06

「すまない、怪我はしてないか、アオ」
「大丈夫です」

尻餅をついただけだというのに、リックさんは心配そうに私の前にしゃがみ込み、目を合わせた。
尻餅を英語でなんというのかわからなかったため、大丈夫大丈夫と何度か繰り返して言えば、リックさんもわかってくれたのか、首を縦に振って立ち上がった。

「メルルには近づくな。いいな?」
「はい」

リックさんは私の肩に手を置くと、屋上の縁の方によってモラレスさんと話す。(さっき自己紹介をして、全員の名前を教えてもらったのだ)隣に座っていたグレンさんにも同じように肩を置かれて、わかりやすいようにゆっくりと話しかけられた。

「耳をふさいでおいたほうがいい」

それに一つ笑って返事をして、私は立ち上がり、座り込んでいるTドッグさんの近くに行く。なんかよくわからない話が始まったからだ。ここまで早い英語だともうわからない。皆単語で話してほしい。

「大丈夫ですか、Tドッグさん」
「あぁ。...さっきは庇ってくれてありがとう、アオ」
「私、何もしてませんよ」

首を横に振って彼にそう答えれば、どうやらリックさんたちの話し合いは終わったようだ。リックさんが私の所に近寄り、ジェスチャーをつけて話してくれた。

「今から地下に行き、逃げ道を探してくる」
「私も...」
「いや、アオはここで、Tドッグの怪我を見ていてくれ。何かあったら大声で叫ぶんだ、いいな?」
「はい」

さすが警察官。とてもわかりやすい。私は首を縦に振って、わかったと示せば、リックさんは少し笑顔をこぼして立ち上がり、ちらりとメルルさんを振り向く。そして、私にだけ聞こえるように、もう一度「できるだけメルルには近づくな」と一言言って、皆を引き連れて下へ向かって行った。










「誰かいないか?ハロー、応答せよ」

だれもいない屋上には私とTドッグさんとメルルさんだけになった。Tドッグさんは何回も無線機に向かって声をかけるが、無線機からは無機質な音が流れるだけ。

「おい、手錠を外せ。うるさくて頭痛がする」
「頭を奪っちまえば痛みも消える。気分転換にそうしてみろ」
「いいか。手錠を外せばお前の相棒になる。そこのお嬢ちゃんもだ。いいことたくさん教えてやるぞ?」
「この子に話しかけるな」

メルルさんとTドッグさんはいがみ合いながら話している。何を言ってるのかは未だにわからないけど、メルルさんのにやりとした不敵な笑みが私に向けられて、Tドッグさんはどうやら怒ってるようだ。唯一聞き取れた"いいこと"に反応して、それが何なのかと問いかける。すると、メルルさんはまたもや笑みを深くして口を開いた。

「わからないか?アジアンガール。セックスさ」
「あー...」
「おい、この子にそんな言葉をかけるな!!」

こうも露骨に言われると反応も素っ気なくなるものだ。苦笑をこぼしてこくこくと首を縦に振っていれば、メルルさんはなぜか上機嫌になって声をあげて笑った。

「意外にいけるクチか?アジア人は意外に好意的だよなぁ...一回経験したことがある。お前はそのちっちゃいお口でどこまで咥えてくれるんだ、え?アジアンガール」
「何度言ったら分かる?黙るんだ、メルル」

Tドッグさんが腕を伸ばして私をかばう。正直、言葉を投げかけられてるだけだしはっきり言って彼の言ってる半分ほども理解してないから、別にいいって感じだけど、庇ってくれるならありがたく庇ってもらおう。














地下の下水道で逃げよう作戦は失敗に終わったようだ。リックさんたちは険しい顔をして屋上に戻ってきた。

双眼鏡を覗きながら、デパート近くの路地にたむろっているウォーカーをながめて、対策を考える彼ら。私はTドッグさんの隣に座りながら、彼らの話しを聞いていた。

「あいつらは音に気づく」
「犬が呼べばくるのと同じさ」
「他には?」
「匂い」

手をあげてそう答えれば(本当はもっといいたいけど日本語でしか言えない)、モラレスさんが頷きながら「そうだ」と同意した。

「声や姿も判別する」
「奴らには死臭が漂ってるもの」

アンドレアさんも同じようにそう言った途端、リックさんの顔が急に曇りだした。グレンさんが「おいおいおい待て待て待て」と慌ててリックさんに詰め寄るけど、彼は暗い顔のまままた下に続く階段に近寄った。

「アオ!!」
「はい?」
「メルルに、近づかないように」

彼は再三そう言うと、また彼らをひきつれて下へ行った。また私とTドッグさんとメルルさんだけになる屋上。彼らはきっと、ここから逃げる方法でも考えているのだろう、もしも手筈がきまったらすぐにここから逃げる必要がある。私は、未だに無線機に向かって声をなげるTドッグさんの服の裾を掴んでひっぱった。

「どうした?」
「メルルさんの、手首」
「手首?」
「あー...鎖?」
「手錠の事か?」
「それです。外しませんか?」
「...正気か?」

"Are you crazy?"と、聞かれる日がくるとは思わなかった。思わず苦笑をこぼして、I'm not crazyと答えれば、Tドッグさんは首を横に振り、一瞬目を離すと私を諭すように口を開いた。

「今あいつを自由にするとどうなるかわかって言っているのか?」
「おうおう、いい子だ嬢ちゃん、もっと言ってやりな」
「お前は黙れ。...いいか?アオ。これは正当防衛だ、な?」
「でも...私達が逃げる時、彼、どうしますか?」

にやにやと笑いながらこっちを見るメルルさんを見て、呆気にとられるのも仕方ないけれど、ここに置き去りにするのもある意味後味が悪い。いいから手錠の鍵を外そうと、覚えたばかりの”手錠"という単語を連呼すれば、Tドッグさんはいいから落ち着けと私の肩を掴んだ。

すると、慌てて屋上にあがってきたモラレスさんたち。リックさんとグレンさんはいないようだ。立ち上がり、何があったのかと聞けば、ジャッキーさんがわかりやすい英語で説明をしてくれた。

「リックとグレンが今、下にいるわ」
「え?」

モラレスさんに双眼鏡を貸してもらい下を見ると、確かにわざとらしくふらふらと歩いている二人がみつかった。コートをきて全身血だらけだ。あの血は?と聞けば、アンドレアさんが小さい声で「奴らの血よ」と答えた。

絶句するとはまさしくこれだ。乾いた笑いをこぼしながら、双眼鏡をモラレスさんに返す。すると、頭の上にぽつぽつと雨が降りかかってきた。

「まずいぞ...」

モラレスさんのその言葉に不安そうな顔をするアンドレアさんに、ジャッキーさん。私は身を乗り出して、下を眺める。コンタクトをつけてないからよくわからないけど、リックさんとグレンさんは雨の中ウォーカーから逃げるために走りだし、車にのりこんだ。

「待ってまって...戻ってきて...!!」

車は街を立ち去る。二人で逃げ出したんだとアンドレアさんたちは不安を抱えながら叫ぶ。リックさんは見捨てるようなことはしないはずだ。きっと戻ってくるだろうと思って、私は縁から下がり、Tドッグさんの肩に腕を回す。

その時、無線機からグレンさんの声が聞こえた。その言葉を聞いた瞬間皆が荷物をまとめて慌てる。ジャッキーさんが、「リュックを背負って、逃げるわよ」と私の肩に手をおいてそう言った。首を縦に振って頷き、さらにTドッグさんの肩に回す腕に力を込めると、手錠をかけられているメルルさんが叫ぶ。

「おい、俺を置き去りにするのか!?それでも人間か!?おい、Tドッグ!!」

私はTドッグさんの肩から腕を離して、慌てて走り寄る。だからあの時外そうっていったじゃん!!と内心毒づきながら、メルルさんの手錠に手をかけた。

「Tドッグさん!!鍵!!」
「あ、あぁ...!!」
「先に行ってるぞ、Tドッグ、アオ!!」

モラレスさんが扉を閉じて走っていく。Tドッグさんが慌てて鍵をポケットから取り出し、それを受け取ろうと手を伸ばした時、Tドッグさんは焦りから足に何かを引っ掛けて転んだ。武器の入ったカバンが床に転がり落ち、鍵がゆっくりと排水溝に吸い込まれていく。

手を伸ばして、私も同じように腹ばいになってはみたものの、間に合わなかった。鍵はカランと虚しい音を立てて下に落ちていく。

「おい、ふざけんな、わざとか!?」
「ち、違う...!!」

非常事態に陥った時、一番冷静を欠くのは男だと昔お母さんが言っていた。こんな時にそう呑気に思ってはみたものの、現状は悪化している一方だ。鍵を拾うことは諦めるとして、どうにか手錠を外せないかと地面に転がってるノコギリみたいなものを手にして、手錠の鎖部分に刃を突きつける。

「そうだ、そうだ、いいぞ、アジアンガール!!そのままこの手錠を切れ!!」
「だめだアオ、君も逃げ遅れちまう!!」
「だけど!!」
「君を死なせるわけにはいかない!!」

Tドッグさんが私の脇に腕を伸ばして、軽々と持ち上げる。さっきまで負傷してたのにその力どこから出てきたの?と思ってても内心焦ってる。このまま逃げ出したら、非人徳な行為では?

「Tドッグさん!!メルルさんが!!」
「もうだめだ!!」
「ふざけんなよ、おい!!テメェ!!」

Tドッグさんに抱きかかえられたまま、私はわずかに見えるメルルさんに、手にしたノコギリを投げつける。

「あと少しで...!!」

切断を英語で言うことができない。

もどかしい気持ちのまま、ジェスチャーでチョップまがいなことをして伝えれば、扉が閉じられてメルルさんが見れなくなった。
階段を下っている間にも彼の悲痛な叫び声は聞こえる。どうしようもなくて、Tドッグさんは私を途中で降ろすと扉に近寄り、鎖をぐるぐるに巻きつけた。ウォーカーを入らせないためだとは思うけど、武器もないノコギリしかない彼にこれは、あまりにも残酷だった。






下に着き、皆のいる場所に無事に辿りつけば、けたたましい音が外から聞こえた。そしてシャッターを叩く音が聞こえて、アンドレアさんたちが慌ててシャッターをあげる。

「さぁ、いくわよ!!」

シャッターの外には車で来たリックさんがいて、彼に荷物諸々を渡して皆で乗り込む。リックさんに手を引かれて中に入り、最後に乗り込んだモラレスさんが車のシャッターを閉じた。

呼吸が荒い。死に物狂いでここに入り込んだのだからそりゃそうだけど、皆、口には言わないけど絶対に思ってるはずだ。

メルルさんがいないことに。

その状況に耐えられなかったのか、Tドッグさんが口を開いた。

「...手錠の鍵を落とした。最後まで、アオは助けようとしてたんだ」

私の名前を呼んで、そう言ったTドッグさんの言葉に全員が私を見る。
助けようとはしたけど、助けられなかったのだからどうしようもない。

「気にするな。アオもだ。誰も悲しまないさ。ダリル以外はな」
「ダリルって?」
「奴の弟だ」

やっぱりあの時頑張ってノコギリで手錠を切り離すんだった。家族のもとに戻れるはずだったのに、置き去りなんて残酷だ。私を憐れむ、もしくは慰めるように見てくる皆の視線から逃げるように、私はリックさんに、グレンさんは?と問いかけた。すると、乗っていたトラックの前を高い音をたてながら走り去っていく車があった。

「能天気な奴だ」

そう言ったのはモラレスさん。思わずその言葉に笑えば、アンドレアさんとジャッキーさんも笑いながら、私の肩に手を置いた。

車はどうやら、皆のアジトにしてるキャンプに向かってるようだ。
ガタガタの道を走りながら、着いた場所はキャンプ場。たくさんの仲間がいたとは。人の多いその場所をみて、思わず目を見開いた。

「紹介するよ」

車を止めて、モラレスさんがそう言うと助手席から外に出た。他の人たちも同じように車から降りていく。アンドレアさんやモラレスさんが、家族と抱きしめ合う姿を車から見て、なんだか自分のことのように微笑ましく思った。

「あー...リックさん」
「なんだ?」
「外、出ましょう?」

リュックの紐をきつく握り締めて、運転席にすわるリックさんの肩に手を置く。彼は弱々しく笑いながら、私を振り向くと突然お礼を言った。

「え?」
「ここまで来れたのも、君のおかげだ。それに、あの時きちんとお礼を言ってなかったね」
「あの時?」
「モーガンと一緒に助けてくれた時だ」

モーガン。

ゆっくりと話してくれるリックさんのおかげで半分ほどは理解できた。
モーガンという名前を聞いた瞬間、私は思わず彼の肩を掴む手に力を込める。

「ありがとう。君は命の恩人だ」

そんなことはない。むしろ私が今ここにいるのは、全部リックさんのおかげだというのに。

だけどそれをどうやって英語で言えばいいのかわからなかった。ただ頷くことでしか感情を表せられなくて、申し訳ない。

彼の肩から手を離して、一緒に車を出る。どうやらちょうど、グレンさんたちが私達を紹介してくれようとしていたらしい。皆のいるところに近づけば、急にリックさんが立ち止まる。そして見るからに狼狽しながら、こっちに走ってくる男の子と抱きしめ合い、女の人とも抱きしめあった。

まるで映画のワンシーンだ。

死に物狂いで逃げてきた場所で、彼が一番会いたがっていた家族と再会。こんなすごい奇跡ってあるのだろうか。
心の中では口笛クラッカー鳴らしながらの祝福モードだったけど、場違いにも程があると思ったので小さく拍手をするだけに留めておいた。

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