少年がそう言葉にしたとき、少女は教室の窓辺にある花瓶の縁に指を滑らせていた。少し濁ったみず。茎の表面についた細かい泡の数を数えているようにも見えたし、ただみずを見ているだけにも見えた。髪の毛を結んでいるリボンが解けそうだった。片方が短くて、片方が長い。つくられているちょうちょ結びは不格好で、多分彼女が結び治したのだろうと思う。もう片方の均衡の整った結び方とのアンバランスさを、少年は見ていた。窓の外の盛り上がる声が、遠くに聞こえた。こわくないの。怖くないの。少年の言葉に、少女は答えなかった。続いていく沈黙に耐えきれなくなったのは少年だった。少年はもう一度、少女に声を掛ける。
「こわくないの。僕はたしかに、人を害する魔法は使えない。魔女って言うのはそういうものなんだ。むかしから。だけど、人を直接害することが出来なくとも、僕はあんたの家や、本や、えんぴつや、りぼんなんかを焼いてしまえる」
「できないわ」
捲し立てる少年に、やはり少女は怯まなかった。できないわ。たった五文字が、少年の勢いを切り落とす。こわい、こわくない。その二つしか無い答えのどちらも少女は選択しなかった。できない。
「あなたにはできない。たとえば本。本を燃やすことは、あなたにはできない。あなた、本が好きよね」
「……根拠は」
「この間図書館で本を投げようとした子に注意していたの、わたしたまたま見かけたの。自分から誰かになにかを言わないあなたがそうするのは、本が好きだから。違う?」
自分からいざこざを作ることは絶対にしないあなたが、そんなことをするのはそれなりの理由があるから。少女はそういって、花瓶から目を離して少年の方を見た。窓の近くに立っているせいで、此方から見る少女は影に沈んでいた。けれども彼女が微笑んでいることだけは、はっきりとわかった。少年はわざと意地悪そうに笑う。ねえ、なんでそんなふうに自信満々に言えてしまうの?
「もし、そうだとしても僕はあんたの家や、えんぴつや、りぼんなんかは燃やしてしまえるかもよ?」
「それも、無理だわ。保証する」
「その根拠は」
「あなたがわたしの友達だからよ」
はあ、と素っ頓狂な声が少年の口から生まれた。そしてすぐに、少年は口を右手で押さえて、何でも無かったように少女を睨む。友達にあなた、そんなことしないでしょう、といいながら少女が歩いてくる。その様子を、少年は眉を寄せて注意深く見ていた。
「誰があんたなんかと、いつ友達なんかに」
「あら。だってわたしたちこうしてお話ししてるわ。あなた、本当に興味の無いひととは話したりしないし、まして腹を立てたり睨んだり、しないでしょう?あなた、わたしのことが好きなんだわ」
「……自惚れすぎじゃ無いの。誰が、誰のこと好きだって?」
冗談も休み休み言ってくれない。つっけんどんな少年の言い方に、少女は軽やかに笑った。あなたが、わたしをよ。その声はシルクのようになめらかですべすべとしていて、少年の内側に入ってきた。別に、僕はあんたなんか好きじゃ無い。これっぽちも。むしろ嫌いだ。
「あら、わたしは大好きだわ。あなたの魔法も、あなたのことも」
――いつかあなたも、わたしを好きになるわ。
言葉が、響く。
落ちる。
少年の、ほのおを揺らす。
体育館倉庫で抱きしめられたときのような感覚が、急に思い出されて、少年は息をのんだ。少女の黒い瞳は、穏やかに此方に向いていた。視線を逸らして、また彼女の瞳に戻して、俯く。
居心地が悪い、と思った。それと同時に、居心地が良い、とも思うのだからもうなんだかよくわからなかった。このこそばゆいような、けれどもずっと此処に居たいような、いたくないような。
――まったく、なんだっていうの。
暗闇の中に、知らない色を知ってしまった。くらやみのなかで燃えていたほのおは、周りが暗闇で無かった事に、ゆるやかに気付いていく。それはとても悲しくて、綻びそうなほどの幸福であった。
知らなかった。知りたくなかった。こんなにも無条件に、暖かいひかりを当ててしまえる人が居るなんて。家族でもなんでもない、血のつながりもなにもない、種族も違う、「人間」に、こんなにも肯定される未来なんて、知りたくなんかなかったのだ。
『わたしは好きよ。きれいだとおもう。いままでにわたし、こんなにもうつくしいものをみたことがないわ』
そんな風に簡単に、まっすぐに言ってしまえる人間が居ること。魔女のことを否定し続ける人間。そのなかにも、少女のような人間が居ることを、知りたくなかった。だって知ってしまったのなら、人間を恨めなくなってしまうと、知っていたからだ。孤独なのは仕方が無いと、理由付けすることができなくなってしまうからだ。人間をばかにすることが、できなくなってしまうからだ。こんな世の中のせいで、人間のせいで、僕は不自由なんだと。そういってしまうことが、出来なくなってしまうから。
そして自分がずっと、この孤独を苦しく思っていたことを、肯定してしまうことになるから。ひとりはいやだと、本当はつながりたいのだと、みっともない気持ちを受け入れなくてはいけなくなってしまうから。いやだった。ずっと。黒の、暗闇の内側なんて、知りたくなかった。知りたかった。暴いて欲しくなんか無かった。暴いて欲しかった。気付いて欲しくなかった。
気付いて欲しかった。
少年は大きくためいきをつくと、顔を上げた。
少女がいつの間にか、本を持っていた。
少年はやはりぶっきらぼうに、けれどもとても緊張しながら、問いかける。声が裏返ってしまわないかが、気がかりだった。
「……何の本、読んでるわけ」
彼女は笑って、本を少年の手に渡す。宝石かたつむりの生態。表紙に書いてある言葉を小さく呟いて、少年はこめかみを押さえる。くだらない、話しかけるんじゃ無かった、そう思うのに、どうしてか気がつけば「なんなの、この宝石かたつむりって」なんていう質問を、少年は口にしていた。
「土の中にある小さい宝石を食べて殻を作るかたつむりなの。場所によって殻の色が違って、殻の色や殻に含まれている成分から、その辺一帯にある宝石の種類がわかるんですって。ふしぎでしょ?それから――」
少女が本を開いて、少年に説明する。少年は嫌そうな顔を始終崩さなかったけれど、彼女の話に耳を傾ける。本のページの隙間から、透明の樹脂でコーティングされた葉っぱのしおりが、目に入る。その葉っぱの先っぽは、ほんのすこしだけ焦げていた。
少年は何かを思い出しそうになって、少女の名前をよぶ――
キル=キルリエイズは目を覚まして、起き上がった。
ベットシーツは青白く、月明かりによって染められている。息が上がっている。大きくゆっくり息を吸って、吸ったときよりもゆっくりと、息を吐いた。
夢か。キルはベットからそっと抜け出して、窓を開けた。涼しい風が、頬を冷ます。その時初めて、自分が泣いていたことに気がついて、そっと瞳から下に向かって引かれている浅い水路を袖で消した。
――いつかあなたも、わたしを好きになるわ。
自分を見る透明の、黒の瞳がいつまでも少年のほのおを揺らしていた。
ミチ=クラウディア。キルは、自分の家の庭を見下ろしながら、小さく呟く。
おまえなんか、だいきらいだ。こころから。ほんとうに。
そう口にしたとき。最後の水滴が消された水路の上を滑る。
少年は、微笑んでいた。
「おはよう!キル」
学校に着いて教室に入れば、騒がしい隣の席の少女はもう既に席に着いていた。小さくおはよう、とキルが返すと彼女は笑顔になる。席に座って、バックの中に入れている教科書を机の中にすべてしまうと、紙をめくる音が聞こえた。からり。からり。一定のリズムでゆっくりめくられるページ。視線を向ければ、彼女は本を読んでいた。そのままいつもどおり無視をして、自分の事を使用と考えてから――息を吐いた。
キルはやはりぶっきらぼうに、けれどもとても緊張しながら、問いかける。声が裏返ってしまわないかが、気がかりだった。
「……何の本、読んでるわけ」
彼女は笑って、本をキルの手に渡す。宝石かたつむりの生態。表紙に書いてある言葉を小さく呟いて、キルはこめかみを押さえる。くだらない、話しかけるんじゃ無かった、そう思うのに、どうしてか気がつけば「なんなの、この宝石かたつむりって」なんていう質問を、キルはやっぱり口にしていた。
「土の中にある小さい宝石を食べて殻を作るかたつむりなの。場所によって殻の色が違って、殻の色や殻に含まれている成分から、その辺一帯にある宝石の種類がわかるんですって。ふしぎでしょ?それから――」
少女が本を開いて、少年に説明する。少年は嫌そうな顔を始終崩さなかったけれど、彼女の話に耳を傾ける。本のページの隙間から、透明の樹脂でコーティングされた葉っぱのしおりが、目に入る。その葉っぱの先っぽは、ほんのすこしだけ焦げていた。
「クラウディア、それ――」
ミチはキルの指摘に気がついて、本の間からしおりをそっと引き抜く。
<教室に帰ると、机の上に見たことのある本が置いてあった。キルがかりようとおもっていたリデル・アルカディアの本だった。そういえば上級生の投げた本を取るときに、とっさに机の上においたままにしていた。図書室に置いてきたと思ったのに。一体誰が届けてくれたのだろう>
キルは思い出す。ゆめのなかでの彼女の言葉を。あの日タイミング良く先生がやってきた理由。あの日自分の机に本が置かれていた理由。窓のそばにおかれた花瓶のみず。焦がした葉っぱ。はじめまして、わたしはミチ=クラウディア。
「ミチでいいわ、キル」
窓のそばにおかれた花瓶のみずは、窓の硝子も通り越して、青空をうつすほどに透き通っている。誰かがみずを変えたのだろうか。水面に浮かんでいたあの葉っぱは、いつのまにか姿を消していた。その葉っぱの存在を知るものは、きっとこのせかいでキルとミチだけなのだろう。
そしてその葉っぱのゆくえを知るものも、きっと彼と彼女だけだ。
ゆめのなかで
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