「アルバルト」

 窓の外は透明の水が小さい粒となって空から落ちてきている。透明の滴は地面に染みを作り、色を塗り替えていく。少しずつしっとりと濃くなっていく植物を見ながら、アルバルトはゆっくりと息を吐いた。
 昔は雨の日が嫌いじゃ無かった。邪魔な物が何もかも洗い流されて、本当に必要な物だけ残ったような―――包み込んで、要らない物をまるごと消してしまったみたいな雨上がりの世界は美しかったし、胸がすっとした。清らかな空気も、森の奥と同じ空気のにおいも。生き生きと石垣を横断するかたつむりも、嫌いじゃ無かった。むしろ、好きだったと思う。
 けれどもいつの間にか、いつからか、アルバルト=マリエントにとって雨の日は、どこか心にざわめきを作る物に変わっていた。なにかがおこりそうな、落ち着かない感じ。五感が参るぐらいに研ぎ澄まされる。頭のてっぺんが鈍く痛む。今では、雨の日を好きだ、と言うことは出来なくなっている。むしろ、嫌いだ。
 斜め前の席で、ストローを口に含みながら山内鞠映が此方を見ている。アルバルト。珍しく自分を、あの―――センスの全く感じられないあだ名で呼ばない少女に、アルバルトは視線を向けた。

「なにかんがえてんの」
「なにも」

 彼女は真顔でストローから薄い桜色をした液体を吸い上げると、紙パックを丁寧に折りたたんで立ち上がった。そのままアルバルトの横を通り過ぎて、ゴミ箱にたたんだ紙パックを捨てる。普段ずぼらで、何事も適当な山内だけれど、こういう所は結構丁寧だ。…リサイクルボックスじゃ無くて、教室のゴミ箱に紙パックをすてるあたりは、やっぱり適当だけど。
 スタスタ、という上履きの底のゴムと教室のつるつるとした床がぶつかる高い音が後ろから聞こえる。戻ってきた山内は、またアルバルトの横を通り過ぎて、今度はアルバルトの前に座った。アルバルトの机の上に左肘を載せて、横向きに座ったまま右足を左足の上に乗っけた。じろり、と向けられた視線。

「きみって相変わらず下手だね」

 何がとは言わなかった。

「違いないな」

 アルバルトは眉を下げて、ぎこちなく微笑む。また、へたくそ、と声が掛けられた。けれどもそれ以上聞かれることは無かった。藍色の、短くカットされた髪の毛からうなじが見える。銀色の瞳は先ほどの自分が見ていた窓の外へ向けられていた。

「山内は雨が好きか」

 とっさに口にした言葉に、山内は窓の外を見たまま「好きでも嫌いでも無い」と興味がなさそうに答えた。「天気とかあんまり気にしないから」晴れだろうが私は私だし、今日は今日。
 それはそうだけど、と口にして、アルバルトは口を閉ざした。いや、と自分の続けようとした言葉に首を振る。「お前らしいよ」と少しだけ笑う。山内は銀色の瞳をまあるくして、数秒アルバルトを見つめた後、溜息を付いた。

「あーちゃんは全く素直じゃ無いね」
「…誰だよそれ。僕の名前はアルバルトだ」
「別に良いのに」

 嫌だって泣いても。逃げ出してしまっても。
 誰かに縋り付いても。
 静かだけれど、ひどくはっきりした声だった。誰にも分からないくらい微かに、アルバルトは息をのむ。山内は気付かなかった。いや、もしかしたら気付いていたのかも知れないけれど、気付いたような仕草はみじんも見せなかった。
 本格的に降り出した雨を、二人で窓越しに見つめる。瞳に映画のように灰色の窓が映り、緑色の草木が映り、茶色い地面が映る。

「ジゼルが」
「うん」
「一級宝石標本士の試験に合格したんだ」
「うん」
「多分此処を出て行くんだと思う」

 年に一度の試験で、一級宝石標本士の中で一番の実力を勝ち取った物は、地域と地域を渡り歩いていろんな情報を集める職を任される。五年の年月。それまでにありったけの情報を集め、"記憶"する。その仕事を任されると言うことは、宝石標本士にとって一番の誉れ。ジゼルはその職を任された。断ることはできる。ジゼルは実力一位ではあるものの、まだ若くそして女性だ。けれどもジゼルは、断らないだろう。
 どうして、山内は言う。わかるんだ、とアルバルトは言う。わかるのだ。ジゼルはこんなところにとどまる器では無い。
 彼女は鳥なのだ。アルバルトは口にしてから、笑われるかも知れないと少し顔を赤らめたけれど、山内は笑わなかった。むしろ真面目な顔で、アルバルトの顔を見ていた。

「ついていくの?」
「まさか」
「行きたいんじゃ無いの?」
「行きたいよ」

 ジゼルとなら、どこまでも。そう言うアルバルトを、山内は今度こそあきれた顔で見た。じゃあ行けば良いのに。

「行けない」
「なんで?いっつもおもうけどそのできない、やれない、っての決めてるのはあーちゃんでしょ?真面目にぶつかる気持ちが無いならさっさとやめたら」

 ばっさりとした言い方だった。やめる。アルバルトは山内の言葉を繰り返す。やめる。やめる。なにを?ジゼルを好きで居ることを?

「考えたこと無いんでしょ」
「ないな」
「だったら」
「でも、僕は行かない」

 難儀な人。山内が言う。アルバルトは答えなかった。

「こんな予定じゃ無かったんだけどなあ」

 自分の言葉かと思って顔を上げた後、その言葉を発したのが山内だと気付いて目を丸くする。どうやらアルバルトの言葉を代弁したわけでは無く、山内本人の言葉のようだった。あーあ、と続けられた言葉を追及する暇も無く、山内は背伸びをして立ち上がった。

「帰ろ」
「ああ」

 雨はもう、止んでいた。

難儀な人
prev top next