傾げる。キルは「ある」と答えてから、少しだけ首を捻った。あるけれども、記憶には残ってないらしかった。夜は基本的に空ばかり見ているんだ、とキルがいう。星や月をみながら箒の練習をしているから。つづけられたことばにそっか、とオフィーリアーが相づちを打つ。ミチはオフィーリアがキルに向かって数回頷くのを見ながら、「フーはあるの?」と問いかけた。夜に、外で、つきのいしをみたことが。
――うん、ある。
オフィーリアがなつかしいことを思い出すように瞳を細めた。
「ぼく、おさないころに庭で遊んでいてね。むかしからいしを探すのが好きだったから、自分が魔女で無いから宝石をなかなか見つけられないことは知っていたんだけど、毎日庭で宝石を探してたんだ。もちろん全然見つからなかった。見つからなかったけど、ひたすらに探しているのが好きでね」
「でもある日ね、探すのに熱中しすぎて――きっとつかれたんだろうね。いつのまにか庭で寝ちゃってたんだ。起きたら周りが真っ暗でね。もうびっくりだよ。いくら庭だっていっても、外じゃ無い?亡霊は庭には入ってこないって聞いていたけれど、魔女のいる家にはたまにまよいこむものもいるって聞いていたから。ぼくもう本当にこわくってね」
まわりがまっくらで、なにもみえないものだから、どっちが門で、どっちが屋敷の方角なのかさっぱり分からなかったんだ。もう完全にお手上げだった。そのころのぼくはいまよりずっと小さくて――ううんと、今ぼくが11でしょ、そのときのぼくはたしか6つをすぎたくらいだったかな。もう、ずうっ泣いてたよ。おかあさんおとうさん、ってみっともなく叫びながらね。小さい子の泣く声はすごくうるさいから、泣いていたらすぐみつけてもらえるんじゃないかっておもうじゃない?後から聞いた話だけど、それもどうやら上手く行かなかったみたいなんだ。
ぼくのお家の庭、縦長でね。門と屋敷がすごく離れてるんだ。だから屋敷の方までぼくの泣き声なんか届かなくってね。
「ええ、じゃあどうしたの?カンテラなんてないわよね……ずっとそんなに暗いところでおかあさまとおとうさまを待っていたの……?」
ううん、ちがうんだ。オフィーリアが首を振る。ぼくはそのころね、めずらしい石をみつけたらポケットにいれるくせがあったんだ。ちょうどはじめてあのみずたまりに行ったときにミチがしたみたいにね。ポケットいっぱいにいしをいれてたの。宝石じゃなくても宝石でも見つけたらとりあえずポケットに入れて、屋敷に帰ってから宝石かどうか自分で調べていたんだ。
「だけどその日、ぼくのズボンはどうやら穴が開いていたみたいなんだ」
もしかして、とミチが目を輝かせる。キルはまだぴんとこないようで、何がもしかしてなの、と言う。フーのズボンにはいしがいっぱいはいっていたのよ。ミチが興奮したようにキルにヒントを与える。いしがいっぱいはいっていたのよ。穴があいていたのよ。はしゃぐミチについて行けないというように顔を引き攣らせながら、キルがオフィーリアに目を向ける。なんとかしてくれ、というような視線を受けて、オフィーリアは少しだけ笑って話を続けた。
「そう、ミチはもう気付いちゃったみたいだけど、ぼくがポケットにみつけた石を入れても、その石は地面に落ちていたんだ。そして、つきのいしはキルがいったように"どこにでもある"じゃない?ぼくはみつけたいしを片っ端からポケットに入れてた。そのポケットに入れていたいしの半分はただのなんでもない石だとして、半分は宝石だとするでしょ?その宝石たちのなかでいちばん多いのは、なんだろう。産出量が一番多い"どこにでもあるいし"――」
キルの目が輝いた。もしかして。彼に珍しく興奮したような声だった。もしかしてそれって。
「つきの――「つきのいしね!!」
正解、とオフィーリアが人差し指をたてる。
僕がさきに喋っていただろ、とキルが怒るのをミチは無視した。オフィーリアの腕を掴んで、軽く引っ張る。それからどうなったの!とさらに続きを話すように急かすミチに、落ち着けとキルが声を掛ける。
「……そう、泣いていたぼくはふと視界にうつる強い強い白いひかりに気付いたんだ。その日は満月の日でね、最初ぼくはおつきさまだとおもったんだ。でも空を見上げると、大きいまあるいお月様があった。あれ、じゃあこのひかりは地面にあるのかって気付いたんだ。ぼくはひかりの方へゆっくり歩いて行った。しゃがんで手を伸ばしてみると、それはいしだったんだ。つきのいしだった。まぶしいくらいつよく光っててね、すっごくきれいだった。単純なことにぼくはそれをみたらなみだがひっこんじゃったんだ。つきのいしがこんなに綺麗だったなんて知らなかった。おつきさまよりもつよく輝いてたんだ。青のようなオレンジのような、きいろのようなひかりがあつまって、まっしろないろをつくりあげててね。ぼくはそれを握りしめた。手の中にとじこめると、指と指の隙間からひかりがもれるの。細い光を外に振りまくんだ。ぼくの手の中でも、かわらずつきのいしはひかり
つづけてた」
ふと視線をあげるとね、てのひらのなかのひかりとおなじひかりが、くらやみのなかに転々と続いていたの。ぼくは、ひとつ、ふたつとそれをたどっては手のひらにとじこめていった。なんにもかんがえてなかったよ。ただひかっててうつくしかったから、拾っていったんだ。そうして、てのひらにおさまりきらなくなったとき、つきのいしじゃないひかりがぼくにみえた。どうやらつきのいしを便りにしていたのは、ぼくだけじゃなかったみたいだった。
「それは明かりだった。おとうさんとおかあさんがぼくを見つけてくれたんだ。それをみたとき、ぼくはいままでひろってたつきのいしを全部足下におとしてね。夢中でふたりにだきついた。それからものすっごくおこられたけどね。今では良い思い出」
これがぼくがつきのいしが好きな理由。
まあすてき、とミチが手を叩いて喜ぶのに対して、キルはまじょじゃないのに夜に外に出るなんてどうかしてるとそっぽをむく。キルったらさっきまであんなに楽しそうに聞いていたのに、心配性なんだから。ミチが笑うと別に心配なんかしてない、とキルが吠える。
「あのときからずっと、ぼくはね、つきのいしがすきなんだ」
いいわね、とミチが笑う。つきのいし。すてきだわ。キルも「今度夜に見てみる」と小さく呟く。ねえいつかみんなで夜にみましょうよ。ミチが言う。いいね、見てみたい。オフィーリアが笑う。きっとうつくしいんでしょうね。だってフーがいうんだもの。空はオレンジから緩やかに紫に傾いていく。
服の裾から水滴が不規則に落ちる。大きい大きいみずたまりは、一年前よりはわずかに小さくなっているように思えた。脱ぎ捨てたくつがどこにいったかわからない。地面に散らばっている宝石は豊かにひかっている。でもそのなかのどこにも、つきのいしは存在しなかった。きっと彼のポケットに入っているのだと思う。彼のポケットに穴は開いてないかしら。もし開いていたら、おとうさまとおかあさまのかわりに、わたしがみつけだすのに。ミチは思う。
「なにしてるの」
後ろから、荒い息づかい。ゆっくりとふりむくと、そこにはキルがいた。「キル」彼女の唇が彼の名前を呼ぶと、彼は彼女の腕を掴んだ。早く帰るよ。彼の言葉にいやだと首を振る。強く引っ張る腕に抗うように、足を前後に開いて踏ん張る。嫌だ。
「しにたいの!! このままじゃ僕もお前も、亡霊に触れられてしぬよ!!!!」
「じゃあキルだけ帰れば良いでしょう、わたしは此処に居る、きっとフー道に迷ってるのよ、だってほらみて、フーここにきてたの、宝石がそこら中に落ちているでしょう? でも、ひとつもつきのいしがな」
「もうフーはいないんだよ!!スミスは、オフィーリアは、いないんだ」
「ちがう、そんなことないわキル、どうしたのそんなこといって」
「そんなことってなに? もう気付いているんだろ? おまえは宝石が此処に散らばってることくらいじゃスミスが此処に居ることを認めなかったはずだ。もしスミスがここにとどまっていたとしたら、どうなるかわからないおまえじゃないだろ? だからアルバルトにもこの場所を言わなかったし、今まで一度だって泣き言をいわなかったんだ。でもおまえは、スミスが此処に居たことを認めた。――決定的な証拠が見つかったんだろ、スミスがここにいたっていう、もう否定のしようがないことを、おまえはみつけたんだ」
ミチが黙る。無表情で、ポケットに手を入れる。でてきたものを見た瞬間、キルは息をのんだ。
『ぼくね、眼鏡が無いとなんにもみえないんだよ』
オフィーリアの丸めがね。彼がいつもかけている、レンズの厚いめがねだった。大きい硝子で出来た丸眼鏡。下の方が割れている。「みずのしたに、しずんでいたの」ミチは独り言のようにつぶやいたあと、顔をあげた。"いつも通り"の表情で、でもわからないわ、と言う。
「でもまだ決まってない、まだ決まってない、もしかしたらどこかで怪我して」
「そうだとしても、あのオフィーリアが連絡しない事なんてあると思うか?家に連絡しないで知らない人の家に?そんなことすると本当に思うのクラウディア」
「わからないわ、大けがで目が覚めてないのかも」
「だったら医者を呼んでいるはずでしょ。このへんで医者をやってるのは君の家だ。君の家に連絡が来ないのに?」
「……でも、」
パン、と乾いた音がした。まるで銃弾が発射される時のような、ひとを動けなくする音。じんわりと熱をもつ頬。叩かれたのだとミチが気付いた時、キルの目からごろりとなみだが落ちた。唖然とするミチに、おねがいだから、という震えた声が聞こえる。おねがいだから。おねがいだから、いうことをきいて。おねがいだから。それはとても切実な願いだった。
「僕は、一度に二人も友達をうしなうことは、したくない」
じんわりと熱をもつ右の頬を、濡れた右手で押さえる。つめたいゆびさきに、もえるような痺れる感覚が伝わってくる。まっすぐに自分を見て、涙を流すキルをミチはぼんやりとみていた。ごめん。無意識に口をついて、言葉が生まれる。ごめんキル。
「帰ろう」
キルが、無理に笑顔を作る。うん、とミチが頷く。彼女の左手を、キルが掴む。その瞬間、キルの顔が強ばった。どうしたの、とミチが言う前に、キルが強くミチを突き飛ばす。ミチはバランスを崩して、地面に派手に転んだ。ごろごろと数回身体が横転する。口の中に砂が入る。けほ、と咳を漏らして、起き上がる。そして、動きを止めた。
キルと向かい合っている白い影。半透明で、見えにくいもの。異質なその姿に、息をのむ。一度だけ。一度だけ、キルの箒に乗せてもらった時、同じような奇怪なひかりが街を歩いているのを空から見たことがある。
<ぼんやりと発光し空気にほんのすこし浮いている生き物。人型から逸脱した奇妙な姿。透き通っていて、得体の知れない表情をしている。彼らは何も話さず、何も食べない。けれども彼は、手を伸ばす。街角から。湖の畔から。海の砂のきらめきから。植物のすきまから。彼らは人間を求める。人間に触れる。そして触れられた人間は、何かを失う。>
――亡霊、だ。
ミチは口を右手で押さえる。焦ったように左右に目を動かす。林で見えにくいけれども、辺りは、確実にミチがここに来た時よりも暗い。深く暗い緑の隙間から見える空は、紫では無く、藍色。
『このままじゃ僕もお前も、亡霊に触れられてしぬよ』
――夜になってしまったのだと、今更気付く。
白い影が、クラゲのようにゆらゆらと揺れてキルに近づいている。ミチは言葉を発することが出来なかった。ただただ、奥歯ががたがたと、嵐の日の窓のように揺れるだけだ。キルは左右をみたりポケットを探って、何かを探しているようだったけれども、みつからないみたいだった。キル、とやっとの思いでミチが彼の名前を呼ぶ、彼は震えながらも、ミチの方を見る。逃げて、と叫ぶけれど、彼は首を横に振った。無理だ。白い影が仄かに緑色に揺れたようにミチに見えた。いま、振り返った。いまあの亡霊は、"わたしのことを見た"。
無意識に自分の周りを見た。なにかないか。なにか。なにか、"棒のようなもの"。それはもう本能だった。棒のような物。草むらをかき分けて、体中が泥にまみれることも厭わずに探す。それを見て、キルが声を上げた。
「はやく逃げるんだ、クラウディア!」
「待って、いま」
「いいから!!」
もういいんだ、とキルが言った瞬間、白い影が動いた。その指のようなものが、キルの方へ伸ばされる。――だめだ、触れてしまう、触れてしまったら、もし触れてしまったら――ミチの指先が、木の枝に触れる――だめだ、触れたら、もし、もし触れたら、触れたら、
――オフィーリアみたいに、
「あ、」
――この夢は、ぼくの幼馴染みしかまだしらないんだけどね
――僕は、一度に二人も友達をうしなうことは、したくない
宝石鑑定士に――家業を継いで――わたしのゆめは、
――わたしの夢は、おうちのお仕事を継いだキルと、宝石鑑定士になったフーのとなりに今のように立つこと!
「あ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
掴んだ木の棒を、亡霊に向ける。その木の棒の先から、黄色く、白い光が生まれる。渦を巻くように亡霊にひかりが巻き付いていく、地面が割れるような音を立てて、周りに生えていた身長の低い草が木のようにぐんぐん伸びていく。あっという間にひかりにそって、植物が亡霊を包んでいった。ひかりの檻に閉じ込めるように、締め付けていくように草が密集していく。ほんの一瞬。深い緑の草の隙間から、穏やかな茶色が見えた気がして、息をのむ。
「ま、待っ、」
待って、と思わず口に出していた。けれども、その言葉と一緒に木の棒の先から生まれたひかりが途絶えた。ひかりが空気に溶けて、散り散りになったのを合図に、力を失ったように草も分散していく。地面に生えていた植物が、元の背丈に戻り、風に揺れるのをミチはぼんやりと見つめていた。ほんの一瞬の出来事だった。もう、亡霊の姿は無かった。ぼすん、と地面に体重が投げ出される音を聞いて、ミチは現実に戻った。地面に膝をついて空中をぼんやりと見ているキルに駆け寄る。
キルの白いシャツの肩口を強く掴むと、ミチの指先に着いた泥が彼の白を茶色く染色した。ぐらぐら、と前後に肩を揺らしても、キルはミチを見ていなかった。ただぼんやりと、亡霊が居た場所を見ている。キル、とミチが叫んだ。キル。
「キル、キル、聞こえる!? 」
何度も名前を呼ぶと、やっと空中を見つめていた瞳がミチの方に向く。完全な無表情に、ミチの背筋がつめたくなった。聞こえる。もう一度繰り返すと「うん」という静かな声が返ってくる。
「聞こえる」
「よかったわ、どこも、なにもなってない?どこも変な感覚の場所とか……自分のことが分かる?」
「キル=キルリエイズ。ほのおのまじょ。両親共に魔女。四人兄弟の末っ子で上に兄様がふたりと姉様がひとり」
「わたしのことは?」
「ミチ=クラウディア」
よかった、とミチがキルのことを抱きしめる。キルはミチをその瞳に映しながらも、まだやはりぼんやりとしていた。その瞳は暗い。キル、とミチが彼の名前をよぶ。どうしたっていうの。キル。もう亡霊は居なくなったのよ。そう言った瞬間、キルがミチをみる。そう、亡霊は居なくなったのだ。口の中でもう一度復唱した瞬間に、そのとき、はじめて、ミチは自分が何をしたのか深く理解した。
自分は今、何をした?
自分は、今。この手の木の棒は何?この木の棒の先から生まれたのは何?あの植物は?あの白いひかりは? あの、――穏やかな、茶色は?
穏やかな、茶色。固まる。茶色? 穏やかな? あの色は、何? 視界の端っこをかすめた、あの緑は?
亡霊はもう居なくなったのよ。自分が発した言葉。亡霊はもう居なくなったのよ。
そんな まさか そんなはずない ちがう こんなはずじゃ だってわたしは それに あれは 亡霊は
ねえ、いまのキルがやったんでしょう、ちがうの、震える言葉に、キルが首を振る。あれは植物の魔法だと。僕は、ほのおのまじょだからほのおの魔法しか使えないのだと。ねえミチ。キルの声がミチの名前を呼ぶ。けれどもミチに、彼の声はもう聞こえていなかった。
まさか。
後ろを振り返る。夜の光に照らされて、煌煌とひかるもの。しろく、つよくひかるもの。
よろよろと、立ち上がる。吸い寄せられるようにそのつよいひかりのまえにひざをつく。亡霊。亡霊に触れられることで私たちは、消失する。消失した人間はどうなるのか。その言葉にある学者は結論を出した。亡霊になるのだと。亡霊は、消失した人間なのだと。
むかし、そんなのでたらめだとキルがいったことがあった。そんなのだれも証明できないと。ミチはそれに、でも違うって証明も出来ないわ、と返した。
でもいま、こころから、ミチは思う。もし、覆すことが出来るなら、覆して欲しい。亡霊が消失した人間だなんて、違うって、否定して欲しい。じゃなきゃ、じゃなきゃ、
茶色い目
みどりがちらつく
割れためがね
みつからない
にんげん
魔女
まじょ
魔法
しょくぶつ
ひかり
「オフィーリア・スミスコラス」
――ねえフー、あなたの好きな宝石ってなあに?
――つきのいしかな
違うんでしょう 違うんでしょう 亡霊は 消失した人間なんかじゃ無いんでしょう 違うんでしょう
ねえじゃあどうしてなの。ミチがいう。ねえじゃあどうしてなの。どうして。
――どうして、亡霊から出てきたこのいしは、このいしはどうして、つきのいしなの。
つきのいしならわたしがいくらでも落としてあげる。あなたのポケットからこぼれ落ちたしろいいしを、どんなことがあってもさがしてあげる。キルといっしょに電灯をもって あなたがおとしたしろいいしをたどって なにがあっても ねえ、だから、どうしてなの、ねえ、
またくらやみで寝ているのね だめよこんなところでねていたら こわい亡霊がきてしまうわ ねえ フー ねえ
どうしてあなたは、ここにいないの
<しゃがんで手を伸ばしてみると、それはいしだったんだ。つきのいしだった。まぶしいくらいつよく光っててね、すっごくきれいだった。単純なことにぼくはそれをみたらなみだがひっこんじゃったんだ。つきのいしがこんなに綺麗だったなんて知らなかった。おつきさまよりもつよく輝いてたんだ。青のようなオレンジのような、きいろのようなひかりがあつまって、まっしろないろをつくりあげててね。ぼくはそれを握りしめた。手の中にとじこめると、指と指の隙間からひかりがもれるの。細い光を外に振りまくんだ。ぼくの手の中でも、かわらずつきのいしはひかりつづけてた。>
ねえいつかみんなで夜にみましょうよ。ミチが言う。
いいね、見てみたい。オフィーリアが笑う。
きっとうつくしいんでしょうね。だってフーがいうんだもの。
つきのいし
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