それでも
いずみちゃんと暮らし始めて丁度四ヶ月になる今日、両親がいきなり我家に押しかけてきた。押しかけてきた、という割には随分と腰の低い姿勢で尋ねてきたが、母は申し訳無さそうに、父もまた随分と萎縮した表情である。わたしはすぐにドーナツ屋のクラスメイトを思い出し、しくじった、と思った。休日チャイムが鳴ると大抵出迎えるのはいずみちゃんであったので、予期せぬ出来事に驚いていたようだ。休日であるというのに、一体この堅苦しい空気はなんだというのか。狭いテーブルに四人。わたしといずみちゃんが隣り合わせになり、向かい側に右側に父――わたしの目の前になる――左側に母が腰をかけた。しばらくの間、誰も口を開きはしなかった。いずみちゃんが出したお茶を遠慮がちに父がやたら多くの回数啜っていたように思う。これは父の癖で、緊張している時によくする。お茶がない時はなにかを摘んだり、しまいには指を齧ったり。
沈黙を一番目に破ったのはいずみちゃんだった。
「あの」
話し辛そうにではあるが、切り出すことを躊躇う風ではないように見える。
「なにも仰らないんですか。わたしたちがこうして暮らしていることについて」
「ああ、ははあ、そういえば」
父は今気付いたとでも言わんばかりにハンカチで額の汗を拭い、またお茶を啜る。そうして、それじゃあ、と問いかけた。
「それじゃあ、ご関係などお聞きしても……友人? それにしては随分年が離れていますか」
落ち着かない態度の父に何も喋らない母を交互にちらちらと見た後、いずみちゃんは小さな溜息を零す。どうやらこのふたりはいずみちゃんの好みではなかったらしい。ふたりは、特に母は非常に気弱で、わたしに話し掛ける時でさえおおきな気を遣うのだ。だから今母が黙り込んでしまっているのも、決しておかしなことではない。
「自殺を」
次に口を開いたのはわたしだ。
「しようと思った、と思ったらしくて」
「は?」
わたしは今までの経緯を話そうとしたのだが、そういえばいずみちゃんはわたしのことを勘違いしたままだった。わたしはべつに自殺なんてする気じゃなかったけれど、いずみちゃんはわたしを完全なる自殺志願者だと思っていたのだ。両親に向けて話していたのに、わたしの言葉に意味がわからないとでも言いたげに声を発したのはいずみちゃんだった。
「だから、わたし別に、自殺なんてするつもりはなかったの。いずみちゃんが勘違いして……都合が良かったから、つい」
「……嘘でしょ」
「もうばれてると思ってたわ」
わたしは言い訳がましくそんな風に付け加えたが、いずみちゃんは聞く耳を持たない。大袈裟に顔を掌で覆うと、騙してたのね、なんて悲劇のヒロインぶってみせた。
「騙すも何も、わたしのこと自殺志願者とか、精神病扱いしたことないじゃない」
そうだ。自殺志願者だから扱いが変わると言うなら話は別だが、いずみちゃんは別段そういった様子も見せはしなかった。それどころかぞんざいに扱われたことも何度かはあるはずだ。それなら真実を知っていようが知っていまいが問題はない。
「そういうことを言ってるんじゃないの。わたしは一人の同居人として」
「あのう」
目の前で勝手に口論を繰り広げるわたしたちを止めるように次に口を開いたのは、なんと珍しくもわたしの母である。
「自殺って?」
心配げに眉根を下げるその姿がどこかひどく痛々しくて、わたしは思わず胸が痛んだ。
結局今までの説明はいずみちゃんがすることになった。
このアパートの屋上で、真由子さんが自殺をしようとしていたんです。もっとも、それはわたしの勘違いであったそうですけどね。かんちがい。それでたまたま居合わせたわたしが驚いて止めたら、あなたの家に住めないならこの場で死ぬわって真由子さんが脅して……いや、言って来て。それで今に至っています。生活で特に困ったことはありません。犬を拾って来た時は、まあさすがに驚きましたが、楽しくやっています。
なるほど、嘘は言っていない。ところどころで私が"騙していた"ことに対し怒りを含んでいることがわかる口ぶりだった。
「ははあ、それはなんというか……申し訳ない限りで」
目の前で父がまたハンカチを額に当て、母は益々萎縮する。わたしはそれがとても滑稽に思えて、これ以降絶対に目は合わさないでおこうと決めた。
「あの……いずみさん、は、真由子に家に帰るよう勧めることはしなかったんですか」
「なぜわたしがそんなことを?」
父の問いかけにいずみちゃんが怪訝そうに眉を潜める。
「したことはありませんし、するべきだと思ったこともありません。家賃を払ってくれている以上彼女の存在は迷惑ではありませんし、それを決めるのは真由子さんですから。それに、わたしは赤の他人でしょう?」
父と母は驚いたように目を丸めた。そしてお互いを見遣る。いずみちゃんはわたしを変わっていると言うけれど、わたしはいずみちゃんのほうこそ変わっていると思う。
「そちらこそ」
いずみちゃんはもう冷め切ってしまったお茶を一口喉に流し込むと、緩く首を傾げた。
「どうして帰って来いと言わないんです?」
その時両親がすぐさま返事をすることができない理由を、わたしは理解することが出来た。わたしは本物の娘じゃない。両親は、わたしがそれをコンプレックスのように感じていると思っているのだ。特別気にしてはいないのに。わたしはいずみちゃんにそれ以上は問わぬよう手でサインをした。いずみちゃんは不可解な表情をしていたがどうやら納得してくれたようで、それ以上は踏み止まってくれた。
それじゃあ。父は手を挙げ、母はいまだに息苦しそうな表情で小さくお辞儀をした。
「いつでも帰ってくるんだぞ」
そうわたしの頭を撫でた父のてのひらが、なぜか他人行儀でおかしい。最後、家を出る際に、父が再び口を開いた。
「それじゃあご迷惑をお掛けしてすみませんが、……ところでその、シロくんと言ったかな。あれはうちの娘が勝手に拾って来たものなんでしょう。娘が帰る際にはうちで預かることも出来ますが、どうです」
「結構です」
その質問にわたしはいずみちゃんが頷くことを予想していたので、きっぱりと言い放たれた台詞には少しだけ驚いた。いずみちゃんはシロを抱きかかえ、背中を撫でながら微笑んでみせる。
「この子は、わたしの友達なので」
言い終えてからいずみちゃんがわたしに向かって目配せをしたその時、なぜだかわたしは泣きそうになった。父たちはさして何をするという訳でもないまま、シロに見送られて帰っていった。シロは訪問者なら誰でも見送る。新聞配達のお兄さんも、セールスマンも、宅急便の人も。ちなみにわたしかいずみちゃんが家を空ける時にはさみしいと縋る。その時の表情がわたしは好きで冗談で何度も何度も短いひとりの散歩をした。
「すこし気弱な方だけど、いいお父さんとお母さんなのに」
ふたりが帰ってから暫くして、いずみちゃんが言う。
「どうして家出なんかしたの?」
直球だ、と思った。わたしは答えはしない。その代わり、目だけで笑って返事をする。その質問の答えに値するものなど、わたしは持ち合わせていなかった。如何せんほんとうにわたしは突発的に家出をして、偶然の重なりでこうして暮らしているのだから。そこに強い意志などは、ない。恐らく両親がいずみちゃんかのどちらかが今帰れと言ったなら支度を始めたことだろう。
それでも。それでもこの場所の居心地が良いと感じていることに焦り始めているわたしを、いずみちゃんはきっと知らない。
その日の夜、いずみちゃんが電話口で友人と話す時とは違う雰囲気で笑っていた。恋人か。わたしは一瞬で察しがついた。前に年上の恋人が海外に滞在していると言っていたことがある。確かドイツかその辺りに。ええ、それじゃあ一週間後にあの喫茶店で。そう言って電話を切ったいずみちゃんににやにやとした笑みを向けたら、きつく睨み返されてしまった。