駄目だ。もしここよりも高い場所へ行ってこの庭の全体を捉えたとしても、それが"本当の庭"なのか、ジゼルには分からない。目くらましがふんだんに使われた此処で、自分の視界は信用できない。宝石烏を見てみると、彼は地面に転がっている木の実をくちばしでつついて遊んでいた。のんきなものだ、とため息をつく。彼はジゼルがゴールできなくてもいいのだろうか。所詮記憶の宝石を食べるなんて約束は、彼の気まぐれでしかないのかも知れない。全くもって信用できない同行者だった。
ジゼルはとりあえず目印になるようなものを探した。童話のヘンゼルとグレーテルのように、通った場所に目印を置けば、新しい道へたどり着けるかも知れないし、何かあったとしても道を戻ることができる。転がっている木の棒を拾い上げて、地面にバツ印をつけて歩く。しばらく歩いたら印をつけて、また足を勧めたら印をつける。地道な作業を続けながら進んで行くけれど、やはり視界は何処まで行っても草の壁だらけだった。
草木を頼りに進むのは限界がある。ジゼルは地面に座り込んで、もう一度探し方から考え直すことに決めた。天井を見上げて、アスール・プロトネリアを見つめる。絶えず色が変わるアスール・プロトネリアも頼りにはならない。草、花、鉱石……この空間にあるモノをひとつずつ地面に書いていく。木の実、枝、葉っぱ……。駄目だ。何も浮かばない。
すると、ばしゃんというと音と共に、水が顔にかかった。驚いて悲鳴を上げると、ケラケラと笑っている烏が目に入る。草木の壁のそばにながれる小さな水路から、こちらに水を飛ばしたらしい。ジゼルはぐっしょりと濡れた髪の毛をひとつにまとめると、烏に飛び掛かろうとする。しかし、ジゼルの行動を先読みしていたらしい彼は、そんな彼女をばかにするように頭上を飛び回った。ジゼルは木の棒を振り回して彼を遠ざけようとしたが、上手くかわされる。更に、彼の金のくちばしがジゼルの髪や服の裾を引っ張ったりした。
ぶん、ぶん、と烏を追いかけながら木の棒を振っていると――ぐらりと身体が傾いた。
何が起こったのか、ジゼルは瞬時に理解出来なかった。あっという間に身体が冷たい水の中に沈む。驚いた拍子に、大量に水を飲んでしまった。――苦しい。慌てて水面に向かって手を伸ばす。
「はっ……ごほっごほっ……」
着ていたドレスが水を吸って酷く重たくなっていた。濡れた髪が顔に張り付いて気持ちが悪い。
「アーア。ビッショビショ。可哀想ニ」
肩をすくめるようなそぶりをしながら、水面に立つ宝石烏が此方を見ている。ジゼルは舌打ちをしたい気持ちをぐっとこらえながら、顔の水滴をぬぐった。――記憶を無くしたとしても、この烏だけはこの工房から連れ出し、から揚げにしてやろう。心の中で誓う。
ジゼルが落ちたのは、水路につながっている小さな川だった。この庭は、植物にまんべんなく水を与えるための細かい水路がそこら中に張り巡らされているようだった。そう言えば、川があったことを思い出した。水路が最終的に集まる、幾つかの太い小川が。
この広い庭には、果てがある。その全てに、この水路が張り巡らされていて、それがこの場所に流れる幾つかの小川に集中しているとしたら――扉につながっていなくとも、確実にそちら側に移動することができるかもしれない。
ジゼルは水面を踊っている烏を見る。もしかして、この鳥は、それを気付かせるためにジゼルを水の中に落としたのかも知れない。ジゼルはから揚げにする計画を撤回し、丸焼きにとどめることにした。
水の中を泳ぎながら進んで行く。水路は案外単旬な造りだった。真っ直ぐ続いている小川から、左右に補足水が引かれている。途中で小川が複数合流し、また水路が引かれていく。この庭は長方形にのびているのではなく、どちらかというと三角形のように広がっていることが分かった。最終的に、この小川はひとつにまとまる。ジゼルはひたすらに泳いでいった。
泳ぎが得意で良かった、とジゼルは思った。昔から、夏が来るとフィリアと一緒に敷地内の湖に出かけに行っていたことを思い出す。ジゼルは外の世界を知らない。産まれてから今まで、記憶館と、城――そして、祖父がよく過ごしている離れ、そして広い庭しか行ったことが無い。宝石標本士の家系は、標本士の資格を取るまで、特例がない限り外には出られない。この場所に立ち寄るのも、親戚とこの地域を管理している公務員の家系だけだ。それも、よっぽどの用事でなければ来られないことになっている。ジゼルは学校にも行ったことが無いし、同い年の友人も、フィリアをのぞいてはたったひとりだけ。この地域を統べるマリエント家の跡取りである、アルバルトのみだった。
それに、不自由を感じたことはない。窮屈だと思ったことも無かった。ジゼルの世界は、フィリアと祖父、そしてハイネ――それだけで良かった。此処には本もある。美しい記憶が沢山眠っている。 記憶とは、世界だとジゼルは思っている。世界とは歴史であり、未来とは夢だ。この場所には全てがある。誰かの歴史は、そのままジゼルの血液に流れる現在だとジゼルはよく知っていた。この場所から出ず、永久に此処で過ごしたとしても、ジゼルは満たされるであろうと感じていた。外側へむかって羽ばたいていくフィリアを眩しく思うこともある。時に嫉妬することもあったけれど、それはジゼルがまだ無知だからだと思うことにしていた。
むしろ、今あるモノを失うことの方がジゼルは怖かった。
フィリアとハイネ、そして祖父。ジゼルの世界を構築するものは多くない。そのひとつでも失ってしまえば、ジゼルはジゼル自身が分からなくなってしまう。ジゼルは変化を恐れていた。変わりたくなかった。ずっとこの場所に留まり、守られていたかった。ジゼルの夢は要らなかった。ジゼルは、ただ今だけが欲しかった。たしかな今だけが欲しくて、この先の未来など要らない。
泳ぎ続けていると、だんだんと底が浅くなっていく。最初は足がつかないほど深かった小川は、波打ち際のようになっていった。茶色かった地面が、砂浜のようになっている。ジゼルは水の中から出ると、服をしぼった。ばちゃばちゃ、という音を立てて、水が落ちる。砂浜に茶色い染みができた。
泳いでいる内に、いつのまにか靴を無くしていたらしい。片方だけ残っている茶色い革靴を脱ぎ捨てる。烏が波打ち際に寝そべっている貝を殻ごと食べていた。
来た道をじっと見つめてジゼルは息を吐いた。幾つも存在する小川が集まってまるで海のように広がっている。島のように浮かんでいる草木の壁が、うつくしかった。シークレット・ガーデン。自分が抱いた最初の感想を、繰り返してみる。淡水の海に浮かんでいるようにみえるその庭はたしかに秘境のようで、抜けられない迷宮のようだった。樹海に似た一種の魔力があるように感じられる。
先に進もう。
ジゼルは白い砂浜を歩いて、先に進む。植物が一切なくなったそこは、砂漠のようだった。この先の扉が、記憶を司る工房につながっている。ジゼルは目を細める。昔、祖父が言っていたことがあった。記憶とは、砂の層のようだと。さらさらと積もり、こぼれ、吹かれてまた積もる。歴史とは砂漠なのだ、と。
扉はきっと、"この下にある"とジゼルは思った。この砂漠こそ、記憶が仕舞われた金庫のように思う。すると、烏がジゼルの頭に座った。
「セイカイ」
目の前に、巨大な蟻地獄のような渦が生み出される。ざあ、っと砂が地下に落ちていく音が響いていた。もう何が起こっても驚かない。ジゼルは、そのまま砂の流れに身を任せる。下半身がずぶずぶと沈んでいく。
「目を瞑って、オイラがイイヨっていうまで息をとめナ。何処に落ちるかはオマエの運次第」
言われるままに、目を閉じる。身体が生暖かい砂に包まれていく。言い用のない浮遊感に身を任せて、ジゼルは記憶の中へ落下していった。
忘却の砂漠
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