ジゼルは活字の足跡をたよりに、なんとかおいつこうと歩く。活字は走る。ジゼルは追いかける。
活字はさらに逃げていく。物語の奥深くまで招かれていく。活字と活字がむすびつき、世界へ変貌していくのはなんとも見事だった。ジゼルはこの瞬間がたまらなく好きだ。現実から切り離されて、物語の幻の奥深くまで飲み混まれていく。胸の奥深くに甘い感覚が広がって、ねむるときの一等やさしい瞬間のように沈んでいく。時の流れは止まっているように思える。なんてすてきで、なんて尊い。
「何の本?」
一度踏み出せば、ジゼルはその世界が終わりをつげるまで、活字に瞳が追いつくまで、外界とつながっていられなくなる。けれども、彼の声は特別だった。目は活字を追うことをやめられない。世界を咀嚼することは止めることが出来ない。けれどもジゼルのなかに、彼の声だけはよく響き、残るのだった。
彼はいつだって、ジゼルが本を読み終わるまで答えをまってくれていた。
ジゼルは本を読み終えて、その裏表紙を閉じたあと。彼をみた。彼は彼で、自分の好きな本を読みふけっていたけれど、ジゼルの視線に気がつくと、顔を上げて微笑んだ。干し草色のおおきくきれいな瞳が細められる。
「星のおうじさま」
ジゼルは答えた。本の表紙を慈しむように撫でながら。彼は「ああ」と言ってほほえむ。ぼくもすきだよ、とばらいろの唇からきよらかなおとが聞こえる。ジゼルの内側に残る音。ジゼルは彼の声を、何度か心の中で唱えてみた。ぼくもすきだよ。
「すこしさみしいけど、すきだよ。おうじさまも、みんな、しあわせになったらいいのにってぼくはおもっちゃうけど」
ああ、でも彼はしあわせなのかなあ。ぼくがかってに、しあわせじゃないときめてしまうのは、よくないね。
彼はそう言って、「でもさみしいね」と言う。
ジゼルは返事をするかわりに、しずかにうなずいた。ジゼルは彼の考えを聞くのが好きだった。
それは考え方が一緒だからと言う理由では無くて、むしろちがうからこそ興味深くて好きだった。彼の優しいやわらかなことばは、いつもジゼルをあたたかいきもちにさせた。
彼は寂しいといったけれど、ジゼルはさみしくなかった。彼が居るからだ。この冷たい白い石でつくられた建物の中で、ジゼルのそばにあるのはいつも本ばかりだったけれど、いまは彼が居る。本しかなかったあのころは、さみしいとか、さみしくない、とかなにもおもわなかったけれど、いま彼がいなくなったらさみしいとおもうだろう。 だからさみしくない。ジゼルはぐるぐるかんがえて、よくわからなくなった。とりあえず彼はさみしいらしい。ジゼルは彼の隣に座って、違う本を開いた。彼は少しだけ吃驚した顔でジゼルをみた。
「ぼくがさみしいといったから、そばにいてくれるの?」
ジゼルは頷いた。彼は笑った。ジゼルは何で彼がわらったのかがわからなかったけれど、もうさみしくないということかしらとおもった。それならよかったな、とジゼルは思った。
「ぼくもいっしょによんでいい?」
彼はジゼルの膝の上で開かれた本を見て言った。ジゼルは静かに頷く。
「どうせなら、ぼくが声に出して読もうか」
彼がつづけていった。ジゼルはまた、しずかに頷く。彼の声は好きだった。彼は音読が上手だった。
「じゃあ読むね。―――バード、オブ、アーカイブ」
きおくのとり。
ジゼルは目を閉じて、彼の身体にちょっとだけ寄りかかる。自分の瞳と同じ色の髪の毛が、ほっぺたを少しだけくすぐった。
白い幸福
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