キルは珍しい物を見るように目を大きくした。ミチのその横顔は、いつもの笑顔でも、ぼおっとしているときのものでも真面目なものでも無くて、早くこのじかんが終わらないかなと願っているような、退屈そうな物に見えたからだ。
ミチはねむそうな瞳で何回か時計に目を向けては、下を向いたり窓のほうに首を動かした。キルが感じたとおり、ミチはいま退屈だった。退屈と言うよりも、このなにもできない空白の時間をどうすごせばいいのか考えあぐねていた。机に置かれたペンの先は透明の蓋にしまわれている。彼女にこの白い紙になにかを書こうという気持ちは無かった。
「将来の夢とか決まってるんだと思ってた」
キルは思わずそんなミチに話しかけていた。先生や他の生徒に気付かれないように、できるだけボリュームを落とす。ミチはおどろいたようにキルの方を見ると、眉を下げて笑いを零した。
「……うーん……こうしたいなあっておもうことはあるの。でもそれが"夢"か、といわれるとぴんとこないのよ。夢というよりもこれは"こうすべきこと"だから」
すべきこと、という響きはまるで無機質だった。すべき、とくちにするだけで、それはたまらない機械的な温度をもつ。キルはミチの黒々とした瞳に、そのいろとはべつものの、ひかる仄かな影を見た。その影は色濃く青く、冬の夜空の隙間に住むいろをしている。けれどもキルには、その奥底に染みているいろがどんな感情なのかがわからなかった。「あー……」と口から出た相づちが自分が思ったよりも気まずそうに響いて、慌てて顔を上げる。
「まあ、別に職業じゃ無くても良いんじゃないの。こうなりたい、とか。……一つでも無いわけ」
「そうね……うーん……」
ペンを掴んで、キャップを開けたり閉めたりをくりかえしながらミチが唸っていると、授業終わりを知らせるチャイムが鳴って、会話は終了した。起立。礼。着席。号令に合わせて立ち上がり、頭を下げて、座る。先生の「プリントは今週中に提出すること」という言葉に、ミチはちいさくため息をついた。キルはまた意外そうな目を彼女に向ける。いつものミチならはーい、と元気よく返事をするのに。
すぐに教室は騒がしくなって、さっきまでの静けさもまとまりもしんでゆく。みんながそれぞれ立ち上がって自由に行動し始める。前の方の席に座っていたオフィーリアがいつのまにかミチとキルの席の前に立っていた。ミチがプリントとずっとにらめっこしているのを見て、視線だけでキルに何があったのか説明を求める。キルはその視線に僅かに首を振ると、自分のプリントを折りたたんで机の中にしまった。
キルの書き終えたプリントを視界の端っこに捕らえたのか、机に顔をぴたりとくっつけていたミチが顔を上げて「キル!」と彼の名前を呼ぶ。キルは苦虫を噛みつぶしたような表情を浮かべて、首を振った。嫌な予感しかしなかった。
「嫌だ」
「……まだなにもいってないわ」
「"キルの夢ってなあに、よかったらおしえて"とかいうんでしょ」
頬杖をついてキルがミチをにらむと、ミチはきらりと瞳をかがやかせた。
「……!? どうしてわかったの!?」
いやだれでもわかるだろ、とキルは心の中で呟いてそっぽを向く。 「キルの魔法なの!?」 ミチは興味津々にキルに近づく。
「そんな魔法あるわけないだろ」 キルは嫌そうに身体ごと椅子を引いてミチから距離をとる。
僕はほのおのまじょだからほのおの魔法しか使えないし、大体にして人の考えていることを理解する方法なんてコミュニケーションしかない。キルは呟いたけれども、ミチの耳には入っていなかった。
「あのねー、人の話は最後まで聞いてくれない?」
眉間を押さえるキルをオフィーリアが宥める。ミチはペンをペンケースのなかにいれて、プリントも机のなかにしまってしまう。その横顔はやっぱり、いつになく不機嫌そうだった。
「めずらしいね、ミチがそんな顔するの」
オフィーリアがそう指摘すると、ミチはぱっと笑顔になった。まるでなんでもなかったように笑うミチを見て、キルは少しだけぞっとする。それは、彼女の笑顔がつくりもののようだったからではない。――むしろ逆、だ。
彼女の笑顔に、つくられたかんじは全くなかった。自然な笑顔は、さっきの不機嫌な顔の面影をイチミリも残さない。さっきのミチの表情を思い出せないくらいの、"思い出させないくらいの"いつも通りの笑顔。キルはなんとかさっきのミチの表情を脳内で作り上げようとしたけれど、目の前の彼女の今の表情がそれをさせない。
オフィーリアはもうすでにさっきの違和感を忘れてしまったようで、彼女につられてにこりと笑った。キルは内側から爪で引っかかれているような、不思議な感覚を味わう。痛み、というよりはむしろむず痒いような、居心地の悪い感じ。目を少しだけ細めて、自分の身体がなんともなくなるまで息を止める。キルの身体のそとで、ミチとオフィーリアが作り出すたわいもない雑談が聞こえる。それを少しの間聞いているだけで、すぐにそのふしぎな感覚はなんでもなかったように消え失せた。
キルがふたたび会話に参加すると、ミチは「そうだ!」と良いことを思いついたように机に両手をついて立ち上がった。ガタガタ、とうるさく椅子がミチの膝におされて後ろに下がる。ぐるりとミチの満面の笑みが此方に向いて、キルは迷うことなく目を逸らした。だいたいこういうときのミチが口にする案はキルにとって災害だ。
「今日は寄り道して帰らない?」 ミチがキルとオフィーリアを交互に見ながら言う。
「嫌だ」 キルは即答する。
「あらどうして?」
ミチはもう慣れっこであるというようになめらかにキルに返事をすると、いきましょうよ、と笑った。オフィーリアはそんなふたりを見てほほえましいものをみるような笑顔を浮かべている。それがまた、キルの神経を逆撫でするということに彼は気付く様子も無い。
「とっても良い考えだとおもうわ?」
「どこがだよ。そもそも最近お前たちふたりはどうして僕のあとを着いてくるわけ?ストーカーなの?」
「あら。キルったらわたしたちがキルとはぐれそうになったら足を止めて待っていてくれるのに」
「それは気のせい」
「うんうんそうだよね。この間ぼくが日直の仕事があったとき、ミチだけじゃなくてキルも待っててくれたよね」
「それも気のせい」
あら、じゃあその"気のせい"に感謝ね。わたしとオフィーリアはキルと一緒に帰りたいもの。ミチがそう言うと、キルはぐ、っと言葉に詰まる。それを見逃さないというように、ミチは「ね、一緒に帰りましょう。寄り道しましょ」とキルに詰め寄る。たじろぐキルが、それでも「いやだ」と最後の抵抗をしようとした瞬間、さっきまで傍観していたオフィーリアまで「ぼく、そういえばこの間素敵な場所をみつけたんだ」と近づいてくる。
「ね、キルとミチと三人で行きたいんだ、ぼく」
オフィーリアの眼鏡越しに見える瞳がやわらかい弧を描いている。三人、というところを強調されて、キルはもう口をまごつかせることしかできなくなった。完全になにも言わなくなったキルに、ミチが「沈黙は肯定、よし今日の放課後の予定はきまりね!」と腰に手を当てて頷く。
キルに拒否権は無かった。文句を言おうと開いた口を閉じて斜め下に視線を落とすと、ゆっくり顔を上げてふたりのうれしそうな表情を捉える。はあ、と深く息を吐く。抵抗する気はもう失せてしまった。「もう勝手にして」と言って椅子の背もたれに背中をくっつけると静かに足を組んだ。深い赤と黒、黄色のチェック柄のズボンが擦り合う音がする。
ミチとオフィーリアは顔を見合わせて笑いあう。本当にキル=キルリエイズという人間は素直じゃ無いのだ。
「あ、ところでフー? その連れて行きたい場所っていったいどこなの?」
とてもきになるわ、とミチが言うとオフィーリアが「それは放課後のおたのしみだよ」と右手の人差し指を顔の前に持ってきてひみつ、という合図をする。
「まあ! 素敵! 放課後がたのしみね」
「……まだ午前中だからな」
ふたりに向かってキルが声をかけるけれども、聞こえていないようだった。ミチは次の授業の準備をはじめる。オフィーリアもすぐに席について、次の授業に使う道具を鞄から出す。キルは各々の切り替えの速さに若干呆れつつ(すこし尊敬する気持ちを持ちつつも)自分も机の中から教科書を取りだした。
「やっと放課後!今日はいつになく長かったわ、一日が」
「落ち着きが無い。もっと落ち着いて行動しなよ」
「そういうキルも五時間目と六時間目間違えて掃除しようとしてたよね」
「気のせい」
「すぐ気のせいの"せい"にするんだから!」
帰り道。夕焼けが色濃く地面を濡らしていた。赤色では無く、まだやさしいレモン色をした空が雲ひとつなく佇んでいた。ミチは顔を逸らして歩くキルの隣に並びながら、オフィーリアが指し示す方へ歩く。六本の黒い柱が後ろに伸びている。オフィーリアも、ミチも、キルも、身長がほとんど変わらないのに影の大きさはミチが一番大きかった。太陽の向きだろうか、とキルがそっとその影を見ながら目を細める。キルの半ズボンの裾が風にゆれると、影もぐらりとゆらいだ。
「おいオフィーリア、どこまでいくんだ。あんまり遠くへ行くと夜までに帰ることが出来なくなるぞ」
「大丈夫よキル。まだ空がレモネードのいろをしているでしょう? 時刻はまだ三月じゃないかしら」
一日の時間は明けの時間と宵の時間に別れていて、明けの時間は明けの五〜十八、宵の時間は宵の十八〜四であらわされる。亡霊が現れるのは宵の時間で、この間人間は特別な場合を除き家の敷地から出ることを禁止されている。反対に魔女たちはこの時間、自由に行動することが出来る。
「おそくとも明けの十六までに帰れば大丈夫だよ。彼らが姿を現すのは宵の十八だもの」
でも、と口を開こうとするキルの声を遮ったのはオフィーリアだった。着いた、といううれしさの詰まった声に、言葉を失ったのはミチだけではない。そこにあったのは小さな林だった。大小いろんな木が生い茂っている。林自体は別段珍しくなかった。学校の裏にも存在する緑に、本当に此処? とミチが首を捻る。
「此処の先に、すごいものがあるんだ」
とっておきのひみつを明かすようにオフィーリアが小声で言った。無意識に、ミチも小声になる。キルまでもが息を潜めて、林をかき分けてゆっくりと先に進んだ。はぐれないように、一列で進んで行くと、突然ひらけた場所にでる。地面が土からふかふかしたものにかわって、思わずミチは地面に目を向けた。芝生だった。青々とした緑を目に焼き付けてから、湿った土のにおいに顔を上げる。
――音がする、と思ったのはキルもミチも同じだった。
ゆるぎないみずの音。ひそやかな、きよらかなおと。そしてその音の源は、すぐに三人の目の前に現れた。
「このおおきなみずたまりなんだ、ぼくがみせたかったのは」
そこにあったのは、川と呼ぶにはまるくて、みずうみとよぶには小さいものだった。おおきな、おおきな、みずたまり。口の中でオフィーリアが発した言葉を繰り返して、そおっと近づいてみる。小さいといっても、三人で泳げてしまうくらいには大きい。どうやら林によってつくられた緑のダムのようなものらしい。たまっているみずの混じり気のまるでないにおいと、驚くほどの透明度に目を奪われて、ミチが思わずすごい、と言葉をこぼす。
「きれいだよね、このみずたまり。ぼくもはじめて見つけたときはもの凄く驚いたんだ――」
オフィーリアがミチのことばに嬉しそうに笑顔を浮かべて、「でもそれだけじゃないんだ」と言った。
「なんだ、あれ」
真っ先に反応したのは、ミチではなくキルだった。キルの視線がみずうみのまんなかへ一心に注がれているのを見て、ミチはそっと彼の視線をたどった。キルの燃えるような色の瞳が指し示すほうへ視線を向けると、ミチは息をのむ。そして、なにかのスイッチがはいったように性急に靴をぬぐと、靴下を靴の中に手早く入れて、スカートを遠慮なく捲ってずんずんとみずたまりのなかへ進んで行った。オフィーリアとキルがぎょっとするのにも目もくれずに歩いて行くと、ミチのどんどん身体はみずに飲み込まれていった。透明なみずのなかにどんどんミチの姿が飲み込まれていく。腰の位置をみずが通過すると、音も立てずに頭の先っぽまでみずのなかへ消えてしまった。
あまりにも静かではやい動きに、陸に残されたふたりはすぐに動けずに居た。けれどもちっとも水面にミチが顔を出さないのに気付いて、ふたりはやっと尋常じゃ無いようすに気付く。
「えっ、あっ……ミチ……!?」
オフィーリアが焦ったようにミチの名前を呼ぶけれども、こぽりと小さい泡が水面に浮き上がってくるだけで、反応は無い。キルが舌打ちをして、靴を脱ぎ捨ててみずの中に入る。おいクラウディア、と彼の声が周りに響くけれども、みずのなかに声は届いていないようだった。
「ねえ、ふざけてるならたちがわるいんだけど! 返事をしなよ!」
やはり返事はなにもかえってこない。ねえ、とわずかに焦るような気配がキルの声に混じる。後ろからオフィーリアの泣きそうな声が、彼女の名前を形作った。
「ッ、おい、クラウディ――」
ア、と焦ったキルの声が、みずしぶきの音に飲み込まれる。
ミチが沈んだ場所の少し手前までキルがたどり着いたとき、ざばあ、という大きい音がうまれる。キルの居る位置から三十センチほど後ろに離れた場所からミチが現れた。スカートの裾をしぼりながら、はだしでオフィーリアの元に向かうミチをみて、キルが動きを止める。乱れた前髪を手を櫛代わりにして直しながら、「見て! これすごいわ」とオフィーリアに笑顔を向ける。「いっぱいいろんなものがあったからどれを掴んでくるかまよったのだけど……」と呟きながら座り込むと、ふくらんだポケットから色とりどりのひかる石を取り出して芝生の上に並べ始める。
キルのチェックの半ズボンはずぐずぐに濡れている。目の前の自分の言葉になにも反応を返さないオフィーリアに気付いて、彼女が顔を上げる。オフィーリアがへたりこむように地面に座り込んで息を深く吐くと、ふしぎそうに首を捻って、「あれ? キルは?」とキルを探すように首を動かして、やがてみずたまりの中心で立っているキルをみつけると、またミチは首を傾げる。
「キル? なにをしてるの」
すっとぼけた言葉に、キルが目をつぶってわなわなと震える。そして次の瞬間、三人しか居ない林に、キルの怒声が響いた 「こっちの台詞だよこのバカァ!!!!」
「それにしてもおどろいたわ。あんなに宝石が落ちているのは初めて見たわ」
「落ちていたんじゃ無くて多分つくられたんじゃないかな。この林のいろんなものをみずが運んできて、うつくしくないものだけが分解されて、うつくしいものだけが底に溜まったんだとおもう」
「でもよく見つけたなオフィーリア。人間が宝石を見つけることができるなんて稀だ」
キルの言葉に、ぼくもおどろいているんだとオフィーリアが笑った。
ふしぎなおおきさのみずたまり。その中心の底には、色とりどりの小さな宝石が眠っていた。あか、あお、きいろ、しろ、みどり。決して強い色では無いけれど、それはたしかに色を持っていた。けれどもミチは、キルの視線をたどるまでその光に気付かなかった。一度気付いてしまえば全て目に入るけれども、その"気づき"が人間にはない。
この世界には多くの宝石が存在する。街角、家の中、庭の木の間や森の花の根元。つちのなかや川のなか。この世界にはいろんな種類の宝石がそこら中に転がっている。けれども人間は、その宝石の存在に気付くことが出来ない。勿論練習をつんだら別だ。専門の学校に行って訓練をすれば、"気づき"のレベルは上がるだろう。けれども、どう足掻いても魔女には及ばない。魔女にはその"気づき"が生まれながらにして備わっているのだ。
人間にとっては"死角"のばしょに存在する宝石を見ることが出来る。魔女の目は特別で、魔女の目の持つセンスはとびきりだ。現にキルは誰よりも先に宝石の存在に気付いた。
「ほんとうにたまたまだったんだ。たまたまこの林をみつけて。このみずたまりをみつけて。ぼくも最初はミチとおんなじだったよ。ただふしぎだなあ、みずうみでも川でも無いおおきさだなって見ていただけだったんだ。でも見ているうちに少しみずにふれてみたくなって、さっきのミチのようにこのみずたまりを泳いでみた。深く潜ったり膝を抱えて浮かんだり、いろんなことをしているうちに、ぼやけた視界の端っこにきらめきがみえたんだ。――一度見えたら――……あとはもうミチもわかるんじゃないかな」
「目の前に一斉に宝石が飛び込んでくるようなかんじかしら」
わたしもびっくりしたわと頷くミチと、同感するオフィーリアを見て、キルが「ふうん。人間はそういうふうに感じるんだ」と興味深そうに呟く。キルはミチのポケットから出て来た石を一つ一つ手に取った。あか、あお、きいろ、しろ、みどり。大小さまざまなそれらをひとつひとつ見ていると、同じように石を手に取っていたミチが声を上げた。キルはミチの大声に肩をびくりと揺らす。 「いきなり大きい声出さないでよ」
「だってこのいしふしぎなんだもの!見て」
ミチの手のひらに転がる石は消しゴムと同じくらいの大きさで、ごつごつというよりはむしろ河原にある石のようにすべすべとしていた。藍色に深く透き通った石。そのなかに白い気泡が見える。ミチはこんな宝石初めて見たわ、と人差し指と親指で石を持って日に透かせたり触った感じをたしかめたりする。
「なんの宝石かしらこれ」
「海の宝石……アクアリゴストじゃないなこの白い気泡と透明度」
青い宝石で有名なのは海の宝石と呼ばれるアクアリゴスト。宝石につけられた十まである貴重度の中で、つきのいしに継いで価値の低い貴重度二の宝石。アクアリゴストの特徴は目の冴えるような青色だ。
けれどもアクアリゴストはこの目の前にある宝石のように白い気泡は入っていない。また、アクアリゴストは透明度に欠けていてほぼ不透明と言って良いほどの青の塊なのだ。さらに言えば、人間の手を加えない限り丸くは変形せず、どちらかというと火山岩のようにごつごつとしている。
ミチの手のひらに乗っている石をみて、宝石を見る事に慣れているキルでさえ、首を振った。ふたりがお手上げだというように石を芝生の上に置こうとしたとき、少し見せて、とオフィーリアが手のひらをミチに向けて開く。ミチは「ええ」と短く返事をして、オフィーリアの手に藍色の宝石をのせた。
オフィーリアはいろんな角度から宝石を見たあと、ポケットに入っているつきのいしで勢いよくその石を打った。キーン、という高い音がして目を丸くする。つきのいしに打たれても傷一つつかない藍色の宝石を見て「すごい」と声を上げたのはキルだった。宝石に詳しくないミチは、キルに説明を求めるように視線を向ける。キルはあまりにも驚いたのか、いつもの悪態をつくことを忘れて素直に反応した。
「つきのいしは宝石の中でもモース硬度十――古代存在したって言われているダイヤモンドと同じかたさなんだよ。そのつきのいしでも傷がつかないって事は、この宝石の硬度は十」
硬度十の宝石は珍しい。この時点で既に貴重度は六を越えてる、とキルが言う。まあ、とミチが目を輝かせて、真剣な表情で宝石を見ているオフィーリアを見た。オフィーリアはつきのいしでもびくともしなかった藍色の宝石を眼鏡を外して見つめたあと、急いだようにみずたまりに走った。その後ろを、慌ててミチとキルが追う。
ばしゃん、と小指と小指をくっつけて、みずをすくうようなかたちにした手のひらをみずたまりにしずめる。肌色の真ん中にあるはずの藍色を覗こうとして、ミチとキルが息をのんだ。そこにはなにもない。ただ肌色があるだけだ。
「ちょっと、オフィーリア、石を落としたんじゃ……」
キルの指摘に、オフィーリアが静かに首を振る。その顔はいままでにないほど輝いていた。瞳がまるでいとおしい物を見るように細められ、口は大きく弓なりに形作られている。
「――やっぱり、トリエルト・マリエントだ」
オフィーリアはひとりごちて顔を上げるとふたりの顔を見る。
「みずのなかに入れるとこの石は透明になってしまうんだ。……ミチは色を確認しないでつかみ取りのように石を取ってきたんだね」
オフィーリアが言うと、ミチがそっと頷く。
「みずのなかで視界がぼやけていたし……とりあえずポケットに詰められるだけ詰めてこようってそれだけしか考えていなかったわ」ミチが言うと「おまえのおおざっぱさには呆れる」とキルがすかさず呟いた。
「この石はトリエルト・マリエントっていうんだ」
オフィーリアが自ら手のひらを出すと、彼の手からみずがこぼれおち、その代わりにさっきの藍色の石がすうっと現れる。深く透き通ったそれに浮かぶ白い粒をオフィーリアが指さした。
「藍色の表面に白い気泡が見えることから、別名青い呼吸と呼ばれる宝石で、さっきキルが言ったように硬度は十。みずのようにやわらかそうにみえて、つきのいしと同じかたさの石なんだ。この白い気泡が多ければ多いほど価値が高くて、色が蒼ければ青いほど値段が高くなる。むかしはその硬さだけで評価されていて貴重レベル六として扱われていたんだけれど、いまでは歳出量が少ないことから"貴重レベル七"として重宝されているんだ。古代種とまではいかないけれど、かなりむかしから存在している宝石のひとつだよ」
「ちなみにみずの魔女によって亡霊から取り出された場合、みずの魔力を吸い大きくなる。みずの属性の亡霊以外からもとれる場合もあるんだけど、その場合、亡霊から取り出した瞬間に空気に溶けてちゃって消えてしまう場合もあるんだ。さっきもいったように、みずのなかに入れると透明になって、陸に出すと藍色になるのが一番の特徴。トリエルト・マリエントっていう名前は発見者ベクトアール=マリエントの娘トリエルトの名からこのように名付けられたといわれていてね、彼女は藍色の美しい髪の毛と銀色の瞳をもってい……」
ふんふん、と頷くミチとぽかあんと自分をみているキル。ふたりの存在にまるで今気付いた、というようにオフィーリアが口をふさいだ。あわてて眼鏡をかけて、ふたりの顔を交互に見たあと、俯く。「あなたって宝石をよくしってるのね」ミチが声を掛けると、ばっと顔を上げて、やはりまた俯く。耳まで真っ赤なオフィーリアを見て、キルが「隠すこと無いだろ」と静かに言った。
「え……でも、ぼくきもちわるくない?」
「なにが気持ち悪いのか僕にはわからないけど?」
「キルはフーはすごいんだからもっと堂々としろっていってるのよ!」
「うるさいよクラウディア」
そんなこと言ってもらえるなんて思わなかった、とオフィーリアが言うと、「こんな場所まで連れてきておいてよく言うよ」とキルが鼻で笑った。「キルはみずくさいこというなって言いたいのよ」とミチがオフィーリアの肩をぽんぽんと優しく叩く。うるさいよクラウディア、とすかさずキルが目を三角にした。
オフィーリアは言い合い(といってもキルが一方的に怒るだけだが)をはじめるふたりをみて、目を丸くしたあと、溜まらず吹き出す。吹き出したオフィーリアを、今度はふたりがふしぎそうに見つめた。
「ぼく、宝石鑑定士になりたいんだ」
この夢は、ぼくの幼馴染みしかまだしらないんだけどね。
そう続けたオフィーリアを見て、ミチが「すてき!!」と黒い瞳を爛々と輝かせた。フーなら絶対に出来るわ。素敵で優秀な宝石鑑定士になれる。そう大きい声でいうミチに「根拠は何処」とキルが首を振る。けれどもその表情は酷く穏やかで、オフィーリアは彼がこころのなかではミチと同じことを思ってくれているのだと言うことを悟る。ぼくはしあわせものだなあ。唐突に呟く彼を「とうとうクラウディアのバカがうつったの?こんなやつがふたりもいたら僕が何人居ても耐えられないから勘弁してね」なんてキルがわざとらしく肩をすくめる。そしてしばらく腕を組んで沈黙したあと、小さい溜息と共に口を開いた。
「じゃあおしえてもらっといて自分が言わないのはあれだし、仕方なく言うけど。僕の将来の夢は家業を継ぐことだよ。家族のためになることがしたい」
「素敵な夢じゃないキル!どうして聞いたときにそう答えてくれなかったの?」
「タダで教えるのが癪だったんだよ。うるさいよバカ」
「バカじゃなくてミチ、ね!」
うるさいよバカ、ともう一度キルが繰り返すと、えーい、という気が抜ける声と一緒にミチがみずたまりにキルを軽く突き飛ばした。キルはまさか突き飛ばされるとは思わなかったのか――それともミチが馬鹿力であったのか――結果として加えられた力に従いみずの中に落ちた。すぐにばしゃん、とみずから上がってきたキルが「なにするんだこのバカ!」と怒鳴る。
「だからミチだってば!」
「ふざけんなバカ!」
「だーかーらーミーチ!」
怒るキルと笑うミチ。そこからみずかけ争いが勃発して、最初は見ているだけだったオフィーリアも、ふたりにみずのなかに引き込まれる。三人でしばらくみずびたしになって遊んだあと、帰路についた。あたりはもう薄暗く鳴り始めていて、三人は走って帰る羽目になった。
むらさきがかかりはじめた空の下で走りながら、ミチが「決めた!」と手を叩く。「わたしの夢、決まったわ」その声は酷く晴れやかだった。へえ、どんなの。キルが興味なさそうに言いながらも、気にしているようにミチに目を向ける。オフィーリアは息を切らしながら、ミチに笑いかけた。
「わたしの夢は、おうちのお仕事を継いだキルと、宝石鑑定士になったフーのとなりに今のように立つこと!」
これがわたしの将来の夢!
ミチが大きい声で叫ぶ。恥ずかしいからやめなよ、とキルは言わなかった。ふうん、勝手にすれば、と言って少しだけ走るスピードをはやめる。ミチとオフィーリアは顔を見合わせて、素直じゃ無いんだから、と笑いあった。
――ミチ=クラウディアが10歳。キル=キルリエイズが10歳。そして、オフィーリア・スミスコラスが10歳のときの、とある夏の日の出来事である。
ぼくたちの夢は今息をしたばかりで
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