朝特有の混じり気のない、透明なにおいにほっと息を吐いた。辺りはまだ夜に包まれているけれど、朝の気配は確かに近い。
 まだ寝静まった屋敷の中は物音ひとつしない。静かだからこそ彼女を安心させた。髪を結んでいるゴムのつきのいしに触れて、顔を上げる。指先に残るほんの僅かなつめたい感じを、手を握ることで内側に閉じ込めた。息をゆっくり吸って、静かに吐く。

 コンコン、と彼女にしか聞こえないくらいの控えめな音で窓がノックされる。

 ミチ=クラウディアはそれを確認して、赤い革のかばんを背負った。肩に触れる部分をそっと掴むと、なめらかですべすべとした感覚が伝わってくる。使い古したそのかばんはくたびれてはいるものの、肩にしっとりと馴染んだ。
 新しいかばんを買ってあげる、と父親に言われたときに、このかばんが良い、とミチは首を振った。長くから使っているこのかばんは、お世辞にもきれいだとはいえない。けれど、長い年月をミチと過ごしてきたかばんは、目の覚めるような赤色から、畑でとれるトマトのような太陽のひかりを吸い込んだ色に変貌していた。その色が、ミチは好きだった。かばんはミチの手のひらや、肩の形や、背中の骨のでこぼこしたかんじを、ミチ以上に知っていた。かばんとミチのあいだに隙間は無かった。かばんはミチの肌をひっかくことも、痕をつけることもしない。ミチに誰よりも親切なこのかばんが、ミチは好きだった。

 生活に必要なものは既に送ってある。持って行くのは今日食べるぶんのお昼ご飯と、少しのお金と緑色の切符、本と、寝るときにそばに置くぬいぐるみくらいだ。――中身は昨日も朝も、何度も確認した。大丈夫。

 ドアを開けて、長い廊下に出る。床に敷かれたカーペットにそっと足を沈める。ブーツの底越しに足の裏にふわふわとしたカーペットのふくらみが伝わってくる。その感覚を膝で受け止めながら、階段を降りきったところで、後ろから声がした。
 低く、木の葉と木の葉がこすれ合うような声。発せられた声は静かに屋敷の中に小さく響いて、天井に吸い込まれていく。冷め切った屋敷の中に、あたたかさが僅かにうまれる。
 ミチの動作はゆっくりとしたものだった。けれどもゆっくりとしているからこそ、一種の上品さを持っていた。しなやかに振り返って、両手でスカートの裾をつまむ。腰をそっと曲げて、頭を下げる。膝を深く曲げると、「お見事」と朗らかな声がすとんと背中に乗った。ゆっくりと顔を上げて、ミチは口を開く。
「フレディお祖父様」
 起きてらっしゃったのね、とミチが眉を下げて笑うと「昔から老人という人種は早起きなのだよ」とフレディ――彼女の祖父、フレデリック=エルネスト=クラウディアは返した。優しい深い緑色をした瞳が細くなる。彼の服装は既に仕事をするときのそれだった。白く清潔な衣が、どこかミチの髪留めの石を思わせる。首にかけられた聴診器が天井の硝子窓を通り抜ける月の光に照らされて、ぴかりと光った。
「私が言うことでは無いことは重々承知で、それでもいわせておくれミチ。あの二人を許してやっておくれ」
「……元より、うらんでなどいないわ。お父様もお母様も……フレディお祖父様も分かってらっしゃるでしょう?」
 これはわたしの問題なのよ、と首を振る。「わかっていたとも」とフレディは返した。窓の外の空に、紫が仄かににじんでいる。濃い濃い夜の色は少しずつ水で薄められていく。太陽の光に薄められて、薄められて、きっと今日は青になるのだろう。心の奥のように透き通る青の色。晴天。ミチはそれを予想しながら、フレディに近づいた。彼も引き寄せられるように彼女に手を伸ばし、骨張った両の腕で彼女を包み込む。押しつけるように胸に顔を埋めるミチに、フレディは「おまえなら大丈夫だよ」と笑う。彼女の夜の色をした髪の毛を結ぶつきのいしが、白く、強く、薄荷色のひかりをまとってひかっていた。ミチは聴診器が耳に当たるのを感じながら、大きく息を吸い込んだ。消毒液と、庭でとれる薬草のにおい。苦くてつんとして、でもちょっとだけ甘いにおい。そのなかに、ほんの微かに紅茶のにおいが混ざっている。珈琲の苦手なフレディ特有のにおいだ。それにミチはた
まらない想いになった。その想いを隠すように聴診器を手の中にそっと包んで、目をつぶる。短く、長く――やはり短い時間だった。
「私は此処でいつまでも待っている。振り向かず、行ってきなさい。身体には充分、気をつけるんだよ」
「お祖父様も」
 最後に強く抱擁した後、頬にそっとキスをして身体を離した。スカートのはしっこがゆるりと揺れる。大きいドアが開いて、またすぐに閉じた。広い緑の庭の先に、彼女が消えていく。藍色のワンピースと白いシャツ。その七色のボタンのきらめきが消えてしまうまで。黒の髪の毛を留めている、つきのいしの発光がおさまってゆくまで。フレディは目をそらさずに立っていた。足音のなくなる一瞬まで。ずっと。
 そして屋敷にまた、静寂が訪れる。



「遅い」
「ごめん、キル!」
 責めるような口調で発せられた言葉は、全く棘が無かった。そっぽを向く真っ赤な髪の毛の彼を見て、ミチは花屋に並んでいる棘の取り除かれた薔薇を思い浮かべる。ふふふ、と思わず彼女が笑いを零すと、キル=キルリエイズはミチの笑顔を鬱陶しそうに数秒見つめてから、「行くよ」と歩き出す。ズンズンと進んでいくけれど、ミチが追いつけないくらい早くは歩かない彼に、ミチはまた笑いを零した。白いシャツの袖口に目を落として、そっとそこから見える肌色を掴むと、ぎょっとしたようにすぐに彼が此方を向く。
「……何。離してよ。おまえの荷物、僕は持ってやらないよ」
「持たなくていいから手を繋いでいきましょう、キル」
「絶対に嫌。離して」
 でもほら、振りほどこうとしないじゃない。そう言ったら本当に怒らせてしまいそうだから、ミチは黙って彼に笑顔を向けた。彼は何事かを言いたげに数回口を閉じたり開いたりを繰り返したけれども、あきらめて歩き出す。
 もうすぐ庭を抜ける。
 野菜と薬草だらけの緑の庭。キルと何度も箒に乗る練習をした。亡霊がたまに外壁を通り抜けて、白く光っていた。もう此処に亡霊が来る事は無いだろう、とキルはいう。そうであってほしいとこの屋敷に住む人たちを想った。"消失"することは、恐ろしいから。とびきりつめたくて、かなしくて、不可解で、不可避で、やるせないから。それなのに、ひどくうつくしいから。いやだとおもう。
 木々のアーチをくぐり抜ける。枝と葉の隙間を何の気なしに見つめていると、右手が軽く引っ張られた。僅かによろけて白いシャツの肩口にほっぺたが軽く触れた。顔を上げると、キルが穏やかに此方を見ていた。前髪が生み出す影が瞳をぱくりと食べているせいで、濡れた紅葉の色のように瞳の色が沈んでいた。海を赤くしたらきっとこんな色をしているんだろうなとミチは思う。キルは数秒ミチの瞳をじっと見たあと、「くだらないことを考えるのはやめておいたら」とだけ言った。
 くだらないこと、とミチは口の中で反芻する。
 くだらないこと。きっとそれは取るに足らない、という意味合いじゃ無いんだろうな、といつの間にか強く力の込められた繋がれた手のひらをみて思う。ばかなことを考えるのはやめろといっているのではない。ミチの考えていることをばかにしているのではなくて、多分、キルは心配しているんだ。ミチは思う。
 やめておけ、じゃなくって、やめろ、でもなく、やめておいたら。そう言うキル。
 ミチは好きだと思う。
 そしてそれは口に出ていたようで、キルは少しだけ早歩きになった。ミチは小走りをしてキルの隣に並んだ。ぶんぶん、と繋がれた手を前後振ると、やめろ、とキルが目を三角にした。
「ねえキル、ありがとう」
「……急に、何。べつになにもしてないし。いいからおとなしく、静かに歩いてくれない」
 子どもっぽくて恥ずかしいから、とキル。いいじゃない、子どもなんだものとミチ。そうやって子どもあることを引け目にも悔しくも思わないところが、キルはふしぎでならないと言ったけれども、ミチはやっぱりよくわからなかった。わたしたちは子どもなのだから、子どもの特権を使うべきだ。期間限定の権利は大事にしなきゃもったいない。ミチは言う。キルはお気楽、と顔を逸らす。ふたりの足取りはさっきよりもずっと軽かった。木々のアーチをぬけると、まだ開いていない朝顔が絡まっている外壁が見える。
 庭はもう終わってしまうのだ、とミチは思った。
 この庭から出ていく。この家を出て行く。自分の知らない場所へ行く。自分のことを知らない誰かの元へ行く。自分の知らない世界へ踏み出す。とてもふしぎな感覚だった。怖いような、わくわくするような、不確かで不安定な感じ。足場のしっかりしていない場所に立っているような落ちつかなさと、雲の上から地上を見ているようなときめきがごちゃまぜだった。そして両方ともまざりあって、なんとも形容しがたい味を生み出していた。何となく口をもぐもぐしていると、「朝ご飯の時間にはまだはやいんじゃないの」とキルが嫌そうな顔をした。ふしぎ。ふしぎなことばかりだ。自分がこうしてキルといっしょに此処を出て行くこと。あの家を居心地が悪いと感じたこと。空を飛ぶこと。まじょであること。この手から魔法が作られること。人間、亡霊、まじょ、マジョ、魔女。
「わたしたち、此処からでていくのねキル」
 門が見える。黒い鉄で出来た複雑なつくり。描かれているのは羽。妖精の羽のようにも、天使の羽のようにも、ただの葉っぱのようにもみえるふしぎなもよう。クラウディア家の家紋。
「……後悔してるの?」
 キルの声が鉱石のような堅さとなめらかさを持つ。複雑なかたちは、心の隙間にすとんと収まるかたちに変化する。隙間を埋める声に、ミチは首を振る。ぱちぱち、と拍手をするようにつきのいしのゴムがぶつかって高い音を出した。
「しないわ」
 後悔。コウカイ。こうかい。しない、そんなもの。したくない。
 風に揺られて言葉が飛んでいく。ミチの形をした声に羽が生える。白い空に飛んで、蒼に溶けていく。
 後悔なんて、しないために、いまあるいてるの。この手を、離さないのよ。ミチは笑う。門が開かれる。庭が終わる。車の音が遠くに聞こえる。最後まで振り返らずに。歩いて行くわ。この先も。なにが、あっても。

 だってわたしは、わたしを愛するために、生まれてきたのよ。
旅立ちの朝に
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