言葉を紡ぐことを辞めた私を、誰も責めなかった。
 
 祖父はただ私の頭を撫でるだけだった。私は、自分が少しずつ、母の手から生まれるあの美しい結晶になっていくような気がしていた。私は私という標本になるのだ、と思った。足の先から頭のてっぺんまで凍り付いて、母との記憶だけを身体に蓄積して、眠りにつく。そう、私は眠りにつきたかった。言葉だけで無く、目に映る物も、感じる物も、何もかも要らなかった。私は母と別れたあの瞬間から、時をとめたのだから。
 私はずっと部屋の中に籠もって、母と読んだ本を開いていた。天気の日には、母が好きだった庭へ出かけて、彼女のお気に入りだったマリー・ゴールドを眺めたりした。ねえ、母さん。私は心の中で、私の中に住んでいる母へ毎日声を掛けた。母はいつも通り私に話しかけてくれた。
「ねえ、母さん」
「なあに? ジゼル。今日はなんの御本を読みたいのかしら」
「えっとね、『寂しがり屋のたいよう』、『記憶の鳥』、『こぎつねの冒険』、『ゆきのひ』、それから……」
「そんないっぺんには読めないわよ、ジゼル」
「じゃあ、これとこれ。夜はこれ……」
 母は穏やかに微笑んでいた。いつも通りだった。私は、魔法が終わったなんて嘘だったのだと思った。だって私の目には、母が見えるのだから。魔法は続いている、と思った。ただ少しだけ弱まっただけ。母の中にはまだ魔法が生きている。大丈夫。私が約束を守るかぎり、母は失われたりなどしない。

 私は来る日も来る日も、言葉を発さなかった。
 
 ある日、幼なじみのオフィーリア・スミスコラスがやってきたときも、わたしは彼に一度も話しかけたりなんかしなかった。

 オフィーリアは私のことをしきりに心配していた。
「おじいさんから、ジゼルが話さなくなったって聞いたんだ」
 ベッドに横になったまま動かない私に、フィリアは真剣に話しかけていた。私は彼を無視して、ただただ横たわっているだけだった。彼と話すことは無かった。だって私は今母さんと一緒に昼寝をしているのだもの。私は空気を読まないフィリアがどうしたら此処から出て行ってくれるか母に提案したけれど、母にはフィリアが見えていないみたいだった。
「ジゼル、僕と一緒に出かけようよ」
 フィリアが私の手をそっと握った。私はその手を払いのけると、母さんに抱きついた。母さんが、私をあやすように頭を撫でてくれる。フィリアがしきりに私の名前を呼んだけれど、私は無視した。どうして分かってくれないんだろう。お祖父様も、皆私に何も言わないのに。フィリアだけがずっと、しきりに私を外に出そうとした。内側の世界から、外側の世界に。私は此処から何処にも行きたくないのに。どうして邪魔をするの?
 私は永遠に母さんと一緒に閉じ込められていたいの。この世界にたったふたりだけで、魔法にかかっていたいの。もうそれ以外、何も必要ない。
 私をこの世界に引き戻そうとするオフィーリアが煩わしかった。私は、母以外の記憶を何もかも封じてしまいたかった。
 
 夕方、私は部屋を抜け出して、祖父しか入ることを許されていない工房へ足を運んだ。
 扉は厳重に閉められていて、多くの魔法によって守られている。アンバーの血を持つ人間でしか侵入できないようになっている扉を開けるのは容易ではない。特に三番目の扉――『記憶』を閉じ込める工房につながる扉は、たとえ血を受け継いでいる私だとしても、もしかすると通れないかも知れない。私は庭を一気に駆け抜けると、工房の第一の扉の前へ立つ。
 扉のすぐ横にある大きな水鏡に両手を沈ませる。肌色の掌に、細かい氷の結晶が集まってくる。冷たい。手がなくなってしまうみたいだった。けれども、動かせてはいけない。私は目を瞑って、母を想った。
 その瞬間、手が青い炎に包まれる。水の中で燃え続ける火はやがて消え、私の手は入れたときと同じ状態に戻る。
 ごう、っという音を立てて、重々しい黒曜石でできた扉が開く。
 ――開いた。
 私は水鏡から手を取り出し、自分の手を見る。細かい傷が掌にできている。祖父の硬い皮膚に残っている傷跡と、同じ物だった。
 暗く広い倉庫へ足を勧める。扉は、あとふたつ。一番目の扉は簡単だ。けれどもふたつめとみっつめは、そうはいかない。魔法道具が駆使された倉庫の中のセキュリティは、このカテドラル・ルイナテリィーゼで一番。私は扉をくぐり抜けると、だだっ広い倉庫の中へ入っていった。後ろですぐに扉が閉まる。植物でできた絨毯がずうっと先まで続いている。足を付けた場所だけが、ほたるの発する光の色のように輝いていた。
 母さんの声が、聞こえなかった。けれども、大丈夫。後少しで、私は何もかもを忘れることができる。もうこれ以上――くるしまなくって、いい。

 やわらかい蔦を踏んで進んで行く。左右には、メープルでできた戸棚に、たくさんの標本が置かれている。私はそれらに思いを馳せながら、ただ歩き続けていた。

さよなら私の、
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