それでいて幸福
昨日、久しぶりに恋人から連絡があった。わたしの恋人は祐司という名前で、大学で出逢った。三つ年上の、やさしくて指の形がきれいな男だ。祐司は一年ほど前からドイツへ滞在勤務をしているので、もう長らく逢ってはいない。彼は言った。少しだけ帰れることになったんだ。ちょっと話したいこともあるし、逢えないかな。わたしは勿論、いいわ、と答えた。嬉しいわ、と。しかしどこかで、いやよと拒否をしたい自分がいたことに気は付いている。いやよ、そんなのいや。なにがいやなのかわからないけど、絶対にいやよ。恐らく彼の纏う不穏なオーラが、わたしに伝わってしまったのだ。祐司はできるだけ慎重に、わたしにそれが伝わってしまわないようにしていたというのに。けれど、違うかもしれない。浅はかではあるがそんな期待をも抱きながら、わたしたちは一週間後に逢う約束をした。いつも待ち合わせをしていた小さな喫茶店で。しかしその出来事の前にもうひとつ、わたしにとっては重大な出来事が起きていた。真由子の両親が突然家を訪ねてきたのだ。真由子曰くそれはとても「滑稽」な行為で、そのことを教えてしまったクラスメイトもとても「愚か」であるそうだ。わたしにはそれらの言葉が、真由子自身に降りかかってしまうように思えてならない。真由子の家出は恐らくとても愚かで滑稽だ。それを受け入れてしまったわたしは尚更。真由子の両親は、どこか変わった雰囲気を持っていたように思う。はっきり言って、わたしはその雰囲気を好きではない。個性として受け止めることは、出来ないように感じられた。おどおどとしていて、はっきりしないし、なにを目的に来たのかさえ忘れてしまっている風だった。わたしは真由子の両親が来た時点で、真由子と別れる覚悟は出来ていたのに。が、ここでわたしは自分もおかしいことに気付くのだ。覚悟だなんて。もともといなかった、おかしな同居人が離れることに対して覚悟をするだなんて。全く笑える話だ。真由子とわたしは同居人で、本当にそれだけで、それ以下でもそれ以上でもないし、なり得ない。それが事実だ。とにかくどうして真由子の両親がもっと精力的に真由子を連れ戻そうとしないのか、それだけが気がかりだった。
今日もまたじとじとと雨が降っていて、七月に入ったというのにまだ梅雨は終わらないのだろうか、と思うとひどく憂鬱な気分になった。そんなとき、
「遊園地に行きたい」
と、真由子が言う。
「遊園地?」
勿論わたしは顰めっ面をして、こんな日に? と続けた。
「いずみちゃんと一緒に」
わたしは断ることが出来なかった。
わたしはいつも、この世のすべてのことが真由子を基準にして動いているように思えてならない。この華奢な体で、あらゆることを思い通りに仕組んでいるように思えてならない。雨の降る休日に、大人と呼ぶに相応しい年齢の女二人が傘を差して遊園地のチケットを買っているなど随分おかしなさまだ。受付の女性も少し驚いたように目を丸めてから受理してくれた。もっともだとわたしは思う。電車を二本乗り継いで来たこの場所には、わたしはよい思い出がない。小さな頃から家族で遊園地といえばこの場所だったけれど、どの乗り物も並ばなくてはならなくて面倒だし、そのくせ極端に怖いか極端につまらないかでたいして楽しくもないし、けれど子供ながらお金を払っているのだから遊ばなくてはという変な焦りに襲われる。くたくたになって昼食を食べ、そのくたくた感を倍増させるためだけにまた遊ぶ。遊園地。遊びの園。いやな名前だ。その話を真由子にしたら、
「今日はきっと並ばなくて済むわよ」
と言うので、なんとなくわたしはそんな気になってしまった。真由子の言葉にはおかしな力がある、と、わたしは思う。あるいはわたしだけに効く魔法の言葉。そんな風に言ってしまうのは大袈裟であるように思えもするが。わたしは真由子にせがまれると、どうしても断れない。勇気を出して断ったり拒絶してみせると、とても悪いことをしたような気分になる。それはとてもとても、悪いことのように。いけないことのように。
「真由子ちゃんの恋人の話を聞かせてよ」
広場のベンチに座って、チープな味のするすかすかのハンバーガーを食べながら――大抵こういうところのハンバーガーは不味い――真由子はわたしに言った。わたしは暫く考えてから、
「たとえば?」
と聞き返す。
「じゃあ、出逢い」
「いいわ、話しましょう」
あれは、わたしが大学一年生で、彼が大学四年生の時だったかな。サークルに誘われたの。軽音楽部。本格的な音楽じゃなくて、軽く音楽を楽しむ場所だから気軽においでって。意味がわからなくて頓珍漢なところは昔からだったのね。わたし、なんだかそれが可笑しくて、まあ入らなかったんだけど。たぶん一目惚れだったのね。笑い方がとっても好みだったの。連絡先を聞いて、今度一緒にお茶でもどうですかって。彼、びっくりしてたけど、いいですよって言ってくれて、そこからよ。定期的に逢うようになって、告白してくれたのは彼のほうだった。
「終わり」
そこまでざっくりと話すと、わたしは口許にゆるい孤を描いてそう言った。真由子は真剣に話を聞いている。それから、ふうん、と言うのだ。ふうん、いいね、そういうの。
「乗り物には乗らなくていいの?」
ハンバーガーを食べ終えても動く兆しが真由子に見られないので、わたしはそう問いかけてみた。真由子は少し首を捻って、こくりと頷く。
「いいの。なんだか遊園地の空気を吸いたかっただけなの。でも、特別変わってたりしないのね。そのへんと一緒だわ」
まるで失望した、とでも言わんばかりの目で真由子がそう言うので、わたしは無性に切なくなって、なにか楽しい乗り物に無理矢理でも乗せてやりたい気分になった。それでもそんなことをしたところで真由子が喜ばないことをわたしは一番よく知っている。お金を払っているのはもう自分で、自分のお金なのだから焦る必要はないのだ。
「それじゃあ、次は真由子の番ね」
わたしは手元に持っていた、もうすっかり温くなってしまったコーヒーをようやく飲み干した。そして視線は前を向いたまま、尋ねる。
「どうして家出なんかしたの?」
ストレートではあったが、確かにそう聞いた。真由子は中々答えなかった。こういう時は根気よく待つことが必要だ。急かしてはいけないし、もういいと中断させるのもよくない。多分真由子は考え込んでいた。恐らく。それはあくまでわたしの推測に違いなかったが、それでも多分、きっと、恐らく。
真由子が口を開くのは、その問いかけから五分ほどはとうに経過していた頃だった。