ミチ=クラウディアがこの街、カテドラル・ルイナテリィーゼにやってきたのはキル=キルリエイズが九歳の時だった。
 珍しい真っ黒の髪と、同じ色をした瞳。自己紹介の声が溜まらなく大きくて、煩いなというのがキルの第一印象だった。真っ白いシャツに赤いワンピース。虹色のボタン。その色が目に染みつく前に興味を無くして、窓の外を見ていた。席はどこがいいだろうという教師の声。どこでもいいだろうと思うキル。好きな場所に、という言葉に彼女の足音は自分の隣でとまって、かたりという音と一緒に視界の端っこに黒がうつった。頬杖をついていたキルは、頬と右手を話して、見上げるように少女を見た。どこでもいい、と思ったけれどまさか自分の隣を選ぼうとするなんて、予想外だった。彼女の黒い瞳に、少しだけ驚いた顔の自分がうつっている。ミチはにっこりと笑っていた。
 すぐに周りがざわめいて、耐えきれないというようにひとりのクラスメイトがミチの袖口を引っ張る。キルの隣の空白の席の、通路を挟んだ隣。そばかすの目立つ少女の顔は、困惑していた。顔にうっすらと浮かんだ汗の理由に、ミチは気付かない。
「そいつのとなりはやめておきなよ」
 ミチに向けられた声。ひそひそ、とした声だったけれども、キルにはもちろん聞こえたし、多分クラス全員に聞こえたのでは無いかと思う。キルは何も聞こえなかったふりをして、また頬杖をついた。
「だって、さあ。その子、まじょだもん」
 はあ、とため息をつく。それだけで、小さい悲鳴が周りに波のように広がる。煩い。心の中で呟いた。煩い。人間のくせに。煩い。人間のくせに。煩い。なにもかも。耳の中に入ってくるどんな音も、雑音にしかならなかった。まとまりがなくて、毒が混じっていて、苦くて、吐き気がする。
 煩い。煩い。
 まじょ、がなにかもしらないくせに。
 急激に、自分の内側が沸騰するようにぐつぐつと音を立てた。目の前がちかちかして、強く数回瞬きをする。瞳を瞼で覆ってしまうと、ゆっくりと息を吐いて、目を開けた。
 目の前には窓辺に置かれた花瓶があった。頼りない緑色の葉っぱが、白く僅かに濁った水面に落ちて揺れている。それをじっと見つめていると、端の方がちりちりと音を立てた。沸騰していた内側が、ゆっくりと冷めていく。
 葉っぱが原型を崩していくのを想像する。
 花から離れた、あんな小さい葉。誰も気付かないだろう、とキルはおもう。あの緑が茶色く焦げていくことなんて誰も気にしない。誰も、僕のことなど見ていないんだから。

 ――燃やしてしまおうか?
 ――燃やしてしまおうか?無くしてしまおうか?
 ――かまいやしないさ、あんな小さな葉。誰も,気づきやしないさ。

 僕のことなど、なにもしらない人間に、僕のことなどひとつも理解してもらいたくない。キルは思う。僕の見ているもののひとつだって、知られたくない。
 キルは机に転がるペンを手に取る。その瞳に、影が差す。
 燃えてしまえ。
 小さく口を動かそうとしたとき、手につめたいものが触れた。
「はじめまして、わたしミチ=クラウディア。よろしくね」
 一瞬、自分の手をくるむつめたさがなにかわからなくて反応が遅れる。
 ちり、と音を立てるはずだった葉から目をそらす。自分の手元に視線を落として、自分の手をくるむそのつめたさがミチ=クラウディアの手の温度だと言うことに気付くと、すぐに手を振り払った。その温度ごと、消してしまうように思い切り。ぱちん、と高い音が響いて、びゅう、と風が彼女のまっすぐに切りそろえられた前髪を揺らす。けれども目の前の彼女の黒は揺らがなかった。
 じっと此方を見て、目を閉じることも、逸らすこともしない。静かで、深い。静かな瞳だった。
 叩いたのはキルなのに、キルはまるで頬を殴られたような、打ちのめされた気持ちになる。
 この女、僕によろしくと言った。キルの心臓は、壊れそうに鼓動を刻んでいた。得体の知れないものに出会ったときのように、キルの心臓は騒いでいた。全身が、警報を鳴らしていた。
 僕はまじょなのに。僕のこのちからは、あの花を殺そうとしたのに。
 きっと彼女は気付いていた。気付いていたから、キルの手を掴んだのだ。自分の手で彼の手を掴むことで、ミチはキルがあの花を殺すことを、防いだ。
 ざわめきも、キルの行動も、なんでもないことのように、ミチ=クラウディアは席に着いた。やはり、キルの隣の席だった。キルの隣の席に座る彼女の姿勢は綺麗だった。背中のタテのラインはゆるやかで自然だった。
 立ったまま彼女を見下ろすキルに、ミチはそっと視線を向けて、「あなたも座って」と笑った。さきほどのことなどなにもなかったみたいで、キルはまた打ちのめされた気持ちになる。けれども席に着いたときに僅かに下げたキルの視線が、彼女の赤く染まった手を捕らえてしまう。
 胸糞悪い、と思った。下唇を噛む。罪悪感のようなものが一瞬心に浮かんだことを、キルは恥じた。自分は当然のことをしたのだと言い聞かせる。だって自分は魔女で、まじょ。そして、ミチ=クラウディアは人間だ。
 授業がはじまる。教室の中には興奮が強く残っている。新しいクラスメイトへの好奇心を孕んだ瞳が、いろんな人間から向けられている。キルは彼女に向けられた視線が、自分をも捉えていることに酷く居心地の悪さを覚えた。
 はやくおわれ。キルは心から思った。はやくおわれ。こんなつまんない授業も、つまんない教室も、全部おわれ。おわってしまえ。物がほのおに飲まれて、燃えて灰になるみたいに。そのほのおが、風に消されてしまうように。
 めをつむること。世界を閉ざすこと。心の中にほのおを灯すこと。内側に想いを馳せること。
 それが、キル=キルリエイズがこの教室で呼吸を出来る瞬間だった。
ほのおはいのちと呼吸する
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