Didn't you say me "I love you."?

遊園地から帰ったあと、真由子が徐々に荷造りを始めるようになった。明日、この家を出るという。わたしは今日祐司との約束があり家を空けなければならなかったのだが、それはとても億劫なことに思えた。
「本当に大丈夫?」
 と尋ねると、
「大丈夫よ」
 と答えた真由子の瞳が、本当に大丈夫そうであったのでわたしは少し悲しくなった。この家は、真由子とわたしとシロで成り立ってしまっている。もう既に。そこからひとりが欠けるだなんて、考えたくもないことだ。

 今日待ち合わせていた喫茶店は、学生時代からずっと通っていた場所で、わたしたちが「いつもの場所で」と言うとそこは大抵ここなのだった。少しレトロな感じの、チョコレートケーキとレモンパイとダージリンティのおいしい喫茶店。足を踏み入れると、わたしが祐司を見つけるより早く、祐司はわたしを見つけ、手を挙げてくれた。わたしは祐司の姿を見た途端、いとしさと恋しさでいっぱいになって、抱きついてわんわん泣き喚きたい気分になってしまう。逢いたかったのに、どこへ行っていたの、と。わたしは今一大事なのに、と。しかしそれを抑え込んで、わたしは目元だけで笑い手を振ってみせる。それを見て祐司も笑ってくれたけれど、その笑顔はどこかぎこちなくて、やはりよい報せがないのだということをわたしはよりいっそう思い知らされる羽目になった。
「久しぶりだね」
 祐司のこの大きくて骨ばった手と、それから喉仏をひどく愛していたことをわたしは丁寧に思い出す。
「ええ、そうね。元気だった?」
「僕は元気そのものだよ。いずみは?」
 祐司がわたしの名前をあまりに自然に呼ぶものだから、わたしはまた泣きたくなった。一体何度目だろう、この衝動は。
「元気よ。ここ四、五ヶ月は波乱万丈だったけれど」
 そう言って、わたしは真由子のことを話し始めた。初めて出逢った時のこと、勝手に犬を拾ってきて家族がまた一人増えたこと、犬の餌を食べていたこと、少し風変わりな少女であること、家族も変わっていること。祐司は途中何度か驚いたように目を丸めたが、相槌を打つだけで口を挟みはしなかった。わたしは祐司のこういう話の聞き方を尊敬している。わたしはついなにか言葉を零し、相手の話を中断させてしまうのだ。そうして話し終わると祐司は、
「楽しかったんだね」
 と言った。君の目を見ているとわかるよとも言った。わたしは暫く考える。それから、
「楽しかったわ」
 と頷いた。
「あなたがいなくても割とへいっちゃらだったくらいよ」
 冗談めかしてそう言うと、祐司はジョークにならないな、と言って笑う。けれどそれは強ち嘘ではなくて、真由子が訪ねて来てからの約五ヶ月間、わたしは祐司のことを思い出す暇もないくらいだった。時折、真夜中に目が覚めると祐司に抱きしめて欲しくはなった。急にふと祐司の香りが鼻を掠めた気がして切なくなる時はあった。それでも全てを紛らわせてくれるのは、真由子とシロのいるこの生活だったのだ。
 祐司は既にアイスコーヒーを頼んでいたので、わたしはウエイトレスを引き止めてアイスティとレモンパイを頼んだ。
「それで、話は?」
 祐司は目の前で肩を竦める。
「もっと存分に再会を味わいはしないのかい?」
「そんなの柄じゃないってこと、わかってるでしょ。気になって仕方ないのよ」
 私がそう言うと、祐司は君らしいと言って少し笑った。けれどわたしの勘は当っているようで、祐司が今日私にしたい話というのはどうやらし辛いものらしい。五分間ほど、何度も何度もコップに口を押し当ててはコーヒーを喉へと流し込む。途中、「ええと」とか、「ああ」とか、曖昧な言葉を漏らしながら。
「僕はいずみが好きだよ。とてもだ」
 そんな風にして一定の時間を過ごした後、不意に祐司が口を開いた。その時彼の右眉が下がっていたので、その言葉が本題ではなく前置きであることはすぐにわかってしまった。彼は後ろめたいことがある時、大抵右眉を下げる。
「わたしもよ」
 それでもわたしは心底嬉しいと言わんばかりの表情でそう返事をしてみせた。
「でも、僕、今仕事が凄く軌道に乗ってて」
 祐司の顔付きが変わる。
「今はあそこからは離れられないし、離れたくないんだ。自分のことしか考えられない」
「それって」
「……ごめん。今は全て、取り払ってしまいたいんだ」
 やっぱり。そう思った。なのに、なぜだか信じることができなかった。理由もないのに、根拠もないのに、これは嘘だと、そんなばからしいことを思った。そうだと信じたいような、祈っているような、願いにも似た感情。これを縋るというのだろうか。意識が遠退いていく頭の片隅でそんなことを感じると、わたしはとても恥ずべき気持ちになる。
「でも、それって今のことでしょ? もしかしたらまたいつか変わるかもしれないわよね」
 違う、こんなことを言うつもりではなかった。最近電話の頻度が衰え始めていたことから、察しは付いていたはずで、わたしは祐司からその一言を聞いたなら、全てを受け入れるつもりでいたのだ。物分りのいい女の顔をして。
 けれど。
「それじゃあわたし、待つわ。待っていられる。ずっと待ってるわ」
 祐司は何も言わない。右眉どころかもう片方の眉まで下げて、申し訳なさそうにしている。目を合わせもしないで。
「待たせて……」
 我ながら情けない声が出るものだと感じた。待つだなんてこと、そんなのはまるで細い糸の上に立ち続けるような危ない行為だ。当初わたしはそれをするつもりもなく、本当に受け入れるつもりでいた。嘘じゃない。しかし、わたしは全てを潔く捨ててしまえるほど格好いい女ではいられなかったようだ。わたしは、祐司を愛している。それだけで、縋るには充分すぎる理由だった。それでも祐司からの返答はない。顔を覆って、声を殺して泣いた。嗚咽を止められない。好きなのよ、と言った。わかっている、と、ようやく返事が返ってきた。満たされはしなかった。それをわかっているかのように、祐司はそっと、まるで触れれば壊れてしまうかもしれないとでも言いたげにやさしく、わたしの髪を撫でる。
 恋は酷く困難だった。いつだって。
 喫茶店を出てもわたしは別れを受け入れる言葉を云わなかったし、祐司はその言葉を必要以上に欲さなかった。わたしも同じように、撤回の言葉を欲しはしなかった。否、欲せなかった。
「それじゃあ」
 祐司が小さく手を振る。
「……元気で」
 私は俯いたまま黙り込んだ。
 まるでないものねだりをする幼児と同じだ。もう祐司はこの手に入ってはくれない。わたしもそれを望んではいけない。わかっていたはずだった。
 やがて祐司の姿が人ごみに混ざってわからなくなった。昔はどんな時でも見つけることが出来たのに。全ては変わっていくのだ。この同じ空の下で。不変などは存在しないのだ。不思議なことにもう涙は出ていなかった。渇ききった瞳で、私はもう一度だけ祐司を探す。もうこの目では見つからないとわかっていても。そして一歩、また一歩と確かめるようにわたしは歩き出す。家へと繋がる道を、出来るだけ大きく踏み外してしまわないよう慎重に。わたしは祐司を愛していた。確かに、ゆっくりと。彼もそうあってくれればいい――その感情がもし、一秒しか持たないものだとしても。

 ただいま、と言いながら家の扉を開けると、シロがぱたぱたと尻尾を振りながら出迎えてくれた。
「待っててくれたの、シロ」
 わたしはそう言うとしゃがみ込み、シロをやさしく抱きしめる。シロはいつもよりも大きな動作でわたしの帰りを喜び、頬を舐めてくれた。
「そう、待っててくれたの」
 何度もそう繰り返し、わたしは小さな生命を撫で回した。シロ、シロ、シロ。私はこのときはじめて、寂しいという感情を明確に知った気がする。シロとわたしがそこで暫くじゃれ合っていると、次にのそのそと真由子が寝室から顔を出した。昼寝でもしていたのか、眠そうに目をこすっている。
「おかえり」
「ただいま」
 当たり前の挨拶を交わすと、わたしはすこしだけ笑ってみせた。その顔を見て、真由子は静かにこちらへと歩み寄りこう言う。
「ふられちゃったの?」
 あまりに突飛な質問に、わたしは目を丸くした。他にどう反応することが出来ただろう。けれど彼女は全く悪気のない顔をしていた。
「……いやがらせ?」
「なんで?」
 真由子は幼い。良くも悪くも。
「……そうね」
 ふられたのかもしれない、とわたしはもう一度笑う。
「でも、これが正しかったのよ」
 そう、きっと正しかった。こんな短時間で、もう吹っ切れたから大丈夫です、だなんて嘘でも言えないけれど、でも。思えば私たちは随分と前からおかしかったのだ。どことなく冷えていて、お互いある意味無関心で。
 真由子はまた、ふうん、と言った。この興味のないようで思考を巡らせている「ふうん」は、真由子の口癖だ。
「難しいんだね、大人って」
 そう言った真由子の向こう側に見えるリビングで真由子の引越しの準備がほぼ終了しているのをわたしは確認し、一気にふたつも失うのね、と呟いた。その時真由子は既にまた寝室へと戻っており、その声が届くことはなかったのだろうと思う。