真夜中の遂行

デジャヴだ。今日もお茶の出し方が気に入らないと、真由子を家に住まわせることになった日と同じ上司に同じ内容で怒られた。その上梅雨だか何だか知らないが、傘も持っていないというのに雨にふられてしまっている。また散々なことが続いているではないか。こういう時は限ってよくないことが起きるにきまっていた。それなりに覚悟をして家に帰らなくては。
 真由子に引き続いて、家にシロという犬が一匹やって来た。真由子が拾って来たのだ。いずみちゃんの、いえ、わたしの友達に。わざとらしく咳払いをしてそう言い直した辺り、真剣にわたしの友達に丁度よいと考えたのだろう。あの子は少し変わっている。たとえば食事中は必ず右手の小指で一定のリズムを刻んでいる光景など、初めて見た時は少し異様だった。いったい、真由子がこの家を出たあとはどうすればよいと言うのか。シロの親は完全にわたしになってしまう。真由子がそのような考えで連れて来たのならば尚更だ。シロは白いのか黄色いのか黒いのかわからなくて、もこもこなのかぐしゃぐしゃなのかもわからなくて、けれど真由子の言う通り洗ってみると真っ白なもこもこの犬なのだということがわかった。(洗っている最中、真由子がふざけて何度もシャワーをわたしに向けるので途中本気で苛立ったことが印象的である)ただ、犬種がよくわからない。見たところビション・フリーゼだとかプードルだとか、そんな類のもののような気はするのだが――なぜか。小型で、毛が巻いているからという安直な推測の下ではあるが。前に育てられていた家での躾がよかったのかして、粗相やいたずらはあまりしない。肉食なのに肉があまり好きではないようで、たとえばゆでたササミなんかをやってみても食べなかった。ドッグフードと、犬用のクッキーと、ジャーキーならよく食べた。シロは恐ろしいほどすんなりと今我家に馴染んでいる。これではいつかの真由子のようだ、と、わたしは思う。真由子もこんなふうに、何ら違和感なくわたしの家へと吸収されていった。朝起きたらそこにいることに、なにも感じはしない。家にやって来た時から真由子自身がまるで生まれた時からそこにいましたとでも言わんばかりの顔をしていたので、錯覚を起こしてしまったのかもしれない。ただし、真由子はひとりでふらふらすることが好きだけれど、シロはひとりが極端に苦手だ。留守番が出来ないし――一度五分間試しに家を二人で空けていただけで部屋中がぐちゃぐちゃになっていたし鳴き声も凄まじかった。真由子曰く"泣いて"いるらしいが――散歩も必ずわたしたちのどちらかに、どちらかといえば真由子にぴったりくっついている。こんなもの、本当にいつか真由子が出ていってしまったらどうすれば良いと言うのだ。わたしには仕事がある。そう、真由子が出ていってしまったら。わたしはまた快適に一人暮らしをする予定でいたのに。
 今や我家は真由子とわたしとシロの家だった。
 それにしても、わたしは真由子の怒りながらの「もういいよ」に、弱い。いつも理不尽な怒り方をしているのは真由子であるのに、なぜか自分がとてもいけないことをしたような気分になって、つい謝ったり許したりしてしまう。それなら、わたしは真由子に対して、とてもたくさんの、あらゆるいけないことをしてきたことになる。

 ただいま。そう言って扉を開けても人の気配はありながら返事がなかったので、わたしはひどく落胆した。わたしの勘はきっと当っているのだろう。何かいやなことがある、と。玄関から少々足を進めたところで、シロがわたしに気付いててちてちと走って来た。尻尾を振り、体中で歓迎してくれる。
「ただいま、シロ。あなたのいとしの真由子ちゃんは何をしているのかしら?」
 シロは真由子、という言葉を覚えている。ぴくりと耳を動かすと、またてちてちと愛らしい足音を立て、わたしを真由子のもとへと案内した。といっても、シロがわたしのほうを見ながら一方的に真由子に歩み寄っているだけなのだけれど。
「真由子?」
 わたしはリビングと廊下を遮るカーテンを片手で上げながら、そう声をかける。
「……あれ、いずみちゃん? 帰ってたの」
 そう言葉を発した真由子をようやく見つけると、わたしは一瞬今自分が見ている景色を、いっそ自分の目自体を疑ってしまいたい気持ちになった。真由子は、台所に座り込み、食事をしていた。犬の餌で。傍に散りばめられた、ジャーキーに、クッキーに、ドッグフードに缶詰。どうやら全て味見をしているらしかった。
「……何してるの?」
 わたしは思わず息を呑み、出来るだけ小さな声でそう尋ねた。
「シロになってるの」
 すると返って来た返事がまたたいへん頓珍漢であったので、わたしはとうとう頭を抱え、真由子の傍にしゃがみ込む。
「説明して。一体何がどうなってこんなもの食べてるの?」
「知りたかっただけだよ」
 真由子はひとつまたクッキーを摘んで、口に放り込む。
「知りたかったの、ただ。シロはどんなものが好きで、どんなものを楽しいって感じるのか。他にも色々試したの、ボールを追い掛けて銜えてみたり、あと……とりあえず四つんばいになってた」
「……」
「でもあんまり判らなかったわ。ジャーキーも、缶詰も、食べられなくはなかったけどおいしくなかったし」
「当たり前よ。だって私達と動物達の舌は違うもの」
「人間だって動物じゃないの」
 動物、という言葉に腹が立ったらしい。少しむっとしたような顔付きで真由子がすぐさま返したものなので、わたしはまあそうだけど、と返事をするほかなかった。
 わたしは正直、感心するべきなのか怒るべきなのかわからなくなってしまっていた。この発想は、凄いと感じる。もしかしたら真由子はわたしが思っているよりもっとずっと感性豊かな、偉大な人物なのかもしれない。けれど動物の――犬の餌を食べるだなんて。あまり正気の沙汰だとは思えない。それでもわたしは徐に一番ましそうに見えるクッキーをひとつ手に取って、食べてみた。
「……あんまり味がしないわね」
 そうぽつりと呟いたわたしを、真由子が嬉しそうに笑って見ていた。