今日はよく目覚める日だ、と目を開けた瞬間思った。ぼたぼたと顔に水滴が落ちてきて、眉をひそめる。呼吸が苦しい。誰かに抱きしめられている――そう感じた瞬間、太陽の匂いが鼻をかすめた。
 ……フィリア。
 思わず心の中で名前を呼ぶと、自分の髪の毛の色とよく似た色をした瞳が、此方を見た。ジゼルの大好きな色だ。ああ、フィリアが居る。ということは、ここは城――戻ってきてしまったのか、とため息をつく。私は結局お祖父様に見つかったのだろう。あの宝石烏に騙されて、と思って、首をふる。違う。私が無知だったのだ。あの場所に行けば、必ず忘れられると思った。全ての記憶を捨て、母さんとの記憶だけ抱いて生きていけると思っていた。私は標本になりたかった。母との記憶だけを自分の身体にとどめた、標本に。
 けれども、無理だった。
 私は、母さんのために何もできない。人に迷惑を掛けて、結局私は何がしたかったのだろう。禁忌を犯して工房に入り込んで、その結果、ただ何もできず、帰ってきただけ。
 もう何もかも意味なかった。私の周りに、母さんが居る気配は感じなかった。おしまいだった。
 これからただ果てしない道のりを、母さん無しで生きていくしか無い。どうして?
「このまま死んでしまいたい」
 そうして母さんと一緒に眠りにつければよかった。そうすればずっと一緒に居られる。すると、ばちん、という音を立てて頬が叩かれた。
 フィリアだった。
 フィリアの顔は涙でぐしゃぐしゃだった。部屋は真っ暗だ。いつからいたのだろう。私はどれくらい眠っていたのだろう。分からないけれど、頬に触れた彼の手は氷のように冷たかった。
「二度と言わないで」
「――なんで? フィリアに何が分かるの?」
「……分からない」
「じゃあ私が生きてても、死んでても、関係ない」
「関係あるよ。僕はジゼルが死んだら悲しい」
「知らないよ、そんなの」
「だから死なないで」
 ――ジゼルのことが好きだから、大好きだから、死んだら悲しいから、死なないで。
 意味が分からなかった。そんなの、知らないよ。私は死にたいんだもん。母さんといたいんだもん。だから、母さんの所にいきたい。そう言っても、フィリアは聞かなかった。僕が好きだから、いなくならないで。彼はそれだけしか言わなかった。
「自分勝手だよ、そんなの」
 私の辛さなんか少しも知らないくせに。痛みなんて、分からないくせに。偉そうに言わないでよ。私が居なくなったら寂しいなんて、言わないでよ。私は――私は、母さんが居なくなって、寂しいんだ。ここにいたくないんだ、母さんが居ないなら。
「ジゼルと一緒に居たい」
「私だって――母さんとずっと一緒に居たかった。寂しいし、悲しかった」
「うん」
「だけどもう居ないの」
 ――どうして?
 私は何もしていないのに。母さんも何もしてないのに。どうしてだ。ジゼルは、自分の目からいつの間にか涙が落ちていることに気付いて、慌てて拭った。フィリアが、何も言わずにジゼルを抱きしめる。ジゼルはうんざりだった。これ以上、自分の気持ちを乱さないで欲しかった。抵抗して、突き放すはずだったのに、それができなかった。
「ジゼル、大丈夫だよ」
 何も大丈夫じゃない。全然、大丈夫じゃない。見当違いも甚だしい。それなのに、ジゼルの目からは涙が溢れていた。馬鹿みたいだ、と思った。けれど、涙を止めようと思えば思うほど、止まらなくなってしまった。何も大丈夫じゃないのに。
 ――ずっと、大丈夫だって言って欲しかった。母さんに。
 母さんに、言って欲しかったのに。母さんは、もうこの世界のどこにも居ない。

 悲しかった。
 ジゼルは初めて、声を出して泣いた。

 その日からしばらく、ジゼルはずっと泣いていた。その期間、オフィーリアは片時もジゼルのそばを離れなかった。彼はずっと大好きだと言い続けた。ジゼルが泣かなくなってからも、彼女に会うたびに伝え続けた。ジゼルが泣かなくなってからも、ずっと。

 オフィーリア・スミスコラスは、ジゼルのことが大好きだった。
太陽の匂い
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